きょうこそ一歩

教師江口儀彦のプロへ向かって教師修業の足跡

桶狭間の戦いの真実

2006-10-24 23:04:17 | Weblog
最近、「長篠の合戦」は、有田先生が授業をした「鉄砲三段撃ち」とは違うということが言われるようになってきた。

その言い出しっぺというか、世間に広めたのが、軍事評論家の藤本正行氏である。
根拠とする資料を太田牛一の「信長公記」としたところ、今まで信じられていた歴史事実が実はちがうということになってきたのだ。

太田牛一の『信長後記』を根拠にすると、桶狭間の合戦も、今まで一般的に言われてきた物とは違ってくる。

桶狭間の合戦=情報収集能力の優れた信長による、迂回奇襲
これが全く違う

桶狭間の合戦=出たとこ勝負の、運に助けられた、正面対決
となってしまうのだ。

このことを人の話すと「じゃあ、10分の1の人数でどうやって勝てたのか」と言われる。
「偶然」ですよ。
と言うと、
「偶然、勝てますか」と言われる。

確かに、2万に近いそれも東海一の弓取りと言われている、今川軍をたった2千の織田軍がやっつけたというのは納得行かない。

それが最近腑に落ちた。
漫画「せんごく」を読んでから。
漫画「せんごく」には桶狭間の合戦のことは書かれていない。
だが、キーワードは「横やり」だろうと思う。

そこで、
物語 『あらあら勝っちゃった!桶狭間の合戦』
ベースは、信長公記(大田牛一)

『あらあら勝っちゃった!桶狭間の合戦』 信長がクラスにいたら学級崩壊だなぁ                  原作 太田牛一
                  
(1)

その夜、織田弾正信長はまともな軍議すら行わず、
あつまった諸々将と雑談を交わしただけで散会としてしまった。
「運もつきれば、思考も曇る・・・。」
諸々の将は、悔しいとか残念とかそんなものはとっくに通り越し、
このわがままな主人のやりように、
嘲笑するしか方法はなかった。
東海一の弓取りと言われる今川軍の進軍に、
なすすべもなく、
ただ雑談するしかない、おおうつけの主人のありように、
残された道は、自嘲気味に笑うのみである。

諸々将の懸念通り、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。
今、判断を下さなければ・・・
主人、織田弾正信長の顔色をうかがったが、
何も言わずに奥へ入っていってしまった。

奥から敦盛の舞を舞う声が聞こえる。
『人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり』
ひとしきり舞った信長は、おもむろに部屋を出でてきた。

その目は、先ほどの目とは違う。
すっかりと腹の据わった目である。
信長は、
「貝を吹け」
「具足をもて」
とたて続けに下知を発した。

 まともに軍議もせずに、敦盛を踊るといきなり飛び出していった織田弾正信長。
 われわれは職業上、こういう人についてよく知っている。
 
 大人が望む行動ができず、悪友とつるんで、悪さばかりしてまわる。
 じゃあ、ひとの評価はどうでもよいのかと言えばそうではない。
 自分を叱ったり注意したりする人間に、以上に攻撃的になってしまう。
 そのため、周りからの評価を一段と下げ、さらに攻撃的性格を加速させてしまう。
 それでいて頭の回転が速い。
  
 この日の信長も、相も変わらず周りを振り回す。
 敦盛の舞を舞ったと思うといきなりの出陣である。

 諸将もあわてたが、いつもの自分勝手だと諦めもある。
 それに、この主人に逆らうと、その何倍もの報復を受けるのである。
 
 信長は経験上、ただ待つより、行動してから時差を埋める方が効率がよいことを知っていたのだろう。
 しかし、諸将に、多動傾向の主人の胸の内はわかろうはずもない。

 いきり飛び出した信長についていけたのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎。
 熱田まで3里を5騎で駆け抜ける。

 7時。信長は東方に上る煙を見、津・丸根の両砦が陥落陥落したのをしった。
 このころになって、やっと200程の兵が集まったことになる。
 この当時、1騎につき、50名ほどが従うような構成が一般的であるから、相変わらず、騎兵は6騎ほどだと言うことが分かる。

戦国時代の最小単位を「寄子」とよぶ。
寄子(騎馬)に郎党(歩兵)に付き従って戦場にやってくる。
そして、いざ、戦となると寄り子も騎馬を降りて戦う。
なぜなら、馬は両手で操らなければ乗れない乗り物であり、
戦で威力を発揮する槍も両手で扱わなければならない武器だからである。
馬に乗っているのは、高いところから指示を出すべき指揮官などごく一部だけである。
戦場で騎馬兵は1割以下。
これが、城や砦攻めの時には、もっと少なくなる。
歩兵の集団で、集団内での意思統一はなかなか難しい。
正面を攻撃中に、いきなり左への攻撃などはなかなかできない。
このことが、この後の今川勢の明暗を分けることになるのだ。

 前線からの諜報で今川は四万五千・・・

(2)

信長は、自分だけさっさと馬に乗って駈けていってしまった。

 諸将は大慌てである。
 一応、籠城にしろ打って出るにしろ、すぐに戦があるだろうから、諸将の郎党は準備を整えた上で待機していた。
 いきなり起こされ取るものも取りあえず、走って追いかけることになる。

 この当時の軍馬は、大型のもので150センチ。中型で135センチと小さい。(サラブレットが2mくらい)小さいと言っても人間が走るよりも大きく、そして早い。小型馬だからと馬鹿にできない。
 ちなみに、武田の騎馬軍団を馬の大きさが小さいからなかったとする説があるが、小さくても十分な戦闘力を持っている。
 武田は馬の産地である、猛々しい軍馬を大量に産出している。その馬を自在に操る騎馬武者も沢山いた。
 しかし、当時の軍編成は騎馬兵に付き従う郎党(槍 弓 鉄砲)でなされており、指揮官の騎馬兵を統率すること尾によって、全軍を統率している。だから、騎馬だけでチームを作ってしまうと、他の兵隊が逃げたり、途方にくれたりするから無理である。
 猛々しい馬と、それをあやつる武者がいたからこそ「武田の騎馬軍団」という虚実が作りあげられたのだ。

 さて、信長が善照寺にはいったことを知った、佐々隼人正らは喜んだ。
 籠城になっては、前線の兵士は手柄のあげようがない。
 「この上は、われらで戦の好期つくるべし!」
 と300の兵で無謀にも今川方に打って出た。
 結果は、いとも簡単にやられてしまい、佐々は討ち死に、
 50の兵を失った。
 これを聞いた義元は
 「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」
 とさらに上機嫌になり、謡を続けたのである。

(3)

ADHDの信長が、いきなり思いつきで城を飛び出し、諸将が大慌てでついていって、調子に乗って佐々が先駆けをして今川にこてんぱんにやられてしまったというところ。

 現在地は善照砦。(僕の手書き地図参考にしてください)

 信長は、善照砦から中島砦に進もうとしたのだが、これを家臣が止めた。
 今川義元が陣を張っているのが桶狭間である。
 ちなみに、桶狭間は谷ではない。
 漫画などでは、谷に信長が奇襲をかけているように書かれているが、桶狭間は『桶狭間山』という山というか、丘というか、ちょっと盛り上がったところにある。
 桶狭間が谷ではないから、イメージ通りの絵にしたくて「田楽狭間」が合戦の場だとしている小説なども多々あるが、太田牛一の『信長記』には田楽狭間の記事はない。

「殿、ここは危険です。中島砦までの深田は、今川の手のものから丸見えです。ひとまず、こちらの戦準備が整うまで、待機された方が・・」
と馬廻りのものが止めに入る。

「えーい。轡を離せ!ばか者。たわけ。先に進まねば戦はできぬわ!」
家臣の諫言を素直にきくような性格ではない。だって、ADHDだから。
「殿、しばしお待ちを」
「殿」
「またれよ。殿」
その場にいる全員が止めるのがだ全く聞かない。

勝手に深田の中を進み始めた。
これで、信長の接近を今川方が気付いたはずだ。

中島砦に到着したときに戦力は2000。
信長は、さらにそのまま合戦を仕掛けようとしたが、
さすがにそれは家臣によって止められた。

「聞け!敵は夕方に宵に食をとっていらい、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである。
くらべてこちらは新手である。
小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ
と古の言葉にもある。
敵が攻め立ててきたら引け。引いたならば攻めかけよ。
而してもみ倒し、追い崩すべし。
分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。
この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」
信長は、目の前にいる敵が今川の本体だとわかっていない。
今川本体は、沓掛城を攻め終わって出てきたところなのだが、
信長は何を思ったのか「大高に走り・・・」などと言っている。これは敵の先鋒の進軍ルートである。

桶狭間山にいるのは、今川義元のいる本体ではなく、くたびれ果てた先鋒隊だ!この勘違いが、プラスに働いた。
まさか、今川の本隊だと知れば、全軍びびってまともに戦えない。

今川勢にすれば、不幸な出来事が重なった。

まずは、2万5000の軍隊を、それぞれの砦を落とすために分散してしまったこと。

そして、信長が接近してきた時、丁度、沓掛城を攻め終わったところだったこと。

攻城戦と野戦では、戦の備えが全く違う。
通常の戦では、まずは弓隊の攻防からはじまり、
長槍がずらりと並んで、槍ふすまをつくっての槍での叩き合いになるのだ。
城攻めは、盾をもって、城の壁や土累に近づき、石やホウラクなど飛び道具によっての攻防の後、城に押し入っていく。

ふー。やっと城攻めがおわった・・・と出てきたところを信長の攻撃がはじまったわけだ。
武器を持ち替えたり、心の準備をしたりができない。
それどころか、信長の攻撃に気付いたところで、下々にまでその情報を伝達できない。

信長勢は、桶狭間山の麓までそっと近づいた。
今川義元はまさか、信長がこの本隊に攻撃をしかけてくるとは思っていない。

ここで、信長に天も味方した。
急の嵐が巻き起こった。
雷鳴が轟き、土砂降りの雨によって、今川義元が信長の接近をしるのが遅れてしまった。

信長の勝利を予見するかのように、
沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向け音をたてて倒れた。
それを見て諸将は奮い立つ。
「おー!これぞ熱田大明神のお力ぞ!!」

やがて、空が晴れてきた。
信長の声が轟く!
「すわっ!かかれ」

信長の軍勢は黒い塊となり、一丸となって今川勢に襲いかかった。
これを目にした今川勢はひとたまりもない。

鉄砲も、槍も、旗指物も、はたまた義元の輿までうち捨てられて、大混乱に陥った。
時刻は午後2:00。

義元の周囲には200騎ほどの兵がいたが、つぎつぎにおそわれ、あっという間に50騎にまで減ってしまっていた。

信長自身も馬を下り、槍をふるって、大奮闘。
馬廻りの者どもも負けじと奮闘。
さすがに負傷者が増え始めたが、それ以上に義元の周囲は手薄になっていった。

そのうちに服部小平太が義元に肉薄した。
義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだが、その横合いから今度は毛利新介が突進。
義元も今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられてついに討ち取られてしまった。

義元が討ち取られてしまっては、まともに抵抗できるものはいなくなった。
あとは、首をかってまわるだけである。
信長の元に次々と今川方の首が届けられた。
「首実検は清洲にて行う。」
そう、晴れやかに言い渡した信長は、さっそうと帰陣していったのである。


【クラウゼヴィッツ   『戦争論』】
両軍主力同士の決戦に勝った方が戦争の勝者。なぜならば、戦闘は数の多い方が勝つので、主力を失った方は敵の主力軍に対して打つ手がないから。分散した兵力は敵主力軍によって各個撃破され、敗北する。


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