YS_KOZY_BLOG

History, Strategy, Ideology, and Nations

別に無理して会う必要はない

2010年10月30日 | NEWS & TOPICS

 各種のメディアが報じているように、
 中国側が日本政府の外交姿勢を厳しく批判したことによって、 
 ベトナム・ハノイで予定された日中首脳会談の開催は、中止ということになった。
 新華社通信が伝えるところによると、
 会談中止の理由としては、29日に行なわれた日中外相会談に関して、
 日本側が正しくない内容を発表したため、両国首脳が会談する雰囲気を壊したからだとしている。

 「雰囲気」などという抽象的なことを言われても、何のことやらさっぱり分からないが、
 現地の外交関係者も同じだったのであろう。
 菅首相に同行してハノイに入っている福山官房副長官は、会談中止となった理由について、
 「中国側に聞いてもらわないと分からない」と語っており、困惑の色を隠していない。
 また、外相会談の雰囲気自体は「良かった」ともしており、
 首脳会談を29日夜に設定することで合意し、
 それを受けて、日本側はメディアに向けて発表したのであった。

 もし中国側の言い分を額面通りに受け取るとすれば、
 その発表こそが、中国側の気分を害したということになるのであろう。
 日本側は、中国にとって都合の悪かった部分がどこだったのか、あれこれ詮索しているようである。
 中国外務省の胡正躍次官補は、ハノイで行なわれた記者会見の中で、
 尖閣諸島の問題を再燃させたことやガス田開発の交渉再開に関する報道について、
 日本側を非難する声明を発表しているが、
 どちらも核心的な理由ではない印象を受ける。
 なぜなら、こうした問題は、すでに事務交渉のレベルで議題に上がっている話であろうし、
 その折り合いが付いたからこそ、一時は首脳会談の開催で合意を得たはずだからである。
 
 むしろ、中国としては、首脳会談の開催に不都合があったわけではなく、
 それを公式の会談として報道されること自体に不都合があったのではないだろうか。
 とりわけ反日デモと称した反体制運動の過熱を引き起こす可能性があり、
 首脳会談のニュースが中国内部にも伝わるようにでもなれば、
 弱腰外交との批判が巻き起こることは避けがたく、
 それは容易に政府批判へと結び付くことになる。
 さらに、この文脈において、習近平氏の人事に不満を覚える軍部などの保守勢力が加われば、
 党人派が優位に立つ現政権の権力基盤は大きく揺らぎかねない。
 首脳会談の中止という一方的な決断を下した背景には、
 こうした懸念が外交関係者の間で強くなったからではないかと思われる。
 
 一方、日本側としては、中国の内情にいちいち配慮して外交を進める必要はない。
 日本の主張や論理をしっかりと守ってさえいれば、あとは粛々と手続きを進めるだけでよい。
 それによって、中国は混乱や暴走を繰り広げることになるかもしれないが、
 どう転んでも、国際社会における日本の評価を損ねることにはならないし、
 昨今、急速に進み始めた「中国封じ込め」の動きをさらに強化・発展させることにもつながる。
 また、中国が11月に予定されているAPECへの不参加をほのめかしても、
 相手にする必要はない。
 自ら進んで孤立化の道を選ぶような外交下手な国と仲良くしても、
 日本にとって得るものはないからである。

 今後も、事あるごとに中国は、交渉機会の可能性を利用して、
 日本への揺さぶりを仕掛けてくるかもしれないが、放っておけばよい。
 日本との交渉を閉ざすことで、最も損をするのは中国にほかならないからである。
 会談できれば、それに越したことはないであろうが、
 会談できないのであれば、無理を押してまで、実現に向けた努力を重ねる必要はない。
 自滅したい者は勝手に自滅させておけばよいのである。


インドのソフト・パワー

2010年10月29日 | NEWS & TOPICS

 アジアの大国として、中国の台頭が世界的に注目を集めているが、
 同様に、インドもまた、新たに台頭しつつある大国として大いに関心を払っておく必要がある。
 それというのも、今後、中国の海洋進出や軍事的拡張への牽制として、
 インドの地政学的位置は、日本にとって非常に重要な意味を持つであろうし、
 何よりも伝統的に親日的な国民感情が強いとも言われている。
 さらに、10億人を超えるインドの人口は、経済的に巨大な市場となる可能性を十分に有しており、
 公用語が英語であることも、日本人には取っ付きやすい。
 こうした事情を踏まえて、日本とインドの戦略的な関係強化を模索する動きは、
 2000年頃から本格的に進められるようになっており、
 その流れは、民主党政権になっても、基本的には引き継がれているようである(※1)。

 ところが、日本では、BRICsの一角として、
 インドの急速な経済発展に目を向けることは多くても、
 戦略的パートナーとしての可能性について、
 熱心に議論されている雰囲気はあまり見られない。
 これはおそらく、日本の外交研究者が太平洋での動きばかりに関心を寄せる一方で、
 それ以外の地域も含めた国際関係の構造的理解に乏しいことが、
 原因の一つとして挙げられるだろう。
 しかし、インドが自らの価値や存在を対外的に売り込むことに成功していないことも、
 もう一つの原因として考えられるのである。

 たとえば、米国ハドソン研究所客員研究員ジョン・リー氏は、
 1990年代以降、インドは急速に国力を高め、アジアの中で影響力を増していったが、
 いわゆる「ソフト・パワー」と呼ばれる力に関しては、一貫して弱かったことを指摘している。

 John Lee
 "Unrealised Potential: India's 'Soft Power' Ambition in Asia"
 Foreign Policy Analysis, No. 4 (June 30, 2010), pp. 1-20.

 インドとともに、BRICsの一つとして経済的な発展を遂げていた中国は、
 主に東南アジアにおいて、強力なソフト・パワーを発揮していた時期があった。
 街には中国語の看板がひしめき、大学の語学選択でも中国語が圧倒的人気を占めていた。
 また、政府高官や財界人たちも、これからのアジアのリーダーとして、
 日本ではなく、中国を挙げる人が多く出てきたのである(※2)。
 
 昨今、領土的・資源的野心を露骨に示した結果、
 中国のソフト・パワーにも陰りが出てきたことは避けようもないが、
 インドは、元来、外交手段として、ソフト・パワーを利用する発想がなかったらしく、
 最近になって、ようやく「文化外交」の価値を理解するようになったとされている。
 その文脈において、インドが資本主義と民主主義を信奉する国として、
 欧米諸国のみならず、日本や韓国、東南アジアといった国々とも理念を共有し、
 地域大国としての地位を得るべき立場にあることが打ち出されれば、
 中国に代わって、アジアでの存在感を一層、広く認知させることにつながるだろう。

 ただし、その際には、国内の諸勢力もまた、打ち出される理念を共有している必要がある。
 従来、ソフト・パワーに関心を払って来なかったこともあって、
 インドには様々な国内問題を抱えていることも事実であり、
 そこに見られる矛盾の多くが現在も事実上、放置されたままの状態が続いている。
 今後、これをどのようにして解決していくかは、
 インドの地位向上において必須の課題となってくるはずであろう。

 ※1:西原正・堀本武功編著
    『軍事大国化するインド』
    亜紀書房、2010年、86-97頁
 ※2:Joshua Kurlantzick
    Charm Offensive: Hwo China's Soft Power Is Transformed the World
    New Haven: Yale University Press, 2007


多国間情報協力は可能か?

2010年10月28日 | INTELLIGENCE

 同時多発テロ事件以降、世界的な対テロ戦争(global war on terrorism)が継続している現在、
 情報協力を通じて、世界各国がテロリストの情報を共有し、
 テロリズムの撲滅を図っていくことは、重要かつ喫緊の課題である。
 特に米国は、冷戦時代に培った西側諸国間との情報協力に加えて、
 中東・中央アジア諸国との連携を強化し、幅広い情報収集を進めていかなければならないのだが、
 そうした国々が十分、信頼に足る国かどうかは、大きな悩みの一つである。
 
 元来、情報協力は、二国間で結ばれることが一般的であった。
 それというのも、多国間の情報協力関係は、提供した情報が漏洩したり、
 意図せざる目的で利用されたりすることを恐れて、
 うまくいかないことが多かったからである。 
 また、他国から提供された情報であっても、
 自国の情報機関を通じて、確証が得られる情報以外は、
 偽情報の可能性を排除できないということもあって、
 結局、いずれの国も、消極的な形でしか協力関係を構築できないのが実情であった。
 「永遠の同盟国も敵国もない。存在するのは、永遠の国益追求、それだけである」
 という英国の有名な格言があるが、
 それは確かに、情報の世界ではむしろ当然の発想と言えるのである。

 だが、グローバリゼーションの影響を受けて、
 テロリストのネットワークが世界的に拡張・深化していく中、
 自国の情報活動で追跡できる領域には、やはり限界が生じるのも事実である。
 したがって、追跡できない領域については、他国からの情報提供を受けなければならないし、
 テロリズムの脅威を同じく共有する国々とも協力関係を深めるために、
 多国間の情報協力体制を整備していくことが必要になってくる。
 問題は、そうした体制を機能させるには、どうすればよいかという点である。

 カナダ国防省で戦略分析官を務めたステファン・レフェブル氏によると、
 国家間で情報協力関係が結ばれるのは、
 潜在的な利益が明白で、協力に伴うリスクやコストが明確である場合である。
 たとえば、情報格差の存在や工作活動上のコスト削減は、
 他国の協力を得ることによって解消、ないし改善することが可能となる。
 また、外交関係がない国に対して、工作活動を展開しようとした場合、
 その国と外交関係を持つ国を媒介にして実行することもできる。
 つまり、情報協力の基本は、相補的関係の確立にあると言えるのである。

 しかし、その一方で、情報協力の阻害要因も存在し、
 レフェブル氏によると、それはおおむね、次のようなものが挙げられる。

 1)脅威認識と外交政策上の目的に相違が見られる場合
 2)国家間のパワーが不均衡である場合
 3)協力相手国における工作員保護への消極的姿勢
 4)法的問題(情報公開など)
 5)情報交換への不信感
 6)提供された情報を意図しない目的で利用される危険性

 こうした要因は必ずしも容易に克服されるものではない。
 まして、国家間の信頼性が安定していない状況下で、
 柔軟かつタイムリーな情報協力が確保される余地は小さいと言わざるを得ないだろう。
 だが、レフェブル氏は、対テロ戦争を有効に展開させていくためには、
 多国間協力は必要不可欠であり、
 相互の信頼を高めるためにも、情報協力体制を整備することが有用であると指摘している。
 
 Stephane Lefebvre
 "The Difficulties and Dilemmas of International Intelligence Cooperation"
 International Journal of Intelligence and Counterintelligence
 Vol. 16, No. 4 (2003), pp. 527-542.

 もっとも、レフェブル氏は、性善説的な立場を採っているわけではなく、
 「しっぺ返し(quid pro quo)」の手段を確保しておく必要性にも言及している。
 その具体的な内容については明らかにされていないが、
 対テロ戦争で最も避けるべきは、情報面での孤立化にほかならない以上、
 それが対抗措置の一つとして想定されることは間違いない。
 ただし、同時に情報収集源を失うことにもなるため、
 やはりディレンマに直面することは避けられないとも言えるのである。


目的は脱税でしょう。

2010年10月27日 | NEWS & TOPICS

 私たち国民自身が民主的な手続きで選んだリーダーであったにもかかわらず、
 こうした物言いをするのは、非常に気が引ける思いを覚えるのだが、
 鳩山元首相は、重篤な精神疾患にかかっているのではないだろうか。
 先日も、首相退任後は政界から引退し、
 自らの政治的影響力を残すようなことはしないと言明したことなど棚に上げて、
 「国難から逃げ出すようなことはできない」といった発言を行ない、
 政界引退を撤回する可能性に含みを残し始めてきた。

 鳩山氏にすれば、自分の真意が伝わっていないと抗弁したいところであろう。
 だが、鳩山氏の真意が、実を言うと非常に底の浅いものであることは、
 もはや白日の下に晒されているのであって、
 おそらく「友愛」という極めて抽象的なイメージを掲げている程度のものなのである。 
 もちろん、そうしたイメージや理想を持つことが間違っているわけではない。
 政治家の使命には、国民に理想を語り、
 その理想に向かってリーダーシップを発揮することも含まれているからである。
 しかし、そのためには、自分の能力や精神力、あるいは、置かれた環境や条件などから、
 できることとできないことを峻別して、可能な手段を選択していくことが必要となる。
 残念ながら、理想を追求していく上で、鳩山氏はそこまで具体的な手順やプロセスの構想を持っておらず、
 ただ単に自分勝手な空想に耽っていたことは、首相在任中の実績によって証明済みであろう。

 もし鳩山氏が本当に理想に生きる人であったというのであれば、
 鳩山家として、たとえば、どこかの慈善団体に多額の寄付を行なっていたとしても不思議ではない。
 だが、そうした話が一切、漏れ伝わってこないということは、
 それが決して鳩山家の美学によって隠されているからではなくて、
 実際、そうした寄付をまったく行なっていないからであろう。
 政治家の立場として寄付することは違法行為に相当するということであれば、
 今すぐ議員辞職して、自分に与えられた月1500万円とも言われる「お小遣い」から、
 一割でもいいから、あしなが育英会などに寄付したら良いだろう。
 しかし、それもしないということは、鳩山氏は決して理想に生きる人ではないということである。

 色々と発言を二転三転させているが、
 本音は多分、自分が議員辞職してしまえば、
 国税庁が査察に入って、今まで誤魔化し続けてきた税金逃れの一部始終が明らかとなり、
 私財の多くが失われるかもしれないと恐れているだけのことであろう。
 まして、息子はモスクワからまだ帰ってきておらず、
 鳩山氏の後継者として国会議員にもなっていない状況を考えれば、
 なおさら、議員を辞職するわけにはいかないだろう。
 脱税対策、これこそが鳩山氏の真意である。
 
 そして、そのからくりは門外不出のようであるらしく、
 それは、個人献金虚偽記載に基づく政治資金規正法で逮捕された前秘書を、
 再び秘書として雇用している事実からも明確に表れている。
 また、確定申告で記載漏れがあった個人資産や事務所費虚偽記載についても、
 国会に提出うが求められているにもかかわらず、
 今に至るも提出されていないのである。
 以上のようなことを考えていくと、
 重篤な精神疾患ではないかという前言を撤回しなければならなくなる。
 すなわち、鳩山氏は決して頭が悪いわけでも健忘症ということでもなくて、
 きちんとした「真意」に基づいて行動しているのである。
 言うまでもなく、それは国民生活を思いやるようなものではなくて、
 己の私財を守るために、日々是、汗を流しているのである。


中国のスパイ活動協力でCIA内定者が有罪

2010年10月24日 | INTELLIGENCE

 今日は、私用で仙台に来ている。
 東京から仙台に向かう新幹線の中で、何紙か新聞をひっくり返して時間を潰していたのだが、
 産経新聞が興味深い記事を載せていたので紹介しておきたい。

 これは、ワシントン特派員・古森義久氏の記事なのだが、
 CIA就職内定を貰っていた人物が、中国の情報機関からスパイ活動への協力を求められ、
 今月22日、バージニア州立地裁で有罪を認めたというものである。
 この人物は、ミシガン州の州立大学を卒業した後、2004年、上海に留学した。
 その際、中国の女性工作員と接触し、
 将来、米政府の秘密情報を中国側に流すことを要求されたという。
 その後、この人物は、CIAの職員採用に応募し、2009年12月に採用決定を告げられた後も、
 上海に渡って、工作員と会い、合計7万ドルの協力資金を受け取ったとされている。

 ハニー・トラップのにおいがプンプンする話だが、
 中国では、いまだに米国への憧れが根強く社会全体に浸透しているらしく、
 白人男性は中国人女性から非常にモテるそうである。
 そうして言い寄ってくる女性の中に、工作員も紛れているのであり、
 件の米国人男性は、その魔の手にまんまと引っかかったということなのであろう。

 なお、余談だが、中国での留学体験記としては、
 次のものが面白い。
 
 谷崎光
 『北京大学てなもんや留学記』
 文春文庫、2008年
 
 これも新幹線の中で読むために買った本だったのだが、
 反日デモで盛り上がりを見せる昨今、
 中国の学生気質や大学の雰囲気などがどんなものであるのかを知る上では、
 なかなか辛辣、かつユーモアたっぷりに報告してくれていて、興味深く読むことができる。
 草の根レベルの中国がよく分かる内容である。


シンポジウム「日米安保50年と自衛隊」

2010年10月23日 | NEWS & TOPICS

 今日は、戦略研究学会が主催した「日米安保50年と自衛隊」というシンポジウムに参加してきた。
 冒頭、元平和・安全保障研究所理事長の渡邉昭夫氏が基調講演を行なった後、
 元自衛官で現在、研究機関に所属している三人の方々が研究報告を発表するという形式のもので、
 4時間近くにも及ぶ長丁場のシンポジウムであった。
 いずれも現場の経験や印象を踏まえた内容の報告であり、
 個人的には、コメンテーターを務めた明治大学の伊藤剛教授が総括したように、
 昨今の国際環境の変化に対応するために、
 国民の覚醒に期待するといった主張が強く現われていたように思われる。
 
 ただし、時間がかなり押していたこともあって、フロアからの質疑応答はほとんど行なわれなかった。
 もしその時間があれば、聞いてみたいことがあったので、少し残念だった。
 たとえば、結局のところ、いくら現場の自衛官や一般国民が覚醒したとしても、
 第一義的に覚醒すべきは、やはり最終的な意志決定を下す地位にある政治家であろう。
 それというのも、少なくとも一般国民は、有事において、機密情報にアクセスできるわけではなく、
 せいぜい政治家が下した決断に対して、事後的に賛否を表する立場でしかないからである。
 もちろん、国民と政治家が危機意識を共有していることは必要だが、
 多くの場合、それは叶わぬ願いであろう。
 むしろ、政治家が一般国民レベルの危機意識しかないことが最大の問題であり、
 それを解消、ないし改善するためには、そうした政治家をいかにして教育していくかということが重要となる。

 米国外交史の大家アーネスト・メイは、情報、特に戦略情報と呼ばれるものの価値は、
 政治家への教育効果だと指摘したことがある。
 つまり、現在の世界政治がどのような構図と力学で動いているかを教え諭すことに、
 インテリジェンスの重要な役割があるということである。
 実際、米国の歴代大統領を振り返ると、外交に精通した人物というのは圧倒的に少数派であるし、
 情報活動に通じていた人物も、数えるほどしかいない。
 だが、素人に近い大統領であっても、外交や軍事で指導力を発揮して、
 米国の国益を確保することに成功した人物もいる。
 情報が持つ政治家への教育効果が上手に作用した結果であろう。

 翻って、日本の現状を顧みた時、情報による政治家への教育効果について、
 どのような印象をパネラーの方々は持っているのか。
 もしうまく機能していないということであれば、何が原因と思われるのか、聞いてみたかったのである。
 
 思うに、日本の場合、制度的・組織的問題もさることながら、
 戦前はドイツ、戦後は米国といった具合に、
 他国への情報依存が、自国の情報機関への軽視を生んでいるのではないかという感じもする。
 確度の高い情報が他国から入ってくることが分かっているなら、
 別段、自国の情報機関に頼らなくても、他国から貰えばよいではないかと思うのは不思議ではない。
 ただし、それはともすれば、他国の偽情報工作にきわめて脆弱であることと表裏一体だが、
 その最たる例が、イラクで大量破壊兵器が見つからなかった件であろう。
 パネリストの一人が、日米同盟における情報の対等性を高めるための方策として、
 情報分析面において、アジアの一国としての立場から、
 日本独自の分析ポイントを伸ばしていくことを指摘されていたが、
 やはりそうした分析力を伸ばすためにも、情報収集力を強化することが喫緊の課題ではないだろうか。
 そんなことをぼんやりと思わせるシンポジウムであった。


サンデル気取りはヤメテクレ

2010年10月20日 | NEWS & TOPICS

 以前、NHKで放映されていた「ハーバード白熱教室」という番組が好評だったらしく、
 巷で随分と話題になっているようである。
 ちょうど番組が始まった頃、このブログでも少しだけ言及したことがあったが、
 分かりやすい事例を取り上げつつ、哲学的な思考へと導いていくアプローチは、
 政治哲学に通じていない人であっても、興味深く聞くことができたのではないだろうか。
 哲学と言えば、何やら小難しい概念や用語が飛び交って、
 それを整理することだけでも一苦労といった印象を覚えがちだが、
 少なくとも実生活に近い話題から議論を立ち上げているところに、
 一般教養の講義としての工夫が見られたのである。 
 先日も、講師を務めるマイケル・サンデル教授が来日し、
 東大で行なわれた公開授業の模様がNHKで放映されており、
 大学生をはじめ、教育関係者も多く参加して、
 熱心に講義を受けている様子が伝えられていた。

 ただし、腐すようで申し訳ないが、
 あのような講義は、サンデル氏に限らず、米国の大学では普通に見られる形式の講義である。
 いわゆる「ソクラテス・メソッド」と呼ばれるものだが、
 日本の学者がサンデル氏の講義方法に目を開かされたとか言っているのを聞くと、
 おいおいちょっと待ってくれと言いたくなってくる。
 おそらくその人は、米国での留学経験がまったくないか、
 留学したにもかかわらず、英語を理解できないまま、講義に参加していたか、
 もしくは、講義すらまともに出ていなかったかのいずれかであろう。

 実際、米国での講義に参加した経験から言わせてもらうと、
 教師と学生の質疑応答を通じて、講義の論点を多面的かつ複合的に理解していくことは、
 きわめて一般的な講義形式といっても過言ではない。
 大量に予習をこなさなければならないのは、
 そうした質疑応答に参加するための予備知識を得るためである。
 もちろん、与えられた課題文献を精読する必要はないし、
 逐一、覚えてくることも求められていない。
 論点について、自分なりの見解を整えるための予習であるから、
 それでよいのである。

 日本でなぜ、問答形式の講義が成立しないのか。
 教師に言わせれば、最近の学生は、間違った時に恥ずかしい思いをするのが嫌だから、
 自分の意見を述べることに消極的になっていると説明することが多い。
 だが、学生側に言わせれば、自由に意見を言えと言っても、
 論点を根底からひっくり返すような疑問をぶつけると、
 教師が怪訝な表情を見せるから言わないようにしているだけなのかもしれない。

 たとえば、差別問題を論じる際に、サンデル風に問いかけるならば、
 何らかの差別によって、社会全体の効率性が向上していると認められる場合、
 それでも、その差別は排斥すべきものとして考えなければならないのかという疑問が提起されたとしよう。
 典型例としては、女性差別が挙げられるかもしれない。
 こうした疑問に、人権尊重以外の理由で明確に答えられる教師が、
 果たしてどれだけいるだろうか。
 おそらく答えられないことを知っているから、学生は何も言わないのである。
 その意味で、教師は学生から馬鹿にされているとも言える。

 全国各地で、サンデルの講義方法に触発されて、
 問答形式の授業を展開する教師が増えているそうだが、
 教師自身が当然と考えている常識さえも疑ってかかる高い知性を持っていなければ、
 学生が投げかける様々な疑問や発想に対応することはできないだろう。
 突拍子もない問題提起についても、怪訝な表情を浮かべずに、
 鷹揚に対処できなければ、この講義形式は成立しない。
 学生に何かを言わせたければ、まずこの知性を磨くことから始めるべきなのだが、
 核武装の可能性を提起しただけで、
 頭から否定してくる学者や教師が多い現状を顧みるに、
 それを望むことはなかなか難しいように思う。
 下らない教師の実験に付き合わされるくらいなら、
 机の下で内職に励んでいた方が、学生にとってはプラスになるのではないか。


中国流統治術の古典

2010年10月19日 | HISTORY (GENERAL)

 現在の民主党政権は、市民主義が基本理念であるように見受けられる。
 元来、菅首相にしても仙谷官房長官にしても、
 「市民による政治」というフレーズを事ある毎に使ってきた政治家である。
 おそらくその信念に偽りはないと思われるが、
 実際には、市民が政治を取り仕切ることは不可能である。
 なぜなら、個々の市民が各々に互いの利益を調整していても、
 全体としての利益の収束点を見出すことはできないし、
 仮に出来たとしても、その収束点は時々の情勢によって流動的にならざるを得ず、
 結局、明確な意志決定として受入られることはないからである。
 したがって、いかに民主主義を原理的に実践しようとしても、
 必然的にリーダーの存在を認めないわけにはいかないということになるのである。

 そうなると、やはりリーダーとはいかにあるべきかという規範が必要になってくる。
 大衆や市民に然るべき規範は不要かもしれないが、
 それらの声を束ねて、正統な意志決定として尊重されるためには、
 制度的なプロセスの遵守だけでなく、
 そこに関与する人々のモラリティも当然、問われることになる。
 リーダーに規範が求められる所以である。
 そこで、人の上に立つ人たちは、古典的な説話集からそのヒントを得ようとしてきた。
 とりわけ唐の名君・太宗とその重臣たちの間で交わされた会話の中から、
 統治術に関するものを集めた『貞観政要』は、長年、読み継がれてきた古典と言ってよいだろう。
 日本でも、かつては北条政子や徳川家康が愛読したと言われている。

 呉兢/守屋洋訳
 『東洋の帝王学 貞観政要』
 徳間書店、1975年

 本書は、全280篇ある説話の中から、70篇を選んで収録したもので、
 説話ごとに、原文と書き下し文が付けられている。
 いつも思うのだが、どうして全篇収録に踏み切らないのだろうか。
 訳者にとって、何か都合の悪いことでも書いているのかと、
 ついつい邪推してしまうのだが、
 あくまでも入門書として考えれば、1900円だし、お買い得とも言えるので、
 そこは目をつぶることにしよう。

 さて、本書で問われていることは、安定した統治に必要なものとは何かということである。
 裏を返せば、国を滅ぼさないためには何をすべきかということである。
 そこでは、君主として畏怖されることよりも、
 万事について公正を期すと同時に、国民生活の安定に心を砕くべきと強調されており、
 「君は舟なり、人は水なり」と心得て、
 民衆からの革命や反乱を恐れる中国流の統治術を垣間見ることができる。

 ただし、こうした説話が必ずしも後世の統治に生かされているわけではないことは、
 歴史の偽らざる真実であろう。
 実際、太宗の息子・承乾は、社長の息子はバカ息子とばかりに暗愚な人物であり、
 名君の誉れ高き父を継ぐことさえ許されなかった。
 承乾に代わり、帝位に就いた三男・治も、平凡を絵に描いたような人物であり、
 結局、則天武后によって権力簒奪の憂き目を見ることになった。
 さらにその後、楊貴妃が現れ、国政が大きく乱れたことから、
 説話の教訓を生かすも殺すも、最後は君主の力量次第ということなのだろう。

 ちなみに、本書には各々の講話の後に、おそらく訳者の筆と思われるが、
 「ヒント」と称して、現代の企業経営に向けた説話解釈が掲げられている。
 そうした老婆心は全くの無意味であるから削除した方が良い。


天安門へと道は続くか?

2010年10月18日 | NEWS & TOPICS

 今朝の新聞各紙が伝えているように、
 ここ数日、中国内陸部各地で反日デモが発生しているようである。
 すでに日本企業の販売店やスーパー、また、日本料理店への破壊が確認されており、
 一部のデモでは、警察が制止できない状況になっているらしい。

 中国でのデモは、基本的に治安当局へ申請しないとできないので、
 今回の件も当然、政府は把握していたに違いないのだが、
 問題は、なぜ今、このタイミングで反日デモが盛んになったのかということである。
 多くの新聞記事では、先般の尖閣諸島をめぐる問題への対処について、
 政府により強硬な姿勢を求める中国民衆のナショナリズムを指摘するものが多い。
 だが、この問題に関しては、おおむね解決したと言っても過言ではなく、
 反日デモが大規模に行なわれるタイミングとしては、明らかに失したものと考えられるのである。

 産経新聞の記事によると、今回の反日デモは、党の支配下にある大学の学生会が主導しており、
 その点で、官製デモの可能性が高いと指摘している。
 また、インターネットを介して学生の動員が図られたらしく、
 約3万人とも言われるサイバーポリスも、
 ウェブ上での呼びかけをフリーパスさせたのだから、
 事実上、政府公認の反日デモであることは間違いないのであろう。
 
 ただし、それが真に反日を目的としたものであるかどうかは注意しておかなければならない。
 なぜなら、集結した学生たちが方々で示しているのは、
 決して反日的・愛国的な言動ではなく、
 経済格差や雇用問題の改善を要求するもので占められているからである。
 日本企業や日本製品が暴動の餌食にされることは、日本人にとっては甚だ迷惑な話なのだが、
 矛先を日本に向けることでしか政府批判を叫ぶことができない中国の特殊な政治文化は、
 常に頭に入れておく必要がある。

 それでは一体、なぜこのタイミングで反日デモになったのかと言えば、
 おそらくノーベル平和賞に中国人の民主活動家が選ばれたことに大きな原因があるように思われる。
 すでに何人もの受賞者を輩出している日本とは違い、
 その後塵を拝し続けている中国や韓国といった国では、
 ノーベル賞への憧憬、ないし渇望は並大抵のものではない。
 皮肉なことに、今回、中国人で最初にその名誉を浴したのが民主活動家だったという事実は、
 愛国心・ナショナリズムが強ければ強いほど、衝撃的だったに違いない。
 実際、受賞が決定した際、中国は徹底的にメディア統制を行なって、
 そのニュースを国内で流通させない措置を採ったが、
 口コミやツイッターなどで、すでに多くの人が知るところとなっていたようである。
 そして、今後、欧米社会に認められた象徴的人物として、
 劉氏の存在は語られていくことになるだろう。

 現在の政治体制によって、民族の誇りが否定されるとすれば、
 大衆世論は、必然的に不満の矛先を現体制に向けることになる。
 国内の経済問題は、深刻な社会不安として中国人の若い世代の間で共有されてきたが、
 今に始まったことではない。
 つまり、状況を整理すると、このタイミングで反日デモが起きたのは、
 「日本への抗議」という大義名分を得て、デモ活動を当局に容認させるという建前の下、
 「ノーベル平和賞」のニュースに現状改革への思いを強くした若者たちが、
 「国内経済の不満・不安」を解消するために、
 政府に圧力をかけていると見ることができるように思われる。
 
 もし、この見立てが正しいとすれば、
 現時点においてデモ参加者から直接、民主化を求める声が出ていないようだが、
 経済問題の改善が遅れることで、そうした声が隠然と力を持つようになる可能性は大いにあり得る。
 もちろん、それが天安門へと続く道になるかどうかは定かではないが、
 大国のほころびは、つねに地方や周辺から始まるものである。
 はてさて、一体どうなっていくのだろうか。


情報史研究への情熱

2010年10月17日 | INTELLIGENCE

 京都大学の中西輝政教授は、
 おそらく学者として、日本で最も早くインテリジェンスの重要性を指摘した人物である。
 いや、正確に言えば、その重要性は誰もが何となく分かっていたのだが、
 それを正しく学問分野として位置づけようと試みたのは、中西氏だけだったと言うべきであろう。
 これまでにも、折に触れてインテリジェンスの問題に言及されてきたが、
 今回、全編にわたって、この問題を取り上げた著書を上梓されたので、紹介しておきたい。 

 中西輝政
 『情報亡国の危機 インテリジェンス・リテラシーのすすめ』
 東洋経済新報社、2010年

 本書は、あくまでも一般向けに書かれたものであるため、
 内容としても、学術的な議論よりも、分かりやすい事例を引きながら、
 インテリジェンスの理解を深めてもらうことに力点を置いている。
 つまり、すでに定式化された概念や構図を詳しく論うのではなく、
 実際に起きた事件の分析や考察を通じて、
 インテリジェンスの感覚をつかむことが主眼となっている。
 副題に「リテラシー」という言葉が入っているのは、
 そういう意図が込められているからであろう。

 それにしても、1970年代、英国で胎動し始めた情報史研究との出会いによって受けた衝撃は、
 中西氏にとって、いかに大きかったかと思うことがある。
 公然とインテリジェンスを研究することが難しい日本の学問的環境において、
 その衝撃を約30年前と変わらずに保ち続けることは、
 まさしく辛酸を嘗めるように苦しい日々であったに違いない。
 また、そうした現状に耐えきれず、止むなく研究対象を他のテーマに変更すれば、
 いつしかそのテーマに安住し、満足してしまうものである。
 中西氏も、日本での研究環境を悲観して、
 一時、世界秩序論や文明論といったテーマに関心を移さざるを得なかったのだが、
 今も鮮やかに情報史研究への情熱を抱き続けていられるのは、
 情報史研究との出会いが他のテーマとは比べ物にならないくらい大きな衝撃だったからであろう。
 
 2000年以降、極東情勢の不安定化によって、
 インテリジェンスへの関心も大いに強まってきたことは確かだが、
 その一方で、いまだに学問的偏見が強く残っていることも事実である。
 実際、自分の学問領域では到底、適用されない史料水準を要求して、
 情報史研究の試みを潰そうとする研究者も存在しており、
 その関心とは裏腹に、所詮はまだ、興味本位のレベルを超えていない状況にあると言わざるを得ない。
 本書では、そうした現状への克服を目指して、
 情報史研究の学問的背景や方向性、欧米諸国での研究状況などにも多く言及しており、
 中西氏が抱き続けた積年の情熱がここにも強く反映されている。

 従来、情報史研究は、国際政治史における「ミッシング・ディメンション」と呼ばれてきた。
 しかし近年、多くの史料公開を受けて、この分野は大きく発展しており、
 いまや海外では、国際政治史における「エッセンシャル・ディメンション」になりつつある。
 もはやインテリジェンスに無知、かつ無理解であることは、
 学問的にも恥ずかしいということを知るべき時代が到来したのである。
 本書を一読することで、是非ともその空気に触れてほしいと思う。