岩淸水

心を潤す

通州事件

2011年09月15日 11時00分00秒 | 歴史

ねずさんのひとりごと


 

  記事の紹介です。


友愛精神を踏みにじった通州事件

 

1937年・・・また古い話を・・・などといわないでください。特アや在日の人たちが主張する南京事件や、慰安婦問題、竹島問題等々、いずれも古い話です。・・・当時、日本は満州国を建国し、東亜各国の独立を援助し、欧米列強の覇道政策に抵抗して、東亜諸国との真個共存共栄主義を打ちたてようとしていました。

 

その頃の中国は、国土を欧米列強に食い散らかされ、国内では、民主主義を標榜する国民党と、共産主義化を標榜する中国共産党が、互いに火花を散らし、内乱状態が続いていました。

 

近年、イラク等へ国連の平和維持部隊が進駐していますが、当時も同様、内乱の続く中国に、日本は、中国国内の平和維持活動のため、北京あたりまで兵を進めます。

 

日本は、盧溝橋あたりで、中国国民党軍と一緒に駐屯しますが、そこで起きたのが盧溝橋爆破事件です。

 

この事件は、中国国民党軍、日本軍の夜間演習中に、突然、両軍に宛てて発砲騒ぎがあり、互いに銃を撃ち合うという事件に発展したもので、いまでは、実は最初に発砲したのは、中国共産党であり、同党の「謀略」であったことがはっきりしている。

 

当時、国民党に対して劣勢だった中国共産党は、起死回生を図る為、日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、「漁夫の利」(つまりは、支那全土の支配権)を得ようと考えた。

 

結果的に狙いは的中し、日本はその後、8年間の長期にわたって、広大な支那大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になった。

 

「日中戦争」は、日本が中国共産党に仕掛けられ、嵌められた戦争だった訳です。

 

そしてその盧溝橋事件が起きた3週間後に起きた事件が、今日ご紹介する通州事件です。

 


通州事件は、盧溝橋事件の3週間後である1937年7月29日に起きました。

 

通州は、北京から18km、明朝時代に城壁が築かれた街で、天津からの集荷の拠点として栄えたところです。運河の街でもある。

 

北京郊外、東へおよそ18キロ。事件直前まで日本人にとっては「治安の良い」場所とされていました。そこには日本の平和維持部隊が駐屯していた。
治安のよい場所とされていたから、多くの軍関係者の妻子もいた。

 

通州には、親日派の「冀東防共自治政府」が通州を治めてもいた。
長官の殷汝耕は、日本人を妻にしており、しかもこの自治政府は、付近から雑兵を掻き集めて、9千人の「保安隊」を組織していた。
この中に悪魔がいた。

 


事件当日、通州にいた日本人は380名。このうち、軍関係者(男)は110名。残りは婦女子です。

 

29日午前3時。

 

突然、冀東防共自治政府の保安隊・・・「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊、合計で三千の保安隊・・・は突如、日本軍を襲撃します。

 

不意をつかれた日本兵は獅子奮迅の防戦をするけれど、3000対110名では、勝負になりません。襲撃と同時に日本兵30名が死亡。

 

この戦闘の最中に保安隊は自分達のボスだった殷汝耕を拘束。

 

そして同時に、日本人民間人の虐殺を開始します。
そして居留日本人380名中、260名が惨殺されます。

 

日本人居留民の家は、一軒残らず襲撃された。

 

以下は、女性の読者の方には、衝撃が強すぎるかもしれないけれど、そのままを掲載します。これが歴史の事実です。

 


虐殺現場を目撃した萱島高氏の東京裁判での証言
----------------------------------
旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。

 

商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
-----------------------------------

 


通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述
----------------------------------
近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。
足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。

 

本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。

 

陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。

 

帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。

 

女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。

 

折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。

 

帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。

 

女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。

 

1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。

 

その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。

 

子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。

 

南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。
--------------------------------

 

近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊だったといいます。

 

彼らは女中数名を惨殺、残る10数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑した。

 


支那駐屯歩兵第2連隊小隊長桜井文雄証人
---------------------------------
守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。

 

「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。

 

ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。

 

婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。

 

旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。

 

東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。

 

池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。
----------------------------------

 

実に悪鬼も目をそむける酷たらしい所業です。

 

これら、頭部切り落とし、眼球えぐり、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺などは、シナ人特有の日清戦争以来の、お決まりの惨殺パターンです。

 

婦女への強姦については、銃剣等で突き刺して殺害した後に、屍姦されたものも多かったといいます。

 

過日、終戦直後のシンガポールで、二木可南子さんという女性が、
(私が自殺したあと)「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです・・・」と述べたという話を書きました。
→たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり りんと気高く たじろぎもせず
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.html

 

 

 

  記事の紹介終わりです。

  関連記事     記事索引 索引

 

 つまり支那国内に進出した企業の日本人社員とか、その家族はこのような惨劇を知らないで、現地でうかうかとヘイワな日々を過ごしているのです。新聞も書かない、テレビも報道しない。しかしこの隠された歴史こそが、今回の尖閣上陸事件の、平和的な処理の影に、隠されているのです。

 

参考資料


Red Fox】さんより ← 膨大な記述内容と資料があります。お時間のある方は、ぜひお読みになって下さい。 (ただし支那側の残忍さが凄すぎます。その悲惨さは、相当程度の覚悟がなければ、ヒドすぎて読み通すことが出来ないと思われます。)

 

 ■ Site Information

■ 2009年7月9日
  「我が郷は足日木の垂水のほとり」 はじめました。
  本稿はその保管用記事です。

■ 2010年3月2日
人気ブログランキングへ   人気blogランキング(政治)にエントリーしました。

 

 人気プログランキングに戻るには、ここ クリック して下さい。 

 

 

   固定翼機が運用できる大型の正規空母建造も
わたしの里 美術館         わが郷 HOME

 

 

 

 

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 楽器 | トップ | 日本人ジャーナリストが驚く... »
最新の画像もっと見る

歴史」カテゴリの最新記事