何度もここを通っているのに、石灯籠のそばにある石板を
ちゃんと読んだことがなかった。
昭和五十七年に横浜市が設置したものらしい。
いまごろになって読み、こういうものだったのかと少々驚いた。

「横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、
安政三年(一八五六年)に埋立てられ太田屋新田といった。
横浜開港にともない、新田の沼地約一万五千坪が更に
埋立てられ、港崎町と命名され、その中に岩亀楼などが
開業し国際社交場として栄えた」
これが冒頭の部分。
国際社交場かあ……。
鹿鳴館みたいなものを想起しそう。
遊廓だったんだけどねえ。
素朴な半農半漁の村だった横浜が、いきなり開港場に選ばれた。
大急ぎで国際港を築き、船を集め、運河を掘って橋を架け、
住居や会社や店を建てなければならない。
まず必要とされたのは男手。国内外から一気に男達が流入した。
そうなると彼らの欲望を満たす場所が必要になる。
急遽、あちこちから女がかき集められ、開港と同時に遊廓が建設された。
幕府公認の「公娼」である。
その場所が、いま横浜公園になっているところ。
名前を港崎(みよざき)遊廓という。
たちまち、江戸の吉原に勝るとも劣らぬほどの賑わいになった。
横浜公園にある石灯籠は、港崎遊廓の中でも一番の大店だった
岩亀楼のもの。
幕府はトラブルを恐れて外国人が出入りできる店を限定し、外国人が
日本人女性を囲う場合も鑑札制にしのだが、その権利を一手に
担っていたのが岩亀楼だった。
日本人及び、いろんな国の男達が登楼したわけだから
確かにインターナショナルな社交場だっただろう。
ことに男性にとっては。
でも女性にとっては身を売る場所だ。
苦界とも呼ばれた。
苦界に身を沈める……という言葉もあった。
この説明板にはしかし、遊廓という言葉は一言も出てこない。
国際社交場という、なんだか意味不明の言葉に置き換えられている。
そんな必要があるのだろうか。
ちなみに港崎遊郭は開業から七年目の1866年(慶応二年)、
横浜の中心部を焼き尽くした大火で消失した。
おびただしい娼妓が、この時、焼死したという。