夢実現研究所

信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。

民数記

2008-04-21 11:26:06 | こころの世界
2008年4月20日陳永敏先生説教要旨

民数記

四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

イスラエル人たちは、自分たちが見たとおりのことを話しました。
豊かな土地であるけれども、かつ強い民が住んでいる地でもある、ということです。
ここが問題です。
この調査をどのように受けとめるか、自分がこの事実に対してどのように対処するのか、それが大きな分かれ目になります。
主の豊かないのちの中に入るか、
それとも恐れ退いて、悲しみ、嘆き、さまよう人生を歩むのか、その選択を自分がします。

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

 カレブの判断は、「占領しよう」というものでした。
その強い民も、主の前には朝飯前である、というものです。
カレブは、主ご自身と、このアナク人を比較したのです。
もちろん自分とアナク人を比較したら、自分はたちまちのうちに敗れてしまいます。
しかし、主は、この強い者よりも、さらに強い方であります。

 この判断を聖書では、「信仰」と言います。
主が言われることを聞き、そのみことばに基づいて、目に見えないものに対処する、これが信仰です。
単に主がおられることを信じ、遠くにある約束を信じているだけではなく、実際に自分の前に立ちはだかる現実に対して、神ご自身とそのみことばを当てはめます。カレブはそのことを行なったのです。

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

 ここで、「私たちよりも強いから」と言っています。
ここが問題です。
主ご自身と敵を比較するのではなく、自分自身と敵を比較しているのです。

 いったん、自分と問題とを比較すると、それは恐れとなり、また現実を歪めて見ていくようになります。

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 イスラエル人のこの嘆きは、一言で言うと、「行き詰まり」です。これからどうすれば分からない。前に行けば、妻子供がさらわれてしまう。
でもここにいれば、死んでしまう。ではエジプトに戻ろうではないか、と言っています。
けれども、エジプトでは過酷な奴隷状態が待っています。
どこにも行くことができなくなった、ということです。

 これが、自分で何とかしようとする人の結末です。
私たちが信仰を持った以上、私たちは必ず、自分自身では何もできないという道を歩まされます。
行けども行けども、自分の前には岩があり、自分を食い尽くす敵がいます。そこで、自分とその問題を比べながら生きていこうとしている人は、そこで行き詰ってしまうのです。
引き下がれば、初めに出てきたときよりも悲惨になることは知っています。そのことも分かっているので、大抵は、今いる場所であたふたとしていることが多いのです。
クリスチャンになってから、むしろ、生活がおかしくなった。
生活が葛藤でいっぱいになっている、という人の話しを聞きます。
それは、クリスチャンになったのに、クリスチャンではない法則で生きようとしてしまっているためです。

しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。
わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

 彼らの罪を赦されるのですが、それは彼らがなんら自分の蒔いたものを刈り取らないということではないことではありません。
多くのクリスチャンは、罪が赦されるということを、罪の結果を負わないことであると混同しています。
罪が赦されるということは、罪に対する咎めをまったく受けない、ということです。
罪は赦され、きよめられ、忘れ去られ、遠くに追いやられ、海の深みに投げ込まれます。
ですから、もはや罪の責めを負わなくてもよいのです。
けれども、自分が行なったことに対しては、その結果が残されています。
ダビデを思い出してください。
ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しましたが、罪を告白したら、すぐに罪赦されました。
けれども、初めに生まれる子は死に、自分の息子たちの間に悲劇が重なりました。
ダビデは、それを主によるものと認めましたが、決して自分がさばかれていると思いませんでした。
むしろ、主のねたむほどの愛を、これらの出来事を見て、ますます知って言ったことでしょう。
彼の主への信仰と愛はますます精錬されました。そして、主はダビデのことを、「わたしの愛する者」と呼ばれました。

神は、私たちにキリストのいのちを与えられました。
私たちは罪を赦されただけではなく、罪に対して死んで、キリストに対して生きている者とされました。
このいのちに生きるのに必要なのは信仰です。
たとえ、自分の問題が、アナク人のように巨大に見えても、それをキリストにあって死んだものだとみなし、信仰によって前に踏み出ることが必要なのです。「この分野に入ると、私の肉が出てくるので、前に進むのはよそう。」と言って、主が示されているところに出て行くのを拒むのであれば、その時点で、自分はさまよう民となってしまうのです。
前進もできず、後戻りもできないです。
しかし、私たちのこの世における歩みは、自分の肉の領域、神にゆだねていない領域を聖霊によって示され、それを死んだものとみなし、御霊によって進むことです。カデシュ・バルネアまで来たら、やはり前に進むのです。

ヘブル人への手紙には、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかなくなにしてはならない。(4:15)」とあります。信仰というのは、御声に聞き従うことであります。御声を聞くそのときでなければ、私たちは後で従おうとしても、力が出てきません。
なぜなら、それは信仰によるものではないからです。
信仰とは、神の御声を従順な心で聞くことに他なりません。
そのときに、自分ではなく神の力が自分のうちに働き、それで神のみわざが自分のうちに成されます。
イエスさまによっていやされた人たちが、どのようにいやされたかを思い出してください。
イエスさまが、「起き上がりなさい。」と言われたそのときに起き上がりました。「右手を伸ばしなさい。」といわれたそのときに、伸ばしました。みな、信仰をもって聞いたからです。


 こうして私たちは、生き残ったカレブとヨシュアの信仰と、荒野で死体となって倒れるイスラエル人の不信仰を見てきました。
彼らの違いは、巨人と城壁を、主にあって見ていたか、それとも自分の視点から見ていたかの違いでした。
自分から出発して、「自分はこれだけのことができる。これだけのことができない。」と計算して、行動することは、人間の世界では通用しますが、霊の世界では通用しないことが分かりました。
同時に、私たちの前に広がっている敵の存在、肉の所在を主にあって調べ、そこに果敢に進んでいくことが必要であることが分かります。
みなさんも必ず、カデシュ・バルネアを経験します。そこでどうぞ、恐れて退くことなく、信仰によっていのちを保ってください。

主の祈り

2008-04-21 10:12:29 | こころの世界
病床におられる方、
苦しみの中に、あるいは喜びの中におられる方、
主イエスキリストが共にいて下さることをお祈りいたします。

天にましますわれらの父よ、
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日々の糧を今日もお与えください。
私たちの負い目をお許しください。
私たちに負い目がある人を許しました。
私たちを試みに会わないで、悪よりお救いください。
国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです。