小野田 寛郎 (おのだ ひろお)
1922年(大正11年)3月19日 - 2014年(平成26年)1月16日) )
日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉で情報将校だった。
陸軍中野学校二俣分校卒。
太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰国を果たす。
軍歴 [編集]上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され「卒業」ではなく「退校命令」を受領する。
1944年12月、遊撃戦指導の任を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた[2]。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された。派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)[3]。
日米開戦後日本軍の占領下におかれたフィリピンのルバング島に1944年12月31日着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約一個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に簡単に撃破され山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都のマニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。
その他エピソード [編集]戦時中に自身が体験した人間が持つ潜在的な能力にも触れている。本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったという。「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」 。命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だったという。
また『月刊秘伝』2004年7月号でのインタビューでは「直進する物は物理的に見えるんですよ。(中略)真っ直ぐ自分のほうに伸びてくるんだから見えます。(中略)撃たれたときは、火を噴いている銃口から見えた。(中略)相手の突きを避けられるのだから避けられますよ。」と語っている。自身の著書である『小野田寛郎―わがルバン島の30年戦争』でも、銃弾は飛んでくるとき蒼白い閃光を放つから、それを避ければいいと語っている。
(wikipedia)
2014 08 25 小野田寛郎さん靖國神社を語る…WiLL 2005年 8月号より 【ぼやきくっくり】
2012 02 12 日本には日本の正義がある 【わが郷】