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待ってました!このお題w と言いながら、全部は書けないくらい多い。
まず小学生の夏休み、読売新聞の新聞配達をしました。小遣い欲しさに始めた
のですが、そんなに長くは続きませんでした。理由は下痢。配達途中にどうにも
こうにも我慢できなくなり、配達先でトイレを借りたのですが、残りの配達時間が
かなり遅れたんですね。それで苦情がきたので配達所の経営者に(普段は温厚
なのですが)怒られ「腹が痛くて便所に行きたかったんじゃけ仕方ないじゃろ」と
切れてその日のうちに辞めました。途中で投げ出した私の代わりに、責任を感じた
親父が翌日から次が見付かるまで新聞を配っていました。思い出すと泣きそうにな
ります。「新聞配達を許したワシが悪かった。小学生じゃあ無理よ」と私を全く叱
らず「ええよ、ワシが配ってくるけい」と・・・
中学の時は1つ。それは、今は大手デスプレー会社で取締役に出世しているT君と
(どちらが見つけてきたか忘れたが)工場での超単純作業に行った。なんかの5セ
ンチくらいの部品の真ん中に電気ドリルで穴を開けるだけの仕事。ただただ、この
作業を(1つ5秒くらい)昼まで4時間した。そして昼休憩にどちらからともなく「逃げ
よう」と云うことになり「昼飯食って来ます」ってそのままトンズラ・・・
だから2回目までのバイトはすぐにけつを割っています。情けない奴です。
高校時代は、坂にあったボーリング場(名前を忘れてしまった)の厨房で春休み中
働いた。これは大変面白く、焼き飯と、ナポリタンは任せてもらえるまでになり、
ここのバイト経験で料理が出来るようになった。
決まったバイトはこの厨房だけで、あとは大須賀町踏み切りの向こうに「たちんぼ」
と云われる日雇いのバイトを求める人や雇いたい人が集まる場所があり、そこに誰
に連れて行ってもらったのか忘れたが、休みにはよく行って小遣いを稼いでいた。
当時はサッカー部を辞めたばかりで、体力に自信があったので、かなりの肉体労働も
平気だった。ただ、だれに、どんな仕事をさせられるか分からないのが怖かったかな。
20回は行ったと思うが、大体が工事現場の資材運びとか穴掘りとかだったが、1つ
今もよく覚えてる仕事がある。それは廃品回収と云うかゴミ捨て場から資源ごみを漁
る仕事で、夏だし、臭いし、周りの目もイヤだった。「こんなんイヤです」と言えな
い雰囲気の方だったので、約束の夕方まで某スーパーのゴミ捨て場で、社員やバイト
がゴミを捨てに来る度に、資源ごみを除けては括ったり積み重ねたり漁っていた。
大学時代はまず、町田の「ドンゴロス」と云う喫茶店。たまたま入って募集の貼紙を
みて鹿児島阿久根市の果樹園の息子のO石と一緒に始めた。1年は働いたかな。マス
ターが玉川大学のゴルフ部OBで、私とO石以外全員バイトは玉川大学ゴルフ部の奴
らで、ほぼ全員外車に乗っていたw奴らバイトしなくても暮らせるのだが、OBの店
なのでたまり場的にバイトをしていただけで、馬鹿にはされないがなんか住む世界が
違ったよね。だから店を出た後一緒に遊んぶことはなかった。ここでも料理のレパー
トリーが増えたw
次に町田のスタンド。おぼっちゃまお嬢様と話があわないこともあり、ドンゴロスを
辞めたかったので新聞を見て行った。厨房でつまみを作るのが仕事だったが、ここで
酒のつまみや、出汁茶漬けを覚えた。(この茶漬けは、ママンサが1番美味しい、パパ
と結婚して良かった数少ないものかね。と言う)
ここね、その筋のお客さんが多く何回か怖い思いをした。片腕の常連さんが酔っ払い
店で暴れ始めた。当然バイトの学生が止められるわけはなく、黙ってみていただけな
のだが、誰が連絡したのか?たまたまなのか?上の人(若頭と言っていた)が入って
来たんですよ。暴力をふるうでもないのに、片腕さん借りてきた猫以上にシュンとな
り、謝る謝る。
「学生、ゴメンな。お詫びにご馳走するから着いて来いよ」(汗)断れるわけがない
「ははい」右手と右足を一緒に出して歩いて着いていきましたよ。ステーキハウスに。
幸い私がビッタレだったので、スカウトされることもなく、ステーキをご馳走になった
あと「なんか困ったことがあったら訪ねてきな」と名刺を頂きましたが、お伺いするわ
けがないw
次が2回だけだが、三船プロの通行人ややくざのその他大勢wのアルバイト
そして、東都観光バス府中営業所の「金タマガイド」私が云うのではなく、その会社
が男子学生の車掌と云うか添乗員と云うか、ガイドは高くつくので学生アルバイトで
いいよ。と云う観光バスのアルバイトなのですが、日当5000円は当時魅力的でし
たし、あと泊が付くと1.5倍になるのです。だから1泊2日は12500円。おまけに
食事はお客様と同じものを、従業員控室でただでいただくのだが、だいたい常識の範囲
で酒もただ。また、当時はまだ景気が良かったので、お土産屋のバック(お客さんが買
われた金額の10~20%が返金されるのですが)それをドライバーさんと分けるので
すが、1万円は入ってた。ま、正社員なのでドライーア7のバイト3くらいが普通です
が、中にはキッチリ半分こしてくれるドライバーもいた。今はチケット制で会社に返す
ようです。
そして、お客さんから9割の確率でチップがあった。だいたい2000円くらいです。
だから、10日働いて(1泊2日が5回くらい)チップとあわせれば軽く10万円は
毎月超えていました。裕福でしたw
とっても残念なのは「尾瀬探」と云って、水芭蕉の季節に尾瀬に夜行バスが何台も出る
のですが、3年間で20回は尾瀬に行っているんですね。しかし「いつでもまた来れる」
とドライバーさんが言い、着いたらすぐ麻雀をしていたので20回は行った尾瀬ですが、
旅館の中しか知りませんw
ほぼ全部書きましたが、長いだけで、特に面白くなかったwごめんなさいw
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おもしろかったです~!!!
⑦パパさんがお料理上手な理由がわかりました!
観光バスのアルバイトって、ガイドさんをするのですか?
「右に見えますのは~」って。
私は大学の掲示板でバイトを探していましたが、
パパさんは新聞だったのでしょうか?
今みたいにインターネットとかなかったですもんね。
母の里が新聞販売店じゃったので
しぶしぶ・・・・
辛かったな~~
十分面白かったです。
反社会的勢力との場面は怖かったでしょうね。
これだけ働けば相当儲かっているはずですが,かなり「没収」されましたか?
料理のレパートリーが増えて,ママンサさんは⑦パパさんのバイト経験に感謝されていることでしょう。
「本日は東都観光バスをご利用くださいまして、
ありがとうございます。本日皆様とご一緒させて
いただきます担当ドラーバーは○○、車掌は私
サカタでございます。走行中大変危険ですので
窓から顔や手や『足や尻』を出さないでください」
でしたが、これ、受けたんですよw
ってお母さんの実家のお手伝いかw
でもやっぱ偉いよ。
雨に日や野良犬が嫌だったよね
東都観光バスは儲かりましたね。儲かったというより
飯が出るじゃないですか。チップも。だからそこで働い
てる時はお金が一切要らないんです。だから仕送りで
家賃や本代(当事は凄い読書量だったので)は足り
バイト代は卒業まで手付かずで貯まりました。300万
近く有ったのですが社会人1年目で全部夜の街、流川
徳島の鷹匠町、高知の帯屋町で消えましたw
たくさん、バイトされたのですね。
こわいのも(^_^;)
料理が出るバイトがやはり好きでしたね~私も
沢山の経験をされてきたのですね。
そして、
面白いコトに出会う才能もあるのですね。
スゴイです!