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日露戦争

2010年11月11日 17時02分05秒 | 言葉の説明

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日露戦争 ( にちろせんそう )

英語: Russo-Japanese War
ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー
1904年(明治37年)28日 - 1905年(明治38年)95日)は、大日本帝国と ロシア 帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、190595日に締結された ポーツマス条約 により講和した。

 

 日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた[14]。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。

ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。広瀬武夫 少佐は、旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸の指揮を執る。撤退時に露西亜軍砲弾の直撃を受け戦死した。1904年3月27日のことである。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった[15]。

wikipedia より抄出、画像添付編集あり )

 

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