湯原修一の歓喜悦慶と聊かの慷慨憂愁, etc.

いつとはなしに眠りにおち微風を禿頭に感じて目が覚める。
このような生活に変わったらブログが更新されないかもしれません。

◇ 西南の役で籠城家族が避難した所

2016年01月18日 12時58分08秒 | 日常・その他
先日、熊本県立美術館分館で開催されてた
「第21回熊本デザイン専門学校卒業制作展」と
「第22回日本高校生デザイングランプリ作品展」を観に行きました。

今回は自転車で行きました。
徒歩のときと同様、近道になる熊本城二の丸公園を通りましたが、
少し時間があったので、
公園の出口近くに建っている石碑と記念柱の前で自転車を停めました。

この石碑をはごくありふれた地味な形状で、
刻まれている文字も目立たないので、
これまで見過ごしていました。

【西南戦争籠城将校家族避難跡】と書かれた記念柱

  ※柱に書かれている説明文

    西南戦争の際、熊本城に籠城した鎮台側の将校の妻子が
    弾丸の飛来を避けるため、この空掘に天幕を張って避難した。
    時は2月寒気の厳しい中で、司令長官谷少将の妻久万子を中心に
    負傷者の手当てや慰問に努め、将校の信望を集めた。


直ぐ近くに建っている【籠城将校家族避難之跡】と刻まれた石碑


  記念柱には "西南戦争" と書かれていますが、
  この石碑には "明治十年之役" と刻まれています。

  石碑は大正12年5月に建立されています。
  建立の関係者は何かを主張したかったのでしょうか?

   ※ちなみに、私は学校で "西南の役" と覚えたはずです。


 「家族が避難した」というだけの場所に
 なぜこのような記念碑を建てたのか?

 吉川英治さんの著書
 「日本名婦伝 谷干城夫人」(→青空文庫)を読むと
 解かるような気がしてきます。
    
  ※記念柱の説明文にある "少将" が谷干城(タニタテキ)少将、
   "久万子" とあるのが、著書の中にでてくる玖満子夫人のことです。
   52日間に亘った熊本城籠城戦では数々の感動のドラマが起きてます。
   (吉川英治さんの脚色が巧みなのかもしれませんが)


石碑を見守るかのように立っている老大木


  太い幹の中が洞(ウロ)になり寿命が尽きようとしているこの老木は
  玖満子夫人の奮闘を見ていたのでしょうか?