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対馬丸

2010年12月27日 08時00分00秒 | 言葉の説明

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対馬丸【岩水・言葉の説明】 対馬丸 ことばの説明

 

 対馬丸

対馬丸(つしままる)は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船。
日本郵船所有船としては初代。 太平洋戦争中の1944年(昭和19年)822日、
政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没し、
犠牲者数1,476名を出した。

二代目は、1979年(昭和54年)にパナマ船籍タンカー「ゴールデン・ウィスタリア」
(Golden Wistaria) を購入して改名したもので、総トン数87,516トン[4]。
1981年(昭和56年)からは藤栄海運との共有船になったが、
1982年(昭和57年)以降はブルネイで係船された。
(wikipedia)

 

 

 

 

2014 06 26   両陛下、沖縄の戦没者墓苑に献花 【共同】

 

 

 

 

 

対馬丸事件 【ねずさんの ひとりごと 】

米潜水艦のボーフィンは、潜航状態で観測を行いました。
船団には、哨戒機が2機が張り付いていました。
しかも船団は、レーダーを妨害するために、強烈なジャミングを発していました。
これにより、ボーフィンは、「当該輸送船団は、重大任務を負っている」と判断。
航空機の援護ができない夜間に攻撃をしかけることを決め、船団から約40キロの距離を置いて、ひそかに追尾しました。

夜になり、対馬丸では、引率教師たちが児童に、救命胴衣の着用を指示しています。

午後10時9分、米潜水艦ボーフィンは、船団との距離を2.5kmにまで詰め、艦首発射管から魚雷6本を発射しました。

対馬丸は、見張員がその魚雷を視認します。
ブリッジでは、艦長がただちに「取舵一杯、両舷全速前進」を命令しました。
けれど、近距離での発射です。
魚雷はみるみる接近する。

艦長の指揮で、1本目の魚雷は船首前方をかすめ去りました。
しかし、続く3本が、左舷の第一、第二、第七船倉に命中したします。
そしてすこし間を置いて、別の魚雷1本が第五船倉右舷に命中する。

魚雷の命中によって、船内にはおびただしい海水が流入します。
船体の保持困難とみた艦長は、即座に「総員退船」を命令する。

子供達を引率していた先生たちは、寝付いたばかりでなかなか起きない子供達を、蹴っ飛ばしてまで起こしたそうです。
そして海水の浸入するなか、船内から乗組員たちと一緒に、子供達をいちはやく梯子を登らせて甲板に出そうとした。
けれど、梯子を踏みはずして下に転落する子供、おびえて体が動かなくなる子供。そして、みるみるうちにせまってくる海水。

一方で、甲板にいる乗組員達は、やはり大急ぎで、救命艇や浮き輪、筏になりそうな器材等を海に放ります。
そうこうしているうちに、乗客の児童や教師たちが甲板に上がって来る。

乗組員達は、急いで海に飛び込むように指示するのだけれど、舷側が高くて、これを乗り越えられない者、夜の暗闇の海への恐怖にふるえて海中に飛び降りれない児童もいます。
船はどんどん傾いて来る。
乗組員達は、子供達を舷側から海に放り投げもしていたそうです。

そして魚雷命中からわずか11分後の午後10時23分、対馬丸は、大爆発を起こして沈没します。
爆風で、舷側にいた救命ボートが転覆し、何人かは吹き飛ばされて海に消えました。

その日、海は近づいている台風の影響で、大しけに荒れていました。
その荒れた海の上で、大声をあげて生存者を捜す者、せっかく来ていた救命胴衣が大きすぎて、そのまま海で溺れて沈む者。

護衛艦の「蓮」は、敵潜水艦による次の攻撃を避けるために、持っている機雷を全て海に放出しました。
そして護衛艦蓮と、宇治は、残った輸送船の暁空丸と和浦丸を連れて、全速力で現場を離れました。

これは正しい判断です。
すぐ前に、同じ海域で、湘南丸事件があったのです。
しかも、米潜水艦は、常に複数で行動している。
その場にいたら、他の輸送船の乗客達まで、犠牲になる危険がある。

一方、対馬丸の生存者は台風で荒れる海の上で、漂流しながら救出を待つことになりました。
漂流は、暴風雨、三角波、眠気、真水への渇望、飢え、錯乱等との戦いでもあったそうです。

漂流中、対馬丸の小関保一等運転士は、当初、10名ほどの児童が乗った筏につかまりながら、漂流している児童を見つけてはいかだに乗せました。
そうしてまる17時間、小関さんは救助した乗客達を筏に乗せ、自分は海に浸かったままで一昼夜を耐え、8月23日午後3時ごろ、付近を航行していた漁船2隻に救助されています。
このとき漁船に救助されたのは児童、一般人83名、兵7名、乗組員21名でした。

わずか10名の乗る小さな筏で、それだけ多くの人数の人命を保ったのは、海水が腰の高さまで浸水している筏にあって、小関さんが、とにかく「座れ、座ってろ!」という強い指示があったからでした。
彼は、嵐と高波に翻弄される筏にあって、重心を下げることで筏の転覆をついに防ぎきったのです。

同じく乗組員の吉田薫夫さんは、児童3名と筏で漂流しました。
子供達を励まし、軍歌を歌ったりして気を紛らしたりしたそうです。
けれど、体力の衰微とともに、2名の子供が相次いで死んでしまいます。
悲しみにくれながらも、吉田さんは、万一助かったときのためにと、亡くなった子供の遺体とともに、漂流を続け、翌々日の8月24日に捜索隊によって救助されています。

こうして、312名が救助されました。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍の救助隊や、軍から連絡を受けた奄美などの漁師たちの船によって救出されました。
いちばん長い人で、10日間もの漂流をしています。

けれど対馬丸の乗員1788名のうち、児童804名を含む、1,418名が、犠牲となられました。
犠牲者の遺体の多くは、奄美の宇検村などに流れ着いたそうです。
現地には慰霊碑が建立されています。
(この記事の全文は、こちら をクリックして、ご覧ください。)

 

 

 

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