岩淸水

心を潤す

広瀬武夫

2008年07月30日 03時51分54秒 | 人物

 

広瀬武夫 ( ひろせ たけお旧字体:廣武夫 )

慶応4年5月27日(1868年7月16日) - 明治37年(1904年)3月27日)
明治の大日本帝国海軍軍人。
日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、
帝國の「軍神」である。
御魂は神として、靖国神社に、同胞と共に祀られている。
兄の勝比古も海軍軍人。

 

 

岡藩士・広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。西南戦争により竹田の自宅が焼失し、一家で飛騨高山へ転居した。飛騨高山の煥章(かんしょう)小学校(現・高山市立東小学校)を卒業後に小学校教師を務め、明治18年(1885年)に退職して攻玉社を経て海軍兵学校入校、講道館で柔道も学ぶ。明治22年(1889年)に卒業。入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。

兵学校卒業後、翌明治23年(1890年)2月まで軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海。その間に少尉に任官。半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事。この時期、静岡県清水に寄港し、清水次郎長と知己を得る。

明治27年(1894年)の日清戦争 に従軍し、同28年(1895年)には大尉に昇進。明治30年(1897年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。旅順港などの軍事施設も見学する。その後ロシア駐在武官となり、明治33年(1900年)に少佐昇進。明治35年(1902年)に帰国する。明治37年(1904年)より始まった日露戦争 において旅順港閉塞作戦に従事する。第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。享年36。即日中佐に昇進した。

 
海軍中佐廣瀬君之大偉勲, 廣瀬美邦画流れ着いた遺体はロシア軍により埋葬された。日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には昭和10年(1935年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなる。また、直撃を受けたさい、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。

wikipedia より抄出。画像の添付)

 

2012 05 11  押しつけ憲法 屁の如し 【わが郷

 

 

 
藤本隆宏
NHK「坂の上の雲」広瀬武夫役

 

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