夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

町屋二丁目から町屋駅前へ

2011-02-28 20:09:46 | 都電荒川線に沿って

 次の停留所に行く途中、左の道に入って原稲荷に行く。この稲荷、町屋稲荷ともいい、家康入府にともない三河の農民がこの地に移住した際に創建したと伝えられている。稲荷社の境内を抜けて、稲荷前の商店街を歩き、町屋駅前の停留所に行く。

 この停留所の開業は昭和2年で、停留所名は稲荷前であった。最寄りの京成本線町屋駅が昭和6年に開業しているので、その事を見越して停留所を設置したのかも知れない。停留所名は、昭和26年に町屋一丁目に、昭和52年には町屋駅前となる。

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東尾久三丁目から町屋二丁目へ

2011-02-24 19:12:53 | 都電荒川線に沿って

 東尾久三丁目の停留所から南に入り阿遮院の前に出る。尾久では最も古い寺で、石神もこの寺の持ちであったという。また、この寺に昔あった大門から、大門という地名が出たと言う説もある。この寺を過ぎて、尾久本町通りのT字路に出る。尾久本町通りは、ここから西に尾久橋通りを越えて続いているが、江戸時代の道は、現・尾久橋通りの手前で左に折れて田端に向かっていた。今回はT字路を左に、東に向かって歩く。左折してすぐ、南に向かう道は、新堀(日暮里)に出る江戸時代の道の名残である。尾久本町通りの道を進んで、山門の赤が目立つ満光寺を過ぎ、信号のある道路を渡る。その先の左に入る道は、下尾久と町屋の境をなしていた江川堀の水路跡と思われる。江戸時代、尾久の田畑を潤していたのは、石神井川から分かれた下郷用水(音無川)から分水した用水で、田端から下尾久への道に沿って流れたあと、枝分かれして流れていた。江川堀はこの用水を荒川(隅田川)に流すものだが、下尾久の村絵図には記載が無い。明治と大正の地図では、荒川(隅田川)に流れ込む水路と、尾久の灌漑用水の間が切れており、江川堀の流路は途切れているように見えるが、より詳細な地図を見ると、細い水路ではつながっていたようである。昭和12年の地図には、満光寺の前から、現・第七峡田小近くの荒川(隅田川)に流れ込む江川堀の流路が記されている。ただし、堀として整備されていたのは下流の一部だけで、他は小川のような流れであったらしい。なお、現在は江川堀の全てが暗渠になっている。江川堀の水路跡を過ぎて少し行くと、町屋二丁目の停留所に出る。

 町屋二丁目の停留所の開業は大正2年で、当初の停留所名は町屋であった。町屋という名から、古くから開けた場所であったという説もあるが、江戸時代から明治・大正にかけての町屋は農村地帯であった。町屋に移住する人が急増したのは、関東大震災以降で、その結果、住宅と商店と町工場が混在して密集する地域になったということである。

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熊野前から東尾久三丁目へ

2011-02-20 19:24:08 | 都電荒川線に沿って

 テレビで見たことのある光景が、また見えるかもしれないと思い、熊野前停留所の南側にある熊野前商店街を少し歩くが、途中で引き返し、交差点を渡る。熊野前陸橋と舎人ライナーを一まとめにして下を潜ると、熊野前停留所の三ノ輪橋方面行ホームがあり、その先で道路は右斜め方向に曲がっている。その前方に、東京スカイツリーの上部が見えている。この辺りは上尾久と下尾久の境で、三ノ輪線が開通した頃は、一面の田畑だったところである。少し先で道路を渡り、石門通りという標石のところから入る。石門通りの名は、石神と大門という地名から名付けたという。そこで、その石神を見るため、見当をつけて横道に入り、尾久石尊の祠に行く。石神は自然石ということだが、古くは何か意味のある石であったのかもしれない。

 そのあと、石門通りに戻って尾久の原公園に行く。工場の跡地を、池のある原っぱにした公園で、何も無いのが特徴といえる公園である。この公園の北側、隅田川の近くまで行くと、公園の池越しに東京スカイツリーが見える。 

 公園を後に南に行き、ぬりえ美術館のところから右に入り、曲がりくねった道を歩く。江戸時代の村絵図に記されている道の名残と思われる。この道を歩いて東尾久三丁目の停留所に行く。停留所の向こうのビルの上に、東京スカイツリーが少しだけ見えている。この停留所の開業は大正2年、当初の停留所名は下尾久であった。

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宮ノ前から熊野前へ

2011-02-13 10:25:15 | 都電荒川線に沿って

 宮ノ前の停留所の開業は昭和2年頃。当時、周辺は歓楽地となっていたので、乗降客は少なくはなかったのだろう。当初の停留所名は宮の前であったが、後に宮ノ前となる。その名は尾久八幡神社に由来する地名による。この停留所から先へ行くと、熊野前陸橋が見えてくる。その手前に、熊野前停留所の早稲田方面行きのホームがある。

 熊野前停留所の開業は大正2年で、その名は熊野神社に由来する地名による。この地にあった熊野神社は、明治時代に尾久八幡に合祀されてしまったが、地名だけはそのまま残っていたらしい。現在、この停留所は日暮里・舎人ライナーの乗換駅にもなっている。

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小台から宮ノ前へ

2011-02-10 19:02:06 | 都電荒川線に沿って

 小台で道路の南側に渡り、宮ノ前に向かって歩いて行くと、右側に碩運寺という寺がある。大正3年、この寺にラジウム温泉が湧き出すということがあって、寺の湯として評判になり、それが温泉旅館として独立し、さらに周辺に温泉旅館が林立するようになり、やがて花街が生まれて、一大歓楽街となる。大正から昭和にかけてのことだが、今は、その面影も薄れて普通の町になっている。

 道路を向こう側に渡って、尾久八幡神社に行く。この神社は、尾久と船方の鎮守で、熊野神社も合祀している。宮ノ前の停留所は、この八幡神社の目の前である。かつて、この神社の北側と両側には、荒川(隅田川)から引かれた八幡堀と呼ばれる堀割があり、船が入るようになっていたという。上尾久村一帯には、石神井川から分かれた下郷分水(音無川)から分水した用水が灌漑用として流れていて、八幡堀にもつながっていたようだが、現在は、この用水も八幡堀も消滅している。

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荒川遊園地前から小台へ

2011-02-04 19:51:15 | 都電荒川線に沿って

 停留所から北に行くと、あらかわ遊園がある。その前身は、大正11年、煉瓦工場跡地に作られた私立の荒川遊園である。この遊園地は、昭和7年に王子電気軌道に売却され、王子電気軌道直営の遊園地となる。しかし、戦時中は高射砲の陣地となって閉園状態となる。昭和25年になって、荒川区立のあらかわ遊園となり、現在に至る。

 今回は、あらかわ遊園の中には入らず、外側を歩いて隅田川に出る。右側には小台橋が見えている。川に沿って歩き小台橋まで行く。この橋が架けられたのは昭和8年のことで、それ以前は船渡しであった。江戸時代からあった小台の渡しがそれで、渡し場は小台橋の近くにあったという。小台橋まで行ったついでに、橋の中程まで行き、東京スカイツリーの位置を確かめてから、小台の停留所に行く。

 この停留所の開業は、三ノ輪線開通と同時で大正2年のことである。当時の停留所名は、小台ノ渡。まだ小台橋が無く、渡船が活躍していた時代であった。

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