イスラム原理主義
イスラム原理主義またはイスラーム原理主義(イスラームげんりしゅぎ、Islamic Fundamentalism)とは、シャリーア(イスラーム法)を規範として統治される政体や社会の建設と運営を目ざす政治的諸運動を指す用語である。アメリカ合衆国をはじめとするキリスト教圏諸国の非ムスリムによる、イスラーム主義運動に対する偏見やイスラーム過激派の武装勢力に対する敵対感情を反映した、往々にして否定的・批判的ニュアンスを帯びた呼称となっている。
日本では、「イスラム原理主義」という用語は英語の Islamic fundamentalism の和訳としてジャーナリズム等で使われて広まったものであり、今日一般には「イスラム原理主義」という用語法は無批判に受容されている。しかしながら、英語におけるファンダメンタリズムは本来はキリスト教の神学用語であったものが、一部の保守的キリスト教徒を嘲弄する意図の込められたレッテルとして使われるようになったという経緯があり[1][2][3][4][5][6][7][8]、本来はキリスト教に由来するファンダメンタリズムの語をイスラームに結びつけることの是非に関して議論がある。こうしたことからイスラーム研究の専門家の間では、イスラム原理主義の代わりに、イスラーム主義、イスラーム復興主義、イスラーム急進主義といった用語が使われる[9][10][11][12]。欧米では政治的イスラームとも呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%8E%9F%E7%90%86%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ISは、AQI(イラクのアル・カイダ)
アメリカ軍が親米イスラム国を引き連れてシリア領内を空爆した。シリア政府やロシア政府は、攻撃の前にシリア政府の合意が必要だとしていたが、今回、アメリカ政府は事前にシリア政府へ通告していたという。
攻撃のターゲットはIS(イスラム首長国。ISIS、ISIL、IEILとも表記)の拠点で、B-1爆撃機のほか、F-22、F-16、F-15、F/A-18などが参加、紅海から巡航ミサイルも撃ち込んだと報道されている。サウジアラビア、ヨルダン、バーレーン、アラブ首長国連邦も参加したという。アメリカをはじめ、攻撃したのはISを創設、支援、訓練してきた国々だ。攻撃情報がIS側へ流れていたとしても不思議ではない。
こうした国々はシリアのバシャール・アル・アサド体制を倒そうとしてきた。体制打倒のプロジェクトを顕在化させた2011年春、トルコにある米空軍インシルリク基地でアメリカの情報機関員や特殊部隊員、あるいはイギリスとフランスの特殊部隊員らが訓練していたのはFSA(自由シリア軍)。この戦闘集団もシリア国民に支持されていたわけでなく、体制転覆は実現できなかった。
同じ頃、リビアではアル・カイダ系のLIFG(リビア・イスラム戦闘団)がNATOの地上軍としてムアンマル・アル・カダフィ体制の転覆を目指していた。LIFGの創設は1995年だが、その中核メンバーは1980年代にアフガニスタンでアメリカ政府の傭兵としてソ連軍と戦っていた。
リビアではNATOの空爆が実現、LIFGとの連携で2011年10月にカダフィの殺害に成功してプロジェクトは一段落、武器や戦闘員の多くはシリアへ移動した。その際、マークを消したNATOの輸送機が武器をリビアからトルコの基地まで運んだとも伝えられている。
リビアから武器を運び出す拠点になっていたと言われているのがベンガジのアメリカ領事館。2012年9月に襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使を含むアメリカ人4名が殺された場所だ。そこから流れ出た武器の一部がISへ渡ったことをアメリカ空軍のトーマス・マキナニー中将も認めている。
これ以降、シリアで戦う反政府軍の主力はアル・カイダ系武装集団になる。その中から出てきたのがIS。2004年にAQI(イラクのアル・カイダ)として誕生、06年1月にはAQIを中心にしていくつかの集団が集まってISI(イラクのイスラム国)が編成され、10年に現在の体制ができあがっている。その翌年に中東/北アフリカで体制の打倒を目指す運動が活発化、「アラブの春」と呼ばれるようになった。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201409230000/