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九五式軽戦車(ハ号)

2012年03月12日 20時00分00秒 | 軍装備

 

                                     

 

 

 


九五式軽戦車(ハ号) Japanese Light Tank Type 95

http://www.youtube.com/watch?v=5F_NV_PYlM8


九五式軽戦車(95しきけいせんしゃ)とは、1935年(皇紀2595年、旧軍の兵器は昭和以降皇紀の下2桁で呼称)に制式化され、第二次世界大戦の終結まで大日本帝国陸軍が主に使用した軽戦車である。ハ号とも呼ばれる。

 

1920年代末の1929年(昭和4年)に仮制式化された、日本初の国産量産戦車である八九式軽戦車は、スペック上では、最高速度 25km/h で走行することが可能だった。
 
1920年代後半の開発当時、最高速度 25km/h という速度は、同時期の欧米戦車(ソ連のT-18、米国のT1中戦車、英国のヴィッカース Mark II中戦車)などと比較しても普通の水準であり、遅い数値ではなかった。むしろ輸入したフランスのルノー甲型や乙型(ルノーFT-17軽戦車やルノーNC27軽戦車)と比べれば速い方であった。
 
しかし1930年代前半になるとトラックを含む自動車の技術力や速度が向上し、八九式の25km/hですら、トラックの40km/hに追いつけず、不十分となった。また欧米では、1930年代に各国に広く輸出されたヴィッカース 6トン戦車や、ソ連の快速戦車BT-2が登場するなど、従来より高速を発揮可能な新型戦車が配備されるようになった。
 
さらに中国戦線における悪路、路外での投入では最高速度を発揮できず、8km/h ~ 12km/h 程度が実用速度となった。このような機動力では、歩兵部隊に随伴し支援を行うには問題ないが、しかし舗装路の整備されていない中国戦線で追撃戦を行うのには遅過ぎた。熱河作戦において、トラックとの協同作戦行動ができる戦車の必要性を痛感した陸軍は、機動力に富んだ「機動戦車」を求めた。

 

重量        自重6.7t[1] 全備重量7.4t
懸架方式    シーソー式連動懸架
速度        40 km/h (最大)    31.7 km/h (定格)
行動距離    240 km
主砲        九四式37mm戦車砲(120発)
副武装      九七式7.7mm車載重機関銃×2    (車体前部・砲塔後部 3000発)
装甲        砲塔外周12mm
            砲塔上面9mm
            砲塔ハッチ6mm
            車体前面上・下部12mm
            車体前面傾斜部9mm
            車体後面10mm
            車体上面前部9mm
            車体上面後部6mm
            車体底面9mm
エンジン    三菱A六一二〇VDe
            空冷直列6気筒ディーゼル
            120 hp (最大)
            110 hp (定格) 
            排気量14,300cc
乗員        3名(車長、操縦手、機関銃手)


 
また、八九式軽戦車は改修を重ね、最終的に車重11.8tとなった(八九式は後の1935年(昭和10年)に中戦車に再分類された)。八九式は、本来陸軍が英国からの購入を求めたヴィッカース Mark I軽戦車(11.7t)や、その代わりの参考用に輸入したビッカースC型中戦車(11.5t)のように、1920年代当時の世界水準に合わせて10t程度の戦車として開発されたものの、実際に運用してみると、10t前後という重量は決して運用できない数値ではなかったが、しかし十分な性能を持ちながら、かつ、船舶輸送や揚陸や渡河などの日本軍の戦車運用能力にもっとも適した重量は、6t前後であることが経験上判明した。
 
また八九式は足回りに小転輪を9個持ち、この小転輪を多数並べる形式は地形追従性は良いが高速走行に不向きで、かつ、転輪の数が多いので整備性が悪かった。
 
結果として八九式は、1930年代の日本陸軍のニーズに合っていない、遅く、重く、運用しづらいなど、「軽戦車としては」失敗作となってしまった(低速な歩兵支援用の中戦車としては運用可)。いわば八九式は1920年代の思想で作られた戦車群の最後発であり、1930年代の戦車の高速化の時代に対応できなかった、一世代遅れの戦車であった。
 
この頃、陸軍部内では機械化部隊の創設を模索している最中であり、主力となる新型戦車は、ある程度の数を揃える必要性と財政上の理由からも、安価な軽戦車とすることが決まっていた。こうして上述の要求(軽くて速くて運用しやすい)も加味した上で、八九式「軽戦車」の後継の、日本陸軍の機甲戦力の主力となる戦車として、九五式軽戦車は開発された。生産数は日本戦車としては最多の2378輛であった。

 

 
九五式軽戦車は軽量で快速だが小型で軽装甲で 37mm戦車砲の榴弾の危害範囲が狭いので、本車を補完するために、別途、八九式 「中戦車」 の後継として、八九式よりも速度と装甲厚を増した、九七式中戦車が開発されることとなった。榴弾の危害範囲が広いが装甲貫徹能力に劣る短砲身 57mm戦車砲を搭載した九七式中戦車は「火力支援戦車」「歩兵支援戦車」の色合いが濃い物であった。

97式中戦車

九七式中戦車  チハ (きゅうななしきちゅうせんしゃ -)


 
よく誤解されがちであるが、「九五式軽戦車が余りに非力で主力となる戦車になれない失敗作なので、九五式軽戦車の代わりに九七式中戦車が開発された」わけではない。また、「中戦車である九七式が主力となる戦車で、軽戦車である九五式が補助となる戦車」という見方は、第二次世界大戦後半の、軽戦車が役に立たなくなった状況からの間違った見方であり、開発当時は、あくまでも九五式軽戦車こそが主力であり、九七式中戦車はそれを補完する存在であった。いわば両車は、ドイツのIII号戦車に対するIV号戦車のような、イギリスの巡航戦車に対する歩兵戦車のような、関係であった。


 
このような日本陸軍の戦車運用に関する戦闘教義が変化するのは、試製九八式中戦車に試製四十七粍戦車砲を搭載することによって、中戦車にも強力な対戦車戦闘能力を求めるようになった、1939年(昭和14年)頃からだと考えられる

 

 

1933年6月に設計が開始され、1934年6月に最初の試作車が完成した。千葉県の富津射場などの射撃試験、碓氷峠など関東平野各地で走行距離710キロの運行試験が行われた。最大時速は時速43キロを発揮したが重量が7.5トンを超過したため軽量化されることとなった。引き続き試作が継続され、1935年11月に二次試作車が完成する。騎兵部隊や戦車部隊などでの各種試験と重量軽量化など改良が繰り返された。1936年11月には量産型と同じく砲塔に機銃が追加された増加試作車が完成する。満州で寒冷地試験が行われた後、九五式軽戦車として制式採用された。
 
3人乗りの小型の車体に全周旋回可能な37mm砲という組み合わせは、開発当時には世界的に見て標準的なものであった。ただし、採用された九四式三十七粍戦車砲は、歩兵砲である狙撃砲の改良型であり、長砲身化したものの砲尾等の強化はされず、同年に制式化された九四式三十七粍砲のような初速の高い弾薬は使用できなかったため、同時代の同口径の戦車砲を装備した他国の戦車、及び同口径の対戦車砲全般に対して本車は装甲貫徹力の面で大きく劣ることとなった。後に[2]九四式三十七粍砲の弾薬筒をそのまま利用できる九八式三十七粍戦車砲を搭載するようになったが、当時既に九四式三十七粍砲自体M3軽戦車などの当面の目標に対して貫徹力不足であり、劣勢が変わることはなかった。
 
歩兵砲由来の戦車砲を搭載したことによる貫徹力不足は、同じく37mm歩兵砲由来の主砲を搭載したルノーR35などと共通する問題点であった。但し、R35はスペイン内戦の戦訓を受けて1939年から既存車両の主砲の換装を始めており、結果的にフランスの降伏までに全車両の換装は間に合わなかったものの、本車よりも早くから対策が講じられている。
 
また、同時期に登場した他国の37mm程度の砲を装備した軽戦車(ルノーR35、BT-5、LT-38など)が概ね10t前後の車重を有したのに対し、本車はそれより一回り少ない約7トンに制限されたことは、本車の限界を決定付けた主要因となった[3]。これは日本は島国であるが故に、戦車を国外に移動させる時は船舶を用いざるを得ず、当時の標準的な港湾設備や船舶のクレーンの能力から重量を6t以内に収めることが要求された結果の選択であったとも言われる。当時の日本の技術力では高出力軽量の戦車用ディーゼルエンジンが開発できず、エンジン重量がかさんだこともあり、装甲厚を薄くして車重を軽量化するしかなかった。
 
装甲については用兵者側でも評価が分かれていた。騎兵科では、自動車と行動できる機動力を確保するため、装甲防御力が若干落ちてもやむをえず、装甲の弱さは機動性を生かした総合的な防御力で補えばよいとした。他方、歩兵科系列の戦車部隊は、機動力・武装は十分だが装甲については現状では不十分で、このままでは戦車としての価値は低く、せめて装甲30ミリは欲しい、と主張した。最終的には、本車の当初の開発意図である「機動戦車」としては12ミリの装甲厚で十分との結論が下された。
 
本車は八九式中戦車乙型の「三菱A六一ニ〇VD」(イ号機とも呼ばれる)をコンパクト化した、「三菱A六一二〇VDe」(「ハ号機」とも呼ばれる)空冷直列6気筒ディーゼルエンジンを搭載した。六一二〇とは6気筒120馬力の意味である。エンジンは車体後部右側に偏って配置された。消音器とルーバーも車体上の右側面に配置された。履帯幅は250mmであった。
 

 


ニューブリテン島で行動する九五式軽戦車。車体右側に立った兵士と比較しても車体の小型さが分かる。1945年撮影。


結果として、本車の走行速度は充分であり機動性は良好なものとなったが、最大装甲厚はわずか12ミリとなった。実戦においては各地で機動力を発揮した一方で、同時に被弾箇所によっては小銃弾すら装甲を貫通するという防御力の弱さゆえの苦戦も強いられることとなる。なお、小銃弾にも耐えられないという問題に対しては、車体側面の砲塔基部に避弾経始に優れたバルジ(張り出し)状の装甲を追加する一応の改良が行われ、量産車の生産に適用された。
 
車内レイアウトはお世辞にも良いとは言えず、人間工学的に無理があった。特に狭い砲塔には前方の37mm砲に加え、砲塔後部に車載機関銃が詰め込まれ、その両方の装填から射撃までを車長一人で操作しなければならなかった。

 

攻撃力

本車には九四式三十七粍戦車砲が搭載され、後期型には威力が向上した九八式三十七粍戦車砲が搭載された。 両砲の薬筒は完全弾薬筒式であり、弾頭は同一であるが弾薬筒全体では九四式三十七粍戦車砲は九八式三十七粍戦車砲や九四式三十七粍砲との互換性は無い。
 
九四式三十七粍戦車砲は、ルノーNC型戦車に搭載されていた旧式化した狙撃砲の後継と言えるものであり、同年に制式化された九四式三十七粍砲のような初速の高い弾薬は使用できなかったため、同時代の同口径の戦車砲を装備した他国の戦車、及び同口径の対戦車砲全般に対して装甲貫徹力の面で大きく劣ることとなった。
 
九四式三十七粍戦車砲は、軟目標射撃用の榴弾として九四式榴弾、及び一式榴弾、硬目標射撃用の徹甲弾として'九四式徹甲弾、及び一式徹甲弾を使用する。 また演習弾として九四式榴弾代用弾、九四式徹甲弾代用弾を使用した。
 
九八式三十七粍戦車砲は、九四式三十七粍砲と弾薬は同一であり共用可能であった。
 
九八式三十七粍戦車砲と貫通威力が近似すると思われる(弾薬筒が共用であり初速の差が約15m/秒程度)九四式三十七粍砲の場合、九四式徹甲弾の装甲板に対する貫徹能力は350mで30mm(存速575m/秒)、800mで25mm(同420m/秒)、1,000mで20mm(同380m/秒)であり[4]、一式徹甲弾(全備筒量1,236g)の貫徹能力は第一種防弾鋼板に対して射距離1000mで25mm、至近距離の砲口前では50mmであった[5]。 これらの徹甲弾は弾頭内に炸薬を有する徹甲榴弾(AP-HE)であり、貫徹後に車内で炸裂して乗員の殺傷及び機器の破壊を行うのに適していた。
 
九四式三十七粍戦車砲用に配備された一式徹甲弾(全備筒量1,056g)は弾薬筒が短縮されており、九八式三十七粍戦車砲・九四式三十七粍速射砲用の一式徹甲弾(全備筒量1,236g)より威力は低い。
 
したがって九八式三十七粍戦車砲を装備した後期型の本車であっても、M4中戦車の車体側面・後面(装甲厚約38mm)やM3軽戦車の正面装甲に至近距離から正撃に近い形で命中させなければ貫通は困難と思われる(後述する実戦での事例においてM4中戦車を撃破した可能性のある事例が存在する)。
 
なお、日本陸軍の対戦車砲全般に対し、貫徹能力の低さについて「当時の日本の冶金技術の低さゆえに弾頭強度が低く徹甲弾の貫徹能力が劣っていた」と揶揄されたり、徹甲弾弾頭の金質が悪かった[6]という指摘、装甲板に当たると弾頭が砕けたり滑ってしまうため、貫徹力が発揮できなかったという指摘がある。九四式三十七粍砲及び九四式三十七粍戦車砲で使用された九四式徹甲弾や、九〇式五糎七戦車砲と九七式五糎七戦車砲で使用された九二式徹甲弾等は、弾殻が薄く内部に比較的大量の炸薬を有する徹甲榴弾(AP-HE)であり、厚い装甲板に対しては構造的な強度不足が生じていた[7]。後にこの点を改善した一式徹甲弾が開発・配備されることとなった。なお、九四式徹甲弾も制式制定当時の想定的(目標)に対しては充分な貫通性能を持っていると判定されて採用されたものである。
 
※諸外国の例としてアメリカのM3 37mm砲の徹甲弾(AP)である「AP M74 shot」は砲弾の中心まで無垢の鋼芯であり、構造的な強度上では砲弾の中心に炸薬がある五糎七戦車砲の九二式徹甲弾や九四式三十七粍砲の九四式徹甲弾のような徹甲榴弾(AP-HE)よりも有利である事が分かる。

本車は、他国の戦車の設計思想が対戦車戦を意識するようになりつつある中で開発された、日本初の対戦車戦闘を考慮した戦車である。しかし、その対戦車能力はお世辞にも高いとは言えず、敵となった装甲戦闘車輛との戦闘では常に苦戦を強いられた。一方で機動力が優れており、中国軍などの対戦車能力の低い軍隊との戦闘ではそこそこの活躍をみせた。
 
初めて九五式軽戦車が本格的に投入されたノモンハン事件では、3輌一組のフォーメーションを組んだ上で、ソ連軍のT-26軽戦車やBT-5戦車と戦闘し、撃破に成功した事例も存在する。これは猛訓練の結果でもあり、無線をほとんど使わずに行動する「以心伝心」の様なものであったとされるが、基本的に装甲が薄い同時期の軽戦車が相手であれば本車の九四式37mm戦車砲でも対応可能だったことも窺える。ただし、同事件での戦車部隊の作戦期間は短期間だったこともあり、戦車単独での戦果はごく少ない。同事件でソ連戦車を多数撃破したのは歩兵連隊の九四式37mm速射砲であり、敵味方ともその戦果を高く評価している。
 
日本と友好関係にあったタイにも40輌から50輌が輸出され、太平洋戦争の開戦前に仏領インドシナとの間に起こった国境紛争で活躍した。ただし、温度変化の影響か、1/4以上の車輛について装甲に自然にひび割れが生じる不具合が起き、クレームが付けられる事態となった。
 
太平洋戦争(大東亜戦争)では九五式軽戦車は苦戦を強いられた。序盤のフィリピン侵攻作戦においてアメリカ軍第192戦車大隊(en:192nd Tank Battalion)所属のM3軽戦車と遭遇した事例(1941年12月22日、アメリカ軍にとって第二次世界大戦最初の戦車戦とされる。)では、九五式軽戦車がM3軽戦車小隊5両を撃退することに成功したものの、序盤のビルマ侵攻作戦においては、イギリス軍のM3軽戦車と遭遇した事例(1942年3月5日)では、九五式軽戦車が次々とM3軽戦車に命中弾をあたえたにも関わらず、全て跳ね返された。
 
M3軽戦車はフランス戦の戦訓からM2軽戦車を元に開発され、本車の約2倍の重量があり(12.7トンと八九式中戦車よりも重い)、車体前面で38mm、砲塔前面で51mmの装甲を施されていた。これは、本車の九四式三十七粍戦車砲では砲口初速でも射貫できない装甲厚である。他方、M3軽戦車の37mm砲は当時の同口径の戦車砲及び対戦車砲の中では最も貫通力が高く、有効射程内のどの距離でも九五式軽戦車の装甲を正面から貫通できる性能を持っていた。九五式軽戦車は、最終的にはM3に体当りまでして応戦する羽目に陥った。
 
一方でエンジンの故障も少なく長距離走破にもよく耐え、緒戦のマレー作戦やフィリピン攻略戦などで活躍した。中にはマレー半島からスマトラ島へ転戦し、2,000km以上の行軍に耐えた車輛もあった。
 
後半の防御主体の作戦では、火力も装甲防御力も不足が明らかだったが、後継車両の不足から終戦に至るまで様々な戦線へと投入された。タラワの戦い、ペリリューの戦い、サイパンの戦いでは海軍陸戦隊も本車を使用した。
 
タラワの戦いにおいては本車及び九四式三十七粍速射砲によって米海兵隊のM4中戦車を撃破した可能性のある事例が存在する(米軍側の記録では米海兵隊第1戦車大隊C中隊第3小隊所属の車輌名"Charlie"は47mm対戦車砲による撃破となっているが、タラワ防衛を担当していた日本海軍の第3特別根拠地隊に配備されていたのは九五式軽戦車及び九四式三十七粍速射砲であり一式機動四十七粍速射砲の配備は確認されていない。)。[12]
 
しかし、敵戦車の装甲の薄い側面や後面に至近距離まで接近して先制射撃するには多くの条件が揃わなければならず困難であった。
 
そして、陸海軍いずれにおいても、強力な連合軍戦車や対戦車砲、バズーカ砲などの前に為す術もなく撃破された

 

戦後の運用 [編集]
 
終戦時の時点で九五式軽戦車は、日本本土の各部隊に446輛前後、南方軍 (日本軍)には132輛前後が残存していたと思われる[13]。その他、中国大陸などの各方面軍における残存数は不明である。
 
生き残った車両は大部分が解体されたが、一部は八幡製鐵所など壊滅を免れた工場へ送られ、砲塔や機関銃などの武装を撤去した上で、ブルドーザーや牽引車として戦後復興に活躍し、警視庁ではキャビンを拡大した改造型が警備用装甲車両が充実する昭和40年代まで配備されていた[14]。また北海道中央バス石狩線で積雪対策として馬そりを車輪代わりに使う雪上バス「バチバス」の牽引車として用いられていた[15] (参考画像)。
 
中国大陸において中国の軍隊組織に引き渡された車輛は、1945年 - 49年にかけて行われた国共内戦で両勢力により使用された。ちなみに、中国共産党軍が初めて編成した戦車隊は本車で構成されていた。
 
フランス領インドシナに残された車輛はフランス軍が接収し、独立運動勢力に対する戦闘で使用された。さすがに最大装甲厚12mmでは不安だったのか、この車両には車体前面、戦闘室前面および砲塔側面に増加装甲が施されていた。ちなみに同地では八九式中戦車の使用も確認できる(本車と一緒に写る写真が残っている)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%BA%94%E5%BC%8F%E8%BB%BD%E6%88%A6%E8%BB%8A

 

 

 

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