ZF

メインはtwitterで、ここは書庫。
twitter ID : @ZF_phantom

差別と母集団

2016年10月11日 | 時事・雑文


この記事は「差別とは人の営み」からの続きです。


『差別』を国語辞書で意味をひくと次のように定義されている。

①ある基準に基づいて,差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また,その違い。
② 偏見や先入観などをもとに,特定の人々に対して不利益不平等な扱いをすること。また,その扱い。

①には良いも悪いもない。ダメとされるのは②。

複数の辞書を参照しても、意味合いに大差ない。単語の用法は辞書で定義されている意味で使うのが基本である。そうでなければ会話が通じない。反差別界隈は「差別とはマイノリティに対して〜」などと力説しているが、辞書の記述には属性の母集団の大きさが条件化されているわけではない。

反差別界隈が、「差別」という語句にマイノリティ云々として母集団の大きさを条件化しようと画策しているのは、日本海を東海と書き換えさせようという企みと同種のものである。迎合してはならない。迎合すれば、日本で日本人に不利益不平等な扱いをすることを意味する単語が消滅してしまう。

例えばルワンダ虐殺で有名なルワンダの歴史では少数派のツチ族がかつて支配層だったことからわかるように、属性の母集団の大きさと権力の大きさは必ずしも一致しない。また、差別が行われる物理空間(部屋、居住区、自治体など)内での力関係や勢力図も属性の母集団の大きさとは関係ない。

さらには、国連の「世界人権宣言」を見ても「差別」と「属性の母集団の大きさ」を関連付けた記述はどこにもない。

世界人権宣言(仮訳文)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html

従って、反差別界隈が連呼するマイノリティ云々は単なる詭弁なので無視してよろしい。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。