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ウィリアム・タフト

2009年10月10日 04時49分25秒 | 人物

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ウィリアム・タフト 1857 ~ 1930 Anders Zorn 

ウィリアム・ハワード・タフト

(英語: William Howard Taft, 1857年9月15日 - 1930年3月8日)
第27代アメリカ合衆国大統領
および第10代連邦最高裁判所首席裁判官。
両方の職を務めた唯一の人物である。
(wikipedia)

 

 

生い立ち[編集]

1857年9月15日にオハイオ州シンシナティ近郊に生まれる[4]。母親のルイーザ・トーリーはマウント・ホリヨーク大学の卒業生であった。父親のアルフォンソ・タフトはピーター・ラウソン・タフトの息子、ロバート・タフト・シニアの子孫であり、著名な共和党員であった。彼は1839年にシンシナティで弁護士を開業し[5]、ユリシーズ・S・グラント大統領の元での陸軍長官を務めた。

ウィリアム・ハワード・タフト国立歴史史跡は、タフトが少年時代を過ごした家である。彼の生家はオリジナルの外観に復元されている。内部の4つの部屋は、タフトの少年時代の生活を反映した展示がなされ、2階にはタフトの人生を強調する展示品が公開されている[6]。

家族の多くと同じく、タフトはウッドワード高校に通い[7]、ニューヘイヴンのイェール大学に進学した。イェールで彼はライノニアン・ソサエティとスカル・アンド・ボーンズに加わった。スカル・アンド・ボーンズは1832年に彼の父親が共同して結成した秘密結社であった。彼はまた、プサイ・ウプシロンのメンバーでもあった。タフトはその体躯から「ビッグ・ラブ Big Lub」の愛称が与えられたが、大学の友人は「オールド・ビル Old Bill」の愛称で呼んだ[8]。彼は生涯を通してその体重に関する嘲りを受けた。フィリピン民政長官時代にタフトはワシントンD.C.に「今日は乗馬を行ったが、良い感じであった。」との電報を送った。陸軍長官のエリフ・ルートはこれに対して「馬はいかがでしたか?」との返信を行っている[9]。1878年、タフトは121名中2番の成績でイェールを卒業した[8]。卒業後はシンシナティ・ロー・スクールに入学し、1880年に法学位を取得した。在学中に彼は地方紙「The Cincinnati Commercial」で働いている[8]。


オハイオ州で法曹界入りした後、タフトはハミルトン郡の検察官に任命された[10]。1882年には内国歳入局の徴収官に任命される[11]。タフトは1886年にシンシナティで長年の恋人であったヘレン・ハロンと結婚した[10]。1887年にはオハイオ州高等裁判所判事に任命された[10]。1890年、ベンジャミン・ハリソン大統領はタフトを訟務長官に任命した[10]。任命当時の年齢は32歳で、2010年1月現在最年少の訟務長官である[12]。1891年には新設された第6連邦巡回区控訴裁判所判事に任命される[10]。1892年3月17日に上院の承認を受け、同日就任している[13]。1893年頃、タフトはピッツバーグ・レダクション社(現在のアルコア)のアルミニウム処理技術に関する複数の特許に関して有利な判決を下した。同社は1903年に当事者と和解し、短期間アメリカ合衆国における唯一のアルミニウム供給企業であった[14]。同社によるアルミ市場の寡占に関してタフトはアディソン・パイプ・アンド・スチール社対アメリカ合衆国(1898年)において意見を述べている。1896年から1900年までタフトは裁判官を務めると共に、シンシナティ大学法学部の教授および初代学部長として勤務した[15]。


大統領職[編集]

セオドア・ルーズベルトは大統領職を二期務めた後に、1908年の大統領選出馬を辞退した。代わりに、彼は次の共和党大統領候補としてタフトを指名した。ルーズベルトの支援でタフトは民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破った。

タフト政権下では、ルーズベルト前政権の方針を引き継ぎながらも、ドル外交と呼ばれる経済力を背景とした武力を伴わない平和的な外交を目指した。その一環として東アジアでは門戸開放通牒の原則に従い、列強の対中侵食を抑えつつ、中国権益の平等的な分配を目指したが、かえって列強の反発を招いて頓挫した。また、中米地域でも欧州諸国の資本を排除して情勢の安定を図ったが、結果的にアメリカ自身が武力介入をわざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となってしまった。

タフトは大統領職を通じて、共和党のリベラル派(その多くはルーズベルト前大統領の政策に従い続けた)からの異議と争った。

進歩的な共和党員は、公然と1910年の議会選挙および1912年の共和党大統領予備選挙でタフトに挑戦した。タフトが共和党指名を勝ち取った時、彼らは、本選挙でタフトに対抗するために新党(アメリカ進歩党または革新党、別名「ブル・ムース」)の結成と対立候補としてセオドア・ルーズベルトの擁立を計画した。ルーズベルトの進歩党からの立候補は共和党員の投票を二分し、民主党候補ウッドロウ・ウィルソンの勝利を招く結果となった。

 

ポトマック川の桜は、タフトの大統領在職中に東京市長尾崎行雄から贈られたものである。 

 

 

 

 

 アメリカの画家

 Anders Zorn  1860 ~ 1920 Anders Zorn

 

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