きょうこそ一歩

教師江口儀彦のプロへ向かって教師修業の足跡

6月22日 例会報告

2007-06-22 02:04:52 | Weblog
大貝浩蔵です。

1 例会ありがとうございました。
  半月ぶりの例会でした。
  心も体もがちがちに錆びていたことに改めて気付きました。
  久留米付属の研究協議よりも
  組合の勉強会よりも
  何億倍も学びが深いです。

2 部首の模擬授業をしました。
  林先生の代案に、納得したのですが、
  さらに河田先生の代案に、しびれました。
  子どもに活動させてから、教科書を読む、
  明日の授業で、早速させていただこうと思います。

3 岸先生の模擬授業、完成形を示すことの大切さを知りました。
  林先生の模擬授業、追試します。
  山田先生の模擬授業、追試します。
  木田先生の模擬授業、やはり低学年は「楽しく」を学びました。
  江口先生の模擬授業、核融合に興味を持ちました。

 帰りの車の方が目が冴えました。
 本当に、ありがとうございました。

 
江口儀彦です。

1 今日の例会、お食事会ありがとうございました。
特に、お食事会では林先生と僕とで河田先生を独占してしまい、嬉しい時間を過ごすことができました。

2 今日の授業では、作文や図工で「完成型」(あこがれ)をしめすということが勉強になりました。
他の教科でも、
完成型をしめさず、
指示だけで子どもをゴールに無理矢理引っ張っていくことがあることを反省させられました。

やっぱりサークルはいいです。
元気になります。
ありがとうございました。



「伝統的和食の良さ」の授業

2006-11-30 00:23:04 | Weblog
TOSS-LAND / 総合的学習の時間/食育/高学年


「伝統的和食の良さ」の授業

 世界では和食の良い面が注目されているのだが、日本では和食が次第に廃れ、洋食化の一途をたどっている。
 食は生活の基本を作る大切な文化である。日本の伝統文化である和食の良さ、世界が認める和食の良さを、日本の子どもたちにも伝えていかなければならない。

発問1 何の写真でしょうか。

アメリカの「寿司バー」の写真である。挙手で答えさせる。よく目にする旗なのでよく知っているはずである。
説明1 アメリカにある寿司屋の写真です。アメリカでは、「寿司バー」とよんでいます。

発問2 このような寿司バーがアメリカには何軒くらいあるでしょうか。予想してノートに書きなさい。

 ヒントを与える。 「ちなみに日本にマクドナルドハンバーガーは、約4000件あると言われています。」答えは、「7000件」。
指示1 どうして寿司バーがこのように流行っているのでしょうか。理由をノートに書きなさい。
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○ 美味しいから。
○ 健康にいいから
○ かっこいいから
説明2 今から、40年前のことです。アメリカでは、高血圧、糖尿病、心臓病などの病気が増えました。病院代がかかりすぎて、アメリカの予算が無くなってしまうほどです。そこで、2年間にわたり、200億円をかけ、3,000名を超える医療関係者に話を聞いて病気の原因を調べたのです。原因は何だったと思いますか。
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説明3 アメリカ民主党の代表両候補ジョージ・マクヴァガンが調査結果を報告しました。5000ページにわたる調査報告です。
「マクヴァガンレポート」は「諸々の慢性病は、肉食中心の誤った食生活がもたらした《食原病》であり、薬では治らない」とし、更に「われわれはこの事実を率直に認めて、すぐさま食事の内容を改善する必要がある」と述べています。
そして、レポートには「最も理想的な食事は、伝統的な日本人の食事である」と書いてあるのです。
このレポートは世界中に広がりました。成人病という重大な病気に悩んでいた世界ですぐに日本食はブームになったのです。


 


説明4 アメリカ民主党の代表両候補ジョージ・マクヴァガンが調査結果を報告しました。5000ページにわたる調査報告です。
「マクヴァガンレポート」は「諸々の慢性病は、肉食中心の誤った食生活がもたらした《食原病》であり、薬では治らない」とし、更に「われわれはこの事実を率直に認めて、すぐさま食事の内容を改善する必要がある」と述べています。
そして、レポートには「最も理想的な食事は、伝統的な日本人の食事である」と書いてあるのです。
このレポートは世界中に広がりました。成人病という重大な病気に悩んでいた世界ですぐに日本食はブームになったのです。

 


説明5 伝統的な日本食とは、野菜中心の食事なのです。
① 精白しない殻類(玄米や麦ご飯)
② 季節の野菜
③ 海草
④ 小さな魚介類
を食べると良いと言われています。肉はできるだけ控えた方が良いそうです。

 


発問4 それでは、今から見せる日本食は、マクバガンが健康によいといった食事にあてはまるでしょうか。

「すき焼き」「納豆」「みそ汁」「ブリの煮付け」「肉じゃが」「ほうれん草のおひたし」「トンカツ」「湯豆腐」の写真を順に提示し、ノートに○×を書かせていく。
「すき焼き」「ブリの煮付け」「肉じゃが」はマクバガンの提唱する食事には当てはまらない。「すき焼き」や「肉じゃが」は肉が使われているからである。また、魚料理も時々食べる分には良いができる限り「小魚」が良いと言われている。
 一つ一つ説明を加えながら答え合わせをしていく。

 


発問5 それでは、大ブームの寿司。体に良いとブームになっているのですが、マクガバンが健康によいといった食事にあてはまりますか。

 


説明6 あてはまりませんね。これから、伝統的な日本食がどんなものか、どんな良さがあるのかを勉強していきます。



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1年生に国旗の良さを教える

2006-11-05 06:55:39 | Weblog
TOSS-LAND / 学活/低学年


1年生に国旗の良さを教える

1年生音楽の共通教材に「日のまる」がある。一年生は、世界は国という単位に分かれていて、それぞれの国には旗があるということを知らない子どもも多い。ましては、日本の旗が、太陽をかたちどったものであることも知らないし、朝日のイメージであることも知らない。それぞれの国の旗が必ずしも何かの絵とは限らず、色のイメージなどで作られていることも多いが、1年生にわかりやすいように物を象徴にしている国旗を取り上げることにした。
 音楽で「日のまる」を歌った日の道徳でする授業を計画した。

1 世界に国旗があることを教える
発問1 どこの国の旗でしょう。

(アメリカ合衆国の旗を提示する。)
挙手で答えさせる。よく目にする旗なのでよく知っているはずである。
説明1 そう。アメリカです。世界中の国は、自分の国の旗を持っています。それを国旗といいます。

子ども達に「こっき」と言わせる。


 2 それぞれの国旗には意味があることを教える
説明2 日本が、ここ。ここからずーっと行ったところに「ブータン」という国があります。

世界地図でブータンの場所を見せる。。

発問2 これがブータンの国旗です。ブータンの国旗は、何の絵でしょうか。。


説明3 ドラゴンです。ブータンでは昔からドラゴンが守り神でした。だからドラゴンを国旗にしました。。


説明4 ここがカナダです。
地図で、カナダの場所を見せる。

発問3 カナダの国旗は何の絵でしょうか。
答えは、「カエデ」である。カナダの国の木が「カエデ」である。

発問4 マケドニアの国旗は何の絵でしょうか。


マケドニアは、国を照らす太陽の絵である

3 日本の国旗の意味を教える

指示1 日本の国旗はどのような絵でしたか。机の上にある四角い紙に書いて見ましょう。。

机上に配った四角い紙に、旗を書かせる。色鉛筆を使って、できるだけ本物そっくりに書くように指示する。私のクラスでは、ほとんどの子どもが赤鉛筆で丸を書いた。わからない子も、他の子の絵を見て、結局全員が書き上げた。
発問5 全員正解。では、日本の国旗は何の絵でしょうか。。


説明5 日本の国旗は「日の丸」といいます。「日」という漢字は、太陽のことです。
日本の国旗は太陽の絵なのです。。


発問6 朝の太陽か、昼の太陽か、夜の太陽か、いつの太陽だと思いますか。。


説明5 日本の国旗は「朝日」なのです。お昼の太陽は、だんだんしずんでいきます。夕方の太陽はまもなく地面の下に消えてしまいます。日本の国旗は朝日なのです。朝日は、今から昇る太陽です。どんどん明るくなっていきます。世界の中で「朝日」を国旗の絵にしている国は日本だけです。今から、150年前にフラスンスが日本の国旗を別の旗にして欲しいといって。日本の国旗がすばらしいので売って欲しいと言ってきたのです。だけど、国旗を大切に思っていたので国旗を売ることはありませんでした。




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桶狭間の戦いの真実

2006-10-24 23:04:17 | Weblog
最近、「長篠の合戦」は、有田先生が授業をした「鉄砲三段撃ち」とは違うということが言われるようになってきた。

その言い出しっぺというか、世間に広めたのが、軍事評論家の藤本正行氏である。
根拠とする資料を太田牛一の「信長公記」としたところ、今まで信じられていた歴史事実が実はちがうということになってきたのだ。

太田牛一の『信長後記』を根拠にすると、桶狭間の合戦も、今まで一般的に言われてきた物とは違ってくる。

桶狭間の合戦=情報収集能力の優れた信長による、迂回奇襲
これが全く違う

桶狭間の合戦=出たとこ勝負の、運に助けられた、正面対決
となってしまうのだ。

このことを人の話すと「じゃあ、10分の1の人数でどうやって勝てたのか」と言われる。
「偶然」ですよ。
と言うと、
「偶然、勝てますか」と言われる。

確かに、2万に近いそれも東海一の弓取りと言われている、今川軍をたった2千の織田軍がやっつけたというのは納得行かない。

それが最近腑に落ちた。
漫画「せんごく」を読んでから。
漫画「せんごく」には桶狭間の合戦のことは書かれていない。
だが、キーワードは「横やり」だろうと思う。

そこで、
物語 『あらあら勝っちゃった!桶狭間の合戦』
ベースは、信長公記(大田牛一)

『あらあら勝っちゃった!桶狭間の合戦』 信長がクラスにいたら学級崩壊だなぁ                  原作 太田牛一
                  
(1)

その夜、織田弾正信長はまともな軍議すら行わず、
あつまった諸々将と雑談を交わしただけで散会としてしまった。
「運もつきれば、思考も曇る・・・。」
諸々の将は、悔しいとか残念とかそんなものはとっくに通り越し、
このわがままな主人のやりように、
嘲笑するしか方法はなかった。
東海一の弓取りと言われる今川軍の進軍に、
なすすべもなく、
ただ雑談するしかない、おおうつけの主人のありように、
残された道は、自嘲気味に笑うのみである。

諸々将の懸念通り、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。
今、判断を下さなければ・・・
主人、織田弾正信長の顔色をうかがったが、
何も言わずに奥へ入っていってしまった。

奥から敦盛の舞を舞う声が聞こえる。
『人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり』
ひとしきり舞った信長は、おもむろに部屋を出でてきた。

その目は、先ほどの目とは違う。
すっかりと腹の据わった目である。
信長は、
「貝を吹け」
「具足をもて」
とたて続けに下知を発した。

 まともに軍議もせずに、敦盛を踊るといきなり飛び出していった織田弾正信長。
 われわれは職業上、こういう人についてよく知っている。
 
 大人が望む行動ができず、悪友とつるんで、悪さばかりしてまわる。
 じゃあ、ひとの評価はどうでもよいのかと言えばそうではない。
 自分を叱ったり注意したりする人間に、以上に攻撃的になってしまう。
 そのため、周りからの評価を一段と下げ、さらに攻撃的性格を加速させてしまう。
 それでいて頭の回転が速い。
  
 この日の信長も、相も変わらず周りを振り回す。
 敦盛の舞を舞ったと思うといきなりの出陣である。

 諸将もあわてたが、いつもの自分勝手だと諦めもある。
 それに、この主人に逆らうと、その何倍もの報復を受けるのである。
 
 信長は経験上、ただ待つより、行動してから時差を埋める方が効率がよいことを知っていたのだろう。
 しかし、諸将に、多動傾向の主人の胸の内はわかろうはずもない。

 いきり飛び出した信長についていけたのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎。
 熱田まで3里を5騎で駆け抜ける。

 7時。信長は東方に上る煙を見、津・丸根の両砦が陥落陥落したのをしった。
 このころになって、やっと200程の兵が集まったことになる。
 この当時、1騎につき、50名ほどが従うような構成が一般的であるから、相変わらず、騎兵は6騎ほどだと言うことが分かる。

戦国時代の最小単位を「寄子」とよぶ。
寄子(騎馬)に郎党(歩兵)に付き従って戦場にやってくる。
そして、いざ、戦となると寄り子も騎馬を降りて戦う。
なぜなら、馬は両手で操らなければ乗れない乗り物であり、
戦で威力を発揮する槍も両手で扱わなければならない武器だからである。
馬に乗っているのは、高いところから指示を出すべき指揮官などごく一部だけである。
戦場で騎馬兵は1割以下。
これが、城や砦攻めの時には、もっと少なくなる。
歩兵の集団で、集団内での意思統一はなかなか難しい。
正面を攻撃中に、いきなり左への攻撃などはなかなかできない。
このことが、この後の今川勢の明暗を分けることになるのだ。

 前線からの諜報で今川は四万五千・・・

(2)

信長は、自分だけさっさと馬に乗って駈けていってしまった。

 諸将は大慌てである。
 一応、籠城にしろ打って出るにしろ、すぐに戦があるだろうから、諸将の郎党は準備を整えた上で待機していた。
 いきなり起こされ取るものも取りあえず、走って追いかけることになる。

 この当時の軍馬は、大型のもので150センチ。中型で135センチと小さい。(サラブレットが2mくらい)小さいと言っても人間が走るよりも大きく、そして早い。小型馬だからと馬鹿にできない。
 ちなみに、武田の騎馬軍団を馬の大きさが小さいからなかったとする説があるが、小さくても十分な戦闘力を持っている。
 武田は馬の産地である、猛々しい軍馬を大量に産出している。その馬を自在に操る騎馬武者も沢山いた。
 しかし、当時の軍編成は騎馬兵に付き従う郎党(槍 弓 鉄砲)でなされており、指揮官の騎馬兵を統率すること尾によって、全軍を統率している。だから、騎馬だけでチームを作ってしまうと、他の兵隊が逃げたり、途方にくれたりするから無理である。
 猛々しい馬と、それをあやつる武者がいたからこそ「武田の騎馬軍団」という虚実が作りあげられたのだ。

 さて、信長が善照寺にはいったことを知った、佐々隼人正らは喜んだ。
 籠城になっては、前線の兵士は手柄のあげようがない。
 「この上は、われらで戦の好期つくるべし!」
 と300の兵で無謀にも今川方に打って出た。
 結果は、いとも簡単にやられてしまい、佐々は討ち死に、
 50の兵を失った。
 これを聞いた義元は
 「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」
 とさらに上機嫌になり、謡を続けたのである。

(3)

ADHDの信長が、いきなり思いつきで城を飛び出し、諸将が大慌てでついていって、調子に乗って佐々が先駆けをして今川にこてんぱんにやられてしまったというところ。

 現在地は善照砦。(僕の手書き地図参考にしてください)

 信長は、善照砦から中島砦に進もうとしたのだが、これを家臣が止めた。
 今川義元が陣を張っているのが桶狭間である。
 ちなみに、桶狭間は谷ではない。
 漫画などでは、谷に信長が奇襲をかけているように書かれているが、桶狭間は『桶狭間山』という山というか、丘というか、ちょっと盛り上がったところにある。
 桶狭間が谷ではないから、イメージ通りの絵にしたくて「田楽狭間」が合戦の場だとしている小説なども多々あるが、太田牛一の『信長記』には田楽狭間の記事はない。

「殿、ここは危険です。中島砦までの深田は、今川の手のものから丸見えです。ひとまず、こちらの戦準備が整うまで、待機された方が・・」
と馬廻りのものが止めに入る。

「えーい。轡を離せ!ばか者。たわけ。先に進まねば戦はできぬわ!」
家臣の諫言を素直にきくような性格ではない。だって、ADHDだから。
「殿、しばしお待ちを」
「殿」
「またれよ。殿」
その場にいる全員が止めるのがだ全く聞かない。

勝手に深田の中を進み始めた。
これで、信長の接近を今川方が気付いたはずだ。

中島砦に到着したときに戦力は2000。
信長は、さらにそのまま合戦を仕掛けようとしたが、
さすがにそれは家臣によって止められた。

「聞け!敵は夕方に宵に食をとっていらい、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである。
くらべてこちらは新手である。
小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ
と古の言葉にもある。
敵が攻め立ててきたら引け。引いたならば攻めかけよ。
而してもみ倒し、追い崩すべし。
分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。
この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」
信長は、目の前にいる敵が今川の本体だとわかっていない。
今川本体は、沓掛城を攻め終わって出てきたところなのだが、
信長は何を思ったのか「大高に走り・・・」などと言っている。これは敵の先鋒の進軍ルートである。

桶狭間山にいるのは、今川義元のいる本体ではなく、くたびれ果てた先鋒隊だ!この勘違いが、プラスに働いた。
まさか、今川の本隊だと知れば、全軍びびってまともに戦えない。

今川勢にすれば、不幸な出来事が重なった。

まずは、2万5000の軍隊を、それぞれの砦を落とすために分散してしまったこと。

そして、信長が接近してきた時、丁度、沓掛城を攻め終わったところだったこと。

攻城戦と野戦では、戦の備えが全く違う。
通常の戦では、まずは弓隊の攻防からはじまり、
長槍がずらりと並んで、槍ふすまをつくっての槍での叩き合いになるのだ。
城攻めは、盾をもって、城の壁や土累に近づき、石やホウラクなど飛び道具によっての攻防の後、城に押し入っていく。

ふー。やっと城攻めがおわった・・・と出てきたところを信長の攻撃がはじまったわけだ。
武器を持ち替えたり、心の準備をしたりができない。
それどころか、信長の攻撃に気付いたところで、下々にまでその情報を伝達できない。

信長勢は、桶狭間山の麓までそっと近づいた。
今川義元はまさか、信長がこの本隊に攻撃をしかけてくるとは思っていない。

ここで、信長に天も味方した。
急の嵐が巻き起こった。
雷鳴が轟き、土砂降りの雨によって、今川義元が信長の接近をしるのが遅れてしまった。

信長の勝利を予見するかのように、
沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向け音をたてて倒れた。
それを見て諸将は奮い立つ。
「おー!これぞ熱田大明神のお力ぞ!!」

やがて、空が晴れてきた。
信長の声が轟く!
「すわっ!かかれ」

信長の軍勢は黒い塊となり、一丸となって今川勢に襲いかかった。
これを目にした今川勢はひとたまりもない。

鉄砲も、槍も、旗指物も、はたまた義元の輿までうち捨てられて、大混乱に陥った。
時刻は午後2:00。

義元の周囲には200騎ほどの兵がいたが、つぎつぎにおそわれ、あっという間に50騎にまで減ってしまっていた。

信長自身も馬を下り、槍をふるって、大奮闘。
馬廻りの者どもも負けじと奮闘。
さすがに負傷者が増え始めたが、それ以上に義元の周囲は手薄になっていった。

そのうちに服部小平太が義元に肉薄した。
義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだが、その横合いから今度は毛利新介が突進。
義元も今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられてついに討ち取られてしまった。

義元が討ち取られてしまっては、まともに抵抗できるものはいなくなった。
あとは、首をかってまわるだけである。
信長の元に次々と今川方の首が届けられた。
「首実検は清洲にて行う。」
そう、晴れやかに言い渡した信長は、さっそうと帰陣していったのである。


【クラウゼヴィッツ   『戦争論』】
両軍主力同士の決戦に勝った方が戦争の勝者。なぜならば、戦闘は数の多い方が勝つので、主力を失った方は敵の主力軍に対して打つ手がないから。分散した兵力は敵主力軍によって各個撃破され、敗北する。