ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

戦国武将の歌4 大内政弘 1446年(文安3)~1495(明応4

2016年10月03日 | エッセイ
 大内政弘は、防府、長門、豊前、筑後の守護で、「応仁の乱」のときは兵を率いて京に入り、西軍・山名宗全方の重鎮として大いに力を発揮した戦国武将としてしられています。
 知勇兼ね備えた武将として評価が高いのですが、和歌・連歌の世界でもよく知られています。『新撰菟玖波集』の後援者であり、家集に『拾塵和歌集』がああります。『拾塵和歌集』には、千百首ほどが収録されているのですが、これは政弘が作りためたという二万余首の詠草の中から選ばれたものだということです。なんと二万首ですよ。
 二万首はだんぜん多い数です。歌が相当好きな人だったのでしょう。しかし、好きなだけではこんなに作れません。才能があったのでしょう。リズム感覚、言葉の感覚がよかった人だったのでしょう。
 
 名前の知られた古典歌人で二万首を超えるのは正徹ぐらいなものです。二万首がいかに多いか、以下、比較してみてください。
 万葉集で最多の大伴家持が約四百五十首。和泉式部一千五百余首、西行二千二百余首、藤原定家三千六百余首……。

 雑誌、新聞の時代になって近代歌人は作歌数が多くなります。それでも二万首にはなかなかとどきません。よほど長生きしないと二万首にはゆきません。八十九歳まで生きた窪田空穂が二万首にやっと行くかゆかないかでした(与謝野晶子、石榑千亦は別格で、三万首とも五万首とも言われています。専門歌人以外では、明治天皇と出口王仁三郎が十万首以上といわれています)。
 とにかく大内政弘の二万首は、武将歌人としては驚くべき歌数なのです。

 当時の短歌はほとんどすべてが題詠歌でした。自分の体験や自分の思いを直接うたうのではありません。「立秋」とか「海辺の月」といった題で、題の本意(ほい)を歌に作るのです。『拾塵和歌集』におさめられた歌の大半が題詠歌です。
 ところが、ごく少数ながら、実体験をうたったらしい作、自身の思いを直接に表現したらしい作があります。たとえば、「応仁の乱」がつづいた十-年間の京都滞在を回顧した次のような歌です。

わきかねつ心にもあらで十年(ととせ)あまりありし都は夢かうつつか
 (判別がつかない。心ならずも十余年を過ごしたあの戦乱の都は、夢だったのか現実だったのか)
 
 具体的な情報がまったくうたわれておらず、しかも自身の感慨の表現が「夢かうつつか」では、現代の読者であるわれわれにすれば、作品としてはなはだもの足りない。しかし、それでもとにかく、「応仁の乱」戦時の体験に取材しているそのことが珍重されるのです。

 また、次のような作があります。おそらく、長く戦乱がつづいた都で、家を焼かれ、生活手段を失った人々の生活をじっさいに見、その経験をベースにうたった作だと思われます。

一重(ひとへ)なる人もぞあると世を知れば薄き衾(ふすま)も冴えぬ夜半かな
 (一枚きりの夜具で寝る貧しい者たちが多いことを思えば、薄い布団でも寒いとは思わないそんな夜だ)
 
 「冴える」は冷える、冷え込むの意です。自分は寒い夜には、何枚も夜具を重ねて寝ることができるが、ただ一枚きりしか夜具のない者がたくさんいるというのです。武将の歌で、こういう内容の作は他に無いだろうと思います。

たましひを反す香(にほひ)はなかりけりなき人恋ふる宿の梅が枝(え)    
(くやしいことだが、死者の魂をこの世に呼び反す反魂香(はんごんこう)のような効力はない。亡き妻を恋い慕いつつながめる、わが家の花盛りの梅の枝よ)
 
 他界した妻への深い思いがこもったいい歌だと思います。漢の武帝が、李夫人の死後、魂を呼び戻そうとして香をたくと、夫人の面影が現れたという故事によっています。

 最後に題詠歌らしい題詠歌も一首、引用しておきましょう。「山路の雪」という題でうたった作です。

冴ゆる夜の仮寝の夢に聞こゆなり明日の山路の雪折れの声
(冷え込む夜、旅の仮寝の夢の中に、明日越えて行くはずの山路の、木の枝が雪に折れる音が聞こえてくる。明日もつらい雪中の旅がつづきそうだ)
   もちろんじっさいの旅に取材した作ではありませんが、題の本意である、明日の旅を思いつつ雪降る山に一夜をすごす旅人の思いが的確にうたわれている佳作と思います。
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