花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

紅葉と楓をたずねて│其の八・「十便十宜図」宜秋

2017-08-21 | アート・文化

 宜秋 │ 池霞樵 謝春星『十便十宜畫冊』

日常診療において、処暑まであと二日となるも、夏の暑湿に起因する不調を引き摺っておられる方が少なくない。《二十四節気の養生│夏のように生きる》で取り上げた「宜夏」に続いて、秋風を呼び寄せるべく「宜秋」を取り上げる。李漁(李笠翁)の『伊園十便十二宜詩』を主題とした描かれた、国宝指定の『十便十宜帖』(川端康成記念會蔵)は、一般に「十便十宜図」とも呼ばれる。与謝蕪村(南画の絵師としての雅号は謝春星、謝寅)作の『十宜画冊』は、宜春、宜夏、宜秋、宜冬、宜暁、宜晩、宜晴、宜風、宜陰、宜雨の十種の詩画から成る。

「「宜秋」は十圖のうち最も端正典雅である。靜寂、淸淨に落ち着いてゐる。大樹のもみぢの色が畫面を領して華麗である。木の幹、岩、堀、屋根、山にも、大方同じ色を淡くつけて、秋色を漂はせている。細かい竹が愛情をそへている。遠山のおもしろい形も調和をやぶらない。まことに整った畫面である。」
(『川端康成全集』第二十八巻 随筆(3), 口繪解説,十八 與謝蕪村 十宜の内、宜秋, 新潮社, 1972)
上に掲げたのは、私蔵の美術品の口絵解説において川端康成が「宜秋」について述べておられる一節である。没後30年『川端康成---文豪が愛した美の世界』展が、2002~2003年にかけて東京・サントリー美術館に続いて京都文化博物館で開催された。この一文はその時に求めた図録の「第二章:美との邂逅---文豪が愛した美」の章にも掲載されている。



  伊園十宜・宜秋   李漁
門外時時列錦屏  門外時時列す錦の屏
千林非復舊時靑  千林復た舊時の靑にあらず
一從澆罷重陽酒  ひとたび重陽の酒を澆(そそ)ぎ罷(おわ)りしより
醉殺秋山便不醒  秋山を醉殺して便(すなわ)ち醒めしめず

原詩の詩意を辿れば、門外の錦の屏風となった樹々の色、重陽の節句(陰暦九月九日には登高し菊酒を飲む)の酒をそそいだ時より、深き酔いの只中のように全山は紅葉の色で染められ醒めずにいる、という意味となる。蕪村の画では、東屋を囲む紅葉の中に點葉で描かれ青磁色の淡彩を帯びた緑樹が挿まれる。さらに深遠に経営位置された山谷の重畳は皴法で、余白に消えゆく遠山はたっぷりと墨を含ませた淡墨の没骨で描かれる。全山を酔いつぶした紅葉に描くのでなく「舊時の靑」(以前の緑)を残した景色は、この後さらに深まりゆく季節の推移をみせているのだろうか。置かれた寒色はつと吹き来る秋の涼風を感じさせる色面構成でもある。

原寸大完全複製の『国宝十便十宜画冊』は最近入手することが出来た、つづら掛けの桐箱に納められたレプリカである。場所塞ぎの道楽本がまた増えたと家族には至って不評であるが、相も変わらず聞こえないふりで座右に置いて飽かず眺めている。もとより私は蕪村が好きである。



参考資料:
『池霞樵 謝春星 十便十宜畫冊・別冊』, 筑摩書房, 1970
川端康成:川端康成全集 第28巻 随筆3, 新潮社, 1982
没後30年『川端康成---文豪が愛した美の世界』展図録, 2002
『芥子園画伝』巻二, 天津古籍出版社, 2006

紅葉と楓をたずねて│其の七・諏訪館跡庭園

2017-08-14 | アート・文化


紅葉する頃に再び訪れたいと思いながら、果たせぬままに心の内にその姿を留めてきた一本の青楓がある。

平成十三年、残暑の時節に、大和未生流御家元監修で流派の研修旅行《日本美探訪~名庭園を訪ねて》が主催された。この時に初めて福井の一乗谷・朝倉氏遺跡庭園を訪れる機会を得た。戦国大名の朝倉氏が五代に亘り栄華を誇り、文化・芸術の花が開いた越前一乗谷の城下町は、朝倉義景が織田信長に敗れ去った後に火が放たれて灰燼と帰した。
 水藤真著『人物叢書 朝倉義景』は、朝倉氏断絶の幕を引いた義景の領国統治、他国との戦闘や外交における史実を詳細に探り、義景を取り巻く内外情勢及び個人的事情、性向にまで踏み込み、これらの要因が複合的に絡み合い滅亡への道を辿った過程を克明に論じている。辞世の偈は「七転八倒、四十年中。無他無自、四大本空。」(七転八倒、四十年の中(うち)。他無く自無し、四大本(もと)より空。)である。武門の嫡子に生まれて四十年、七転八倒の経験界。自他の別なしの、主体として我、客体としての他、その主客の対立を越えた境位に至り、地水火風の四大(しだい)の根本は空なりと正見を得るという意であろうか。
 その生涯を綴った歴史小説、井ノ部康之著『一乗谷炎上』には、「わしは信長や家臣たちに敗れたのではなく、自分自身との戦いに敗れたのだ。そして、何一つ得ぬまま、永遠の無の世界に入ってゆくのだ。」と、辞世の筆をとった最期の義景が描かれている。本書の最後の一文は、「一乗谷では、毎年、秋の彼岸の頃になると、義景や綾姫が見たと同じ真紅の曼珠沙華の花が小さな炎のように咲き乱れる。」である。
 その機に臨んで遅疑逡巡なく、「吹毛急用不如前」(吹毛(すいもう)急に用いて前(すす)まんに如かず)の行動を為すために何を截断せねばならなかったのか。ノンフィクション、フィクションの違いはあれども、この点において両書に描き尽くされているのは、義景の人間的な、あまりにも人間的であった姿である。

諏訪館跡庭園は一乗谷・遺跡庭園群の一つで、最後の側室、小少将の館に造られた、上下二段の構成から成る池泉回遊式庭園の遺跡である。晩夏に訪れた時、石組の間を往時流れ落ちていた二筋の滝や池泉の水は既に涸れ果て、寂漠の苔生した枯山水の景観を見せていた。四米の高さは優に超える滝添石の横には一本の実生の青楓が屹立し、石組を覆うように大きく枝葉を広げていた。歴史の彼方に消えゆく人間の哀歓など塵ほどの重みもないに違いない。何があろうともまた巡り来る季節の自然をその一本に体現して、挑むかの様に強かに楓は立っていた。何時の日か必ず、私はあの時に見届けた楓の風姿を生けねばならないと思っている。

参考資料:
『一乗谷』, 福井県立一乗谷朝倉屋敷遺跡資料館, 1981
水野克比古:『日本の庭園美 一乗谷朝倉氏遺跡』, 集英社, 1989
水藤真:人物叢書『朝倉義景』, 吉川弘文館, 1981
井ノ部康之:『一乗谷炎上』, 幻冬舎, 1998


紅葉と楓をたずねて│其の六・能「紅葉狩」

2017-08-13 | アート・文化

平維茂戸隠山に悪鬼を退治す図 / 月岡芳年『新形三十六怪撰』
XVI: Taira no Koremochi Vanquishing the Demon of Mount Togakushi / Stevenson J: Yoshitoshi's Thirty-Six Ghosts, Blue Tiger Books, 1992


能曲『紅葉狩』の前シテは上臈、後シテは鬼女である。信濃、戸隠山に鹿狩に出掛けた平維茂が、山中で紅葉狩に興じるやんごとなき上臈の一行に出会う。林間に酒を煖め紅葉を焼く秋興を妨げまいとの心遣いから、馬を降りて別の道をゆこうとする維茂であったが、請われるままに酒宴の席に加わる。上臈の舞に見惚れ盃を重ねた維茂はやがて酒に酔い臥してしまい、上臈達は彼が寝入ったのを見届けた後に姿を消した。その夢の中に岩清水八幡宮末社の神が顕形し給いて上臈の正体をお告げになるとともに、忝くも霊剣をお授け下さる。目覚めた維茂は化生の姿を現し襲い来る鬼女に立ち向かい、見事に成敗を遂げる。
(『観世流大成版 紅葉狩』廿四世宗家訂正著, 檜書店, 1952)

『紅葉狩』に現れる鬼女は鬼神であり、生身の女人が魔道に落ちた鬼ではない。身分の上下には関わりなく無明の嫉(ねたみ)にとらわれ、瞋恚の焔炎に心を焼かれた『葵上』や『鉄輪』のシテとは異なる鬼である。紅葉狩の宴に始まり一転して最後を締める活劇まで、『紅葉狩』には不気味で陰惨なイメージがなく、それとともに愛欲に翻弄された女人の業や息づく人間性とも無縁の場面展開である。

芳年の妖怪画の集大成である『新形三十六怪撰』(しんけいさんじゅうろっかいせん)は各々芳年独特の解釈で描かれている。「平維茂戸隠山に悪鬼を退治す図」に表される維茂は、夢の中ではなく目覚めて大盃の中に妖かしの異形を見出して正体を知る構図となっている。いまだ覚めぬふりを見せながら、神剣を手に今まさに背後に迫る鬼神に破魔の一太刀を振るわんとする、緊迫した刹那の描写である。
 ギリシャ神話の勇士ペルセウスは、メドゥーサ討伐の際に、石化される魔性の力を防ぐためにメドゥーサの姿を盾に映して戦った。もし維茂が酒宴の席で向かい合った貴婦人の外面似菩薩の﨟長けた姿の奥に、早々と内心如夜叉の本性をその眼で見てしまっていたならば、勇猛果敢な維茂であろうとも命運は定かでない。この世には男が直に見てはならぬものがある。


紅葉と楓をたずねて│其の五・「伊勢物語」龍田河

2017-08-12 | アート・文化

百人一首之内 在原業平朝臣 / 歌川国芳
92 Coutier Ariwara no Narihira and his attendants admire autumn leaves on the Tatsuta river / Timothy Clarke: Kuniyoshi, Royal Academy Books, 2009


伊勢物語の「むかし、をとこありけり」で展開する在原業平に、古典の時間に初めて読んだ時より魅かれている。「思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける」の段で心打たれ、「山の端にげていれずもあらなむ」の渚の院、惟喬の親王の段が胸に響いた。長じて後、たまたま立ち寄った奈良の古書店で、噂に名高い唐木順三著『無用者の系譜』を見出して入手した。ついに拝読することが出来た時にはこれぞ我が意を得たりと感じた。

「つまりはデカダンの徒のにほひがするのである。フランスの世紀末のデカダンを單に頽廃堕落の無頼の徒とはひとは思はないだろう。頽廃において美しく、無頼に置いて倫理的であるといふイロニイが、すでに九世紀の日本にあらはれてゐると私は思ふのである。伊勢物語の作者が業平に感じたもの、またかくの如きものが業平の姿であったと描いたもの、その「昔男」の像は、私の感じた業平であった。いや逆に、實は私の業平像は、伊勢物語の「昔男」を通してのそれであるといふことになろう。」
(『無用者の系譜』, p10)

『無用者の系譜』の最後は「業平像の根柢をなすものは、「身をえうなきものに思ひなして」の一點にあると私は考へる」で締められる。本書では「自分を無用者と自覺することによって、現實世界はひとつの變貌(トランスフィグレーション)をきたし、舊來の面目をあらためたのである。」であること、憂き世を捨て離れることにより新たに開かれた心の世界が歌になり、現実、具現の世界とは次元を異にする「觀念世界の誕生」がおこったこと、そして「もののあはれも、みやびも、この業平體驗なくしてありえなかったに違ひない。」と綴られている。(Transfigurationは変貌、変容を意味し、聖書では山上におけるキリストの変容を示す。)
 良くも悪くも多感な年頃に、業平像の心にありと本書で強調しておられるところの「きよらかなあはれ」に出会えたことは実に幸せであった。毎年、照紅葉を生ける時節が近づいてくると、この百六段の「ちはやぶる神代もきかず」の歌を思い起こす。そして龍田川のからくれなゐの錦の向こうに業平がみたものに思いを馳せている。

Unheard of / even in the legency age /
of the awesome gods: / Tatsuta River in scarlet /
and the water flowing it.

 昔、をとこ、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、
ちはやぶる神代もきかず龍田河からくれなゐに水くゝるとは

参考資料:
大津有一校註 ワイド版岩波文庫『伊勢物語』, 岩波書店, 1994
唐木順三著『無用者の系譜』, 筑摩書房, 1960


夏の終わりに

2017-08-11 | 日記・エッセイ

『團扇畫譜』収載画

江戸時代の漢方医、亀井南冥の『古今斎以呂波』に「醫は意なり、意と云者を會得せよ、手にも取れず、畫にもかかれず」という歌がある。古来、医術も芸術も術と名の付くものを学ぶにあたっては、はなから勘処を手取り足取りお教え頂けるのではなく、謹んで師匠の技を拝見して「盗んで覚えよ」があらまほしき修得方法であった。盗むという表現は悪いが、要諦に対する問題意識が希薄なままに受け身一辺倒であれば、結果は皮相的な習得に終わるからである。時は今、新人に解りやすい指導者が推奨される時代が到来したが、能動的な気概が求められることに変わりはない。
 東西医学にしても華道、その他諸々、入門から現在に至る迄、数多の有難い指導や機会をその道の師や先達より頂戴しながら、猫に小判状態であった自分が果たしてどれ程各々を血肉と化し、自家薬籠中の物とさせて戴くことが出来ただろう。振り返れば忸怩たる思いが満載の我が身に比して、あちらこちらでお見かけする現代の新来者は優秀である。この方々が色々な領域を将来担ってゆかれるのであり、日本の未来は捨てたものでない。


腹痛と腹部不快感のこと

2017-08-10 | 医学あれこれ
重複した研究会のいずれに出席するかとさんざん迷った挙句、耳鼻咽喉科でも漢方でもない畑違いの消化器内科関連の講演会に出向いた週末があった。作成中の論文に関連し消化管症状について認識を深めねばと考えた為である。特別講演は『機能性消化肝障害の新たなる治療戦略』(演者:慶応義塾大学学部 医学教育統轄センター、鈴木秀和教授)であった。
 機能性消化管障害(functional gastrointestinal disorders; FGIDs)の診断基準には従来からRome基準が用いられている。過敏性腸症候群(IBS)はFGIDsの一つであり、器質的な異常を認めないのにも関らず、腹痛あるいは腹部不快感、便通異常が持続する機能性消化管疾患であるが、新しいRome IV基準では「腹痛または腹部不快感」から腹部不快感が削除された。重篤な症状の「腹痛」から重篤でない「腹部不快感」までの一連の症状において文化的異質性 (cultural heterogeneity) の要素を除くべく、鍵となる症状「腹痛(abdominal pain)」に今回絞られたのである。だが「腹痛」の感じ方、捉え方においても本邦と欧米では差がありますと、質疑応答の際に他の質問に関連して述べておられた。
 肉体的な疼痛は誰でも一度は何処かに感じたことのある感覚である。「心の疼きや痛み」などとは異なり、腹痛は古今東西等価交換できる余計なものが入り込まないシンプルな感覚に思いがちである。しかし「腹痛」という言葉で切り取られる感覚は、痛みの認知プロセスにおいてすでに文化枠組的な制約を受けている。これは腹痛のみならず、腰痛であっても耳鼻咽喉科領域の耳痛であっても事は同じだろう。西洋医学の日常診療においても、背負っておられる個々の文化的異質性は絶えず念頭におかねばならない大切な留意点である。




空蝉│大暑に源氏物語を読む

2017-08-05 | アート・文化


「寝られたまはぬままに、「我はかく人に憎まれても習はぬを、今宵なむ初めてうしと夜を思ひ知りぬれば、恥づかしくてながらふまじくこそ思ひなりぬれ」などのたまへば」
(お寝みになれぬままに、「わたしは、こうも人に憎まれたことはこれまでもなかったのに、今夜といういう今夜は、はじめて人の世がままならぬものと身にしみて分ったから、恥ずかしくて、もうこのまま生きてはおられそうもない気がする」などとおっしゃるので)
(新編日本古典文学全集20『源氏物語』一 空蝉, p117, 小学館, 1995)

生薬「蝉退(せんたい)」に関連して、蝉が脱ぎ棄てた抜け殻を意味する「空蝉」は夏の季語である。冒頭は『源氏物語』《空蝉》の帖での光源氏の独白である。地下(じげ)の悪風(あくふう)から隔絶され純粋培養された貴顕の御曹司が遭遇したコンタミ(contamination)とはかくの如きものか。この後二人は《関屋》で再会する。尼姿となった空蝉は、常陸の宮の御方(末摘花)とともに最後に二条東院(にじょうひがしのいん)に迎えられる。ともにさるべき筋ながら後見を失い、寄る辺なき身に堕ちたのを光源氏に拾われたのである。女ばかり身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし。命綱となる太い臍の緒を持たず、また幾重にも張り巡らされたセーフティネットもなければ、時世に移ろい落ちこぼれ行く果ては底知れずの奈落である。

「常に、をりをり重ねて心まどはし玉菱世の報いなどを、仏にかしこまりきこゆるこそ苦しけれ。思ひしるや。かくいと素直にしもあらぬものをを思ひあはせたまふこともあらじやはと思ふ」
(昔、幾度となくわたしに恨めしい思いをおさせになったころの報いなどを、いつも仏様におわび申しておられるのがいたわしいことです。よくお分かりですか。男というものがこのわたしのようにまったく素直なものとは限らないのに、と思い合わせになることもなくはあるまいと思います。)
(新編日本古典文学全集22『源氏物語』三 初音, p156-157, 小学館, 1996)

こちらは《初音》において、二条東院の末摘花の所に続いて空蝉を訪れた光源氏が語りかけた言葉である。光源氏にとり彼女等はもとより重く扱う必要のないthird classの女達である。《帚木》の「雨夜の品定め」に見る如く、光源氏にどのように遇されるかは、まずは女が属する階層や家格の“品(しな)”に応じた取説で決まる。薫の君が《夢浮橋》で、浮舟が自分にとってその様な位置づけであるとさらりと述べた言葉、「もとよりわざと思ひしことにもはべらず」と似通う。建前上は身分制度がない現代人の感覚で違和感を抱こうとも、これが光源氏や薫の君等が共有する社会的性格であり、自然な発想と行動なのだろう。

光源氏をあやつる紫式部の冷徹な描写は容赦がない。もとの品たかく生れながら今や身は沈み、生来色々な意味で残念な前者には、侮蔑とも憐憫ともつかぬ眼が注がれる。そして後者に対しては、なお心ばせありと一目は置きながらも、あの時「脱ぎすべしたると見ゆる薄衣」をつかませた顛末の負い目を一方的に担わせたまま、‘他人同然の関係’となれば捨て置くのが普通であって自分のようにその後も女を庇護することはないと言い渡す。わざとがましく言わずもがなの台詞である。
 「つれなき人の御心をば、何とか見たてまつりとがめん。そのほかの心もとなくさびしきこと、はた、なければ」(君のお情けは薄くともそのほかに不安で心細いことは何もないのだから)と思へとや。御蔭に隠れてかばかりの御心にかかりて年経るしかすべのない女達を、そして光源氏をも、紫式部はあたかも実験対象を観察するが如き眼で描き切っている。


京都・松栄堂製「源氏香之図」

檜扇のいけばな│大和未生流の稽古

2017-08-03 | アート・文化


大暑の終わりに本年最後の檜扇の花を生けた。天の役枝を立てる檜扇の生け方(花は天、前囲と人)、そして天を傾ける生け方(花は天、天添と人)の二種である。平成13年8月5日に開催された流派の研究会のテーマが檜扇であり、本棚に仕舞い込んだ記録を引き出してお教え頂いたことを反芻しながら檜扇に向かった。大和未生流のそれぞれの型にはそうならしめた確固たる思想があるのである。

射干も一期一会の花たらむ   石田波郷



養生の鍵

2017-08-02 | 日記・エッセイ


私の日本漢方の師匠、三谷和男先生曰く、「漢方は人を怠け者にする医学」である。勤勉な人を怠け者にする医学が人を救うのである。教えを頂いた弟子の私は、その後のささやかな臨床経験を通してこの教えの重要性を痛感した。極言すれば「養生とは周囲に不義理をすることと見つけたり」であった。向こうに気を遣いあれも筋を通さねば等々、そうあるべきと思うゴールをひたすらめざし続ける限り、自分の心身は何時も二の次とならざるを得ない方々が少なからずおられる。まさしく《鶴女房症候群》あるいは《スタンバイ症候群》の確実例である。このようにいい加減でよいのかしらんと懸念されるぐらいで御心配なく、六割の合格点などすでに遥か突破なさっておられます。

奈良の鹿

2017-08-01 | 日記・エッセイ


奈良市内の生家に居た若い頃の母は、早朝しばしば、裏の竹薮から入り込んだ鹿が数頭、家の畑を食い散らかしている現場に出くわしている。棒でしっしと乱暴に追い払うことも憚られ、満腹した鹿の一群が表門から悠然と出てゆくまで大変苦労をしたらしい。奈良人が早起きなのは、隣家に出遅れて門前に鹿が倒れているのを見逃しでもしたらそれこそ一大事であるからだ、という半ば都市伝説がある。春日大社の神鹿に対する無礼に石子詰で臨んだ時代ではなくとも、朝な夕なに見かける鹿を心に掛ける習性は、現代の奈良人から完全には消え去っていない。

奈良の鹿は昭和三十二年に天然記念物に指定されている。日夜、多くの方々が鹿に良かれと慮り環境整備を行ってこられた中で、野生の角をなくし従順に飼いならされた鹿になったかといえば決してそうではない。奈良公園内を親から離れて歩いていた幼児に、突然、離れた場所から走り寄った雌鹿が頭突きをする光景を見て驚いたことがある。鹿煎餅をやる鹿を選り好みしていた観光客が、選にもれた多数の鹿に一斉に飛び掛かられ慌てて煎餅を放り投げてお逃げになる姿も珍しくない。夜更けて公園の街路から茂みに懐中電灯を向けると、闇の中に幾つも並んだ不気味に光る眼がこちらに視線を定めて動かない。

冒頭に書いた様な状況で奈良公園以外の農山村部において農作物の食害が増加しているために、本日から保護区域の外側の管理エリアにおいて、一定数の鹿の捕獲、処分が開始となったことを朝刊で読んだ。これも諸処の事情を踏まえて決断なさった仕儀なのだろう。奈良は内外からの観光客が益々増加する一方で、訪れる人々が背負う文化もその心情も様々である。世の移り変わりなど与り知らぬまま、良くも悪くも人馴れした奈良の鹿である。人との避けがたい異種交流(交流というのも人間の勝手な思い込みなのかもしれないが)に際して、人災としての交通事故や傷害に遭遇することなく天寿を全うして欲しいと願うばかりである。
最後に掲げたのは『正法眼蔵随聞記』にある鹿の話である。

示して云く、道者の行は善行悪行につき皆おもはくあり。凡人の量る所にあらず。昔し慧心僧都、一日庭前に草を食ふ鹿を、人をして打ち追はしむ。時に或る人問て云く、師慈悲なきに似り、草を惜みて畜生を悩ますか。僧都の云く、しかあらず、吾れ若し是を打ち追はずんば此の鹿ついに人になれて、悪人に近づかん時は必ず殺されん。この故にうちおふなりと。これ鹿を打追は、慈悲なきに似たれども内心は慈悲の深き道理、かくのごとし。
(ワイド版 岩波文庫『正法眼蔵随聞記』第六 十, p140, 岩波書店, 1991)