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History, Strategy, Ideology, and Nations

歴史の法廷に立つ条件

2010年11月11日 | NEWS & TOPICS

 中曽根元首相によると、政治家の心得とは常に歴史の法廷に立つ覚悟を持つことにあるという。
 元来、政治家は宗教家ではないから、すべての人を救うことは不可能である。
 何らかの意思決定を下す段階において、その不利益を被る人が出てくることは避けられない。
 たとえば、昨今、話題になっている環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)について、
 おそらく日本が本格的に参加すれば、農業に大きなダメージを与えることになるであろうし、
 その影響で自給率低下は一層、拍車をかける可能性も否定できない。
 また、それを危惧する農業団体や既得権益に与る官僚からの反発も免れ得ないのである。

 だが、その一方で、官僚と農協、そしてそれを支える兼業農家の利権構造を叩き潰して、
 日本の農業を根底から作り直す契機になるかもしれない。
 とりわけビジネスチャンスの拡大を狙う専業農家にとって、
 古色蒼然とした規制と補助金漬けの農政の在り方は、大いに疑問府を付けざるを得ないだろうし、
 そうした産業構造の性質自体が、農業の競争力を奪っていることに危機感を覚えているはずである。
 TPP参加によって、専業農家もまた経済的なダメージを受けることは必至だが、
 業界の構造改革が進み、農業が自立した産業として展開し得る状況になれば、
 それはそれで吉事というべきであろう。
 どのように推移するか分からないという不安感は捨てきれないけれども、
 うまくいけば、事業拡大を図る上で、きわめて大きなチャンスになるからである。
 
 政治家が歴史の法廷に立つという時、その評価の基準は基本的に結果論でしかない。
 どれだけ優れた見識を持っていたとしても、
 結果として国民生活や国家の利益を失わせるような判断を下した場合、
 その政治家には否定的な評価が下されることになる。
 逆に、まったくの思いつきや他人からの入れ知恵で下した判断であっても、
 結果的に国民生活や国家の利益にプラスとなった場合、
 その政治家には肯定的な評価が与えられることになるであろう。
 もちろん、その後、さらに時代を下れば、
 そうした評価が改められることは十分、考えられるとしても、
 評価の基準が結果論であることに変わりはない。
 その点では、政治家の評価というのは、きわめて時代的な制約に縛られているとも言えるのである。

 ただし、どのような歴史的評価を下すにしても、
 その前提となっているのは、政治家の判断を裏付ける文書や資料が適切に管理されると同時に、
 必要な手続きを通じて、一般に公開する制度が整っていることである。
 それなくして、国民は歴史の法廷で政治家を裁くことができない。
 文書管理や機密保持が不適切で杜撰であった場合、
 その政府や政治家は、歴史の法廷に立つという宿命を自ら放棄しているに等しい。
 そして、それは意志決定に直接、参画できないがゆえに、
 事後的にその決定の是非を問うしかない国民という主権者への冒涜にほかならず、
 ひいては、歴史的教訓やデモクラシーの自浄能力を根底から否定するものなのである。

 さて、尖閣衝突事件のビデオ映像が流出した騒動について、
 昨日、とうとう流出を認める海保職員が登場し、今日に至るも事情聴取が続いている。
 仙谷官房長官は、これを機会にして、国家機密漏洩の罰則強化に向けた措置を検討しており、
 一部のメディアでは、こうした動きを国民の知る権利を奪うものとして反発しているが、
 そのこと自体は、むしろ喜ばしいことである。
 先般、警視庁公安部外事課から国際テロ情報が流出した事件もあったように、
 機密漏洩は国内の治安のみならず、国際関係にも深刻な信頼失墜を招く可能性が高いため、
 その管理・保護は徹底すべきであり、
 罰則に関しても、最低限、他国の水準並みに引き上げておくべきだろう。

 しかし、機密情報の管理において、今のような杜撰な手続きや基準が放置されるのは困る。
 尖閣衝突事件のビデオ映像に関しても、本来は一般公開を目的として撮影されたものであり、
 その後の管理においても、機密情報としての措置は一切、採られていなかったと伝えられている。
 要するに、政権中枢が口頭で非公開と命じただけものにすぎないのであって、
 然るべき手続きや基準に従って、機密情報と指定されたものではないのである。
 もしもこれを国家機密として認めるとすれば、
 今後、政府はその場の状況や雰囲気で機密措置を指定できるようになってしまう。
 このように判断基準を曖昧なままにしておくと、いずれ政権交代が起こるたびに、
 前政権の機密を暴露し合うという不毛な事態を招くことになるだろう。
 その結果、失われるのは、国民主権によって支えられたデモクラシーの品位である。
 
 機密保護と情報公開は不可分の関係にある。
 それは決して政治闘争の手段として活用されるべきではなく、
 あくまでも自らが歴史の法廷に立ち、
 国民からの裁きを真摯に受けるという誠実さの表れでなければならない。
 昨日、菅首相は、尖閣諸島をめぐる一連の出来事について、
 「冷静に対処したということで、歴史に堪える対応を現在もしている」と語った。
 その言葉に偽りがないのであれば、
 機密保護とその管理について、明確な基準と手続きを定めることが望ましい。
 なかでも、どのような情報を機密と指定すべきかという基準作りは、
 昨今の混乱から見ても分かるように、喫緊の課題であろう。

 もっとも、これを受けて民主党を攻撃する自民党も襟を正してほしい。
 核密約を示した文書が私邸の押し入れで見つかったというのは、
 日本がいまだに中世的な感覚で外交を展開していたことの証左である。
 戦後、日本は国民主権を標榜したけれども、
 誰もその精神まで思い致して行動していなかったことがよく分かる事例である。
 与野党とも国民主権という原則に今一度、立ち返って、
 機密保護の問題に取り組んでほしいと思う。