浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

ギャング国家

2013-03-26 14:39:20 | 資料

フィリピンを侵略するギャング国家

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写真はスプラトリー諸島の渚碧礁(スービ礁)

中国が南沙(スプラトリー)諸島の渚碧礁(スービ礁)と美済礁(ミスチーフ礁)で軍事施設を増強していることが分かった。

 1970年末、ベトナムが南シナ海沖に油田を発見(バホー油田)、1974年には早速中国が南ベトナムに進軍し、西沙諸島を占拠。この場所は南沙諸島へ進出する重要拠点となり、要塞化される。

 1979年には、ベトナム本土へ人民解放軍が侵攻(中越戦争)、アメリカさえ追い払ったベトナムが中国などに負けるはずもなく、人民解放軍はあえなく敗退する。

 1982年に国連海洋法条約が制定され、沿岸国に大幅な海洋資源の権利が認められるようになってから争いは激化。他の沿岸国も領有権を主張するようになった。ベトナムと中国も競って南沙諸島の小さな島々を一つ一つ占領していった。まさに早い者勝ち状態である。

 中国は南沙諸島の海域に複数の軍事施設を建設し、1992年には一方的に南沙諸島の領有を宣言する(中国は尖閣諸島だけでなくどこでもこうである)。

 台湾やフィリピンなども少数ながら島を領有し、中国船にフィリピン軍が威嚇射撃を行うなど、中国の思い通りには行かない。

 ASEAN(東南アジア諸国連合)会議にはアメリカが仲介役で登場し、中国をけん制するためにフィリピンやベトナムに軍事要請を申し出る。中国は当然猛反対する。フィリピン以外のASEAN諸国も地域内解決を主張している。

 元々この紛争はフィリピン駐留の米軍が撤退したことで力の空白が生じ、中国が増長したため起きたと考えられており、米軍が介入するのが、最もこの地域の安定に役立つと思うが、これ以上アメリカに石油をやりたくないという各国の思惑が透けて見える。

1995年の総選挙で華人による多数派を占めた当時のラモス大統領が、明らかに中国の意を受けて米軍の駐留継続拒否を決定したことが、現在アジアで起こる中国の数々の侵略の引き金となったと言える。

当然尖閣諸島に触手を伸ばすのが考えられたのだが、日本の外務省や政府は、独特の事なかれ主義をとり、中国の動きを助長した。

無能のエラップの後を引き継いだアロヨが米軍の影響を復帰すべく動いたが、時既に遅し、次々と中国が無人島を支配下に置いた。現在フィリピンに存在する米軍は小規模なアントニオ・バウティスタ基地(パラワン島)のみである。

今後は中国の支配排除は、武力に頼る以外に手はないとみられ、非力なアジア各国には絶望的状況となっている。

今の南沙諸島、西沙諸島、尖閣諸島などの中国による侵略と紛争のきっかけは、すべてラモス大統領によるクラーク、スービックの米軍基地撤廃から始まっている。

国の権益を売り飛ばした見返りが、マカパガル地区の土地利権というわけだ。

本来国賊であるはずの集金屋ラモスだが、華人財閥と華僑に守られ、その実態がフィリピン国民には知られることがない。それを更に助長したのが無能なエラップ(エストラーダ)である。

ラモスの利権稼ぎで米軍が撤退することが無ければ、現在の過激な海洋紛争など起こってはいないだろうと言われる。本当に迷惑な話だ。

しかし今のノイノイの偉いのは、弱小国でありながら国家権益に対して、巨大中国を相手に一歩も退かない態度である。フィリピン軍が駐留する島に対して押し寄せる中国船に対して威嚇射撃を繰り返している。この強硬路線が立派に島を守っているともいえる。腰が引けていると見透かされると、いくらでも押し寄せるのが中国の戦法だからだ。

だからいくら口で「遺憾だ、遺憾だ」と言ったところで、何度でも馬鹿にしたように尖閣に押し寄せるのである。侵略に対してはたとえ銃撃を加え殲滅しても、国際法で認められた当然の権利なのである。南朝鮮も中国船を何度も銃撃している。それに対しては中国も全く国際問題に出来ないで居る。

2012年7月17日、中国共産党国務院は三沙市の成立を正式にしかも一方的に発表した。

 三沙市は海南省に属し、南沙諸島(別名スプラトリー諸島、チュオンサ諸島)、西沙諸島(同パラセル諸島、ホアンサ諸島)、中沙諸島にある260の島やさんご礁、干礁などで構成される。

 海南省政府は海南島東部の文昌市を三沙市への支援、補給拠点として位置付けた。中国国務院は同省政府の方針を承認し、東西900キロ、南北1800キロ、総面積200万平方キロ(領海含む)に達する広大な行政区域が誕生した。実に中国の総陸地面積(960万平方キロ)の21%に相当する広さだという。

 南沙諸島一帯は原油や天然ガスなどの資源に恵まれた軍事的要衝だ。このため、中国、ベトナム、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ブルネイ、台湾が1970年代から領有権を争っている。

◆西沙諸島

 パラセル諸島(パラセルしょとう)または西沙諸島(越:Quần đảo Hoàng Sa、中:西沙群岛、英:Paracel Islands)とは、南シナ海に浮かぶ多数のサンゴ礁の小島。 Wikipedia

  

 1973年9月、南ヴェトナムがスプラトリー群島を同国フォクトイ省に編入。

 1974年1月11日、中国が南ヴェトナムのスプラトリー群島編入に抗議する声明を発した。
中国はこれを口実としてスプラトリー群島に侵攻せんとするも、制海権がないため、南ヴェトナムの領有するパラセル群島を侵略することにした。そして、準備が整うのを待って、「抗議」声明を発したのであろう。

 同1月16日、即ち「抗議」声明から僅か5日後、中国海軍哨戒艇2隻、漁船2隻がパラセル群島甘泉島に上陸して同島を占領。

 同1月17日、南ヴェトナム海軍艦艇4隻が甘泉島に逆上陸して中国軍を退去させ、これを奪回。一方、中国側は、中国民兵2個営(大隊)が同群島深航島に上陸し、南ヴェトナム軍の反撃に備えて陣地構築。

 同1月19日、南ヴェトナム軍艦艇2隻が深航島を奪回すべく中国民兵と交戦するも撃退され、また、深航島付近海上において、中国海軍艦艇14隻(含コマ級ミサイル艇3隻)と南ヴェトナム海軍艦艇7隻(含掃海艇)が交戦し、中国軍が南ヴェトナム軍を破って同島海域を制圧。

 同1月20日、中国軍戦闘機「ミグ-21」4機が珊瑚島、甘泉島、金銀島を爆撃した後、中国海軍1個営約500人が上陸し、これら3島を占領。ここに中国軍がパラセル群島の全島嶼を占領した。

◆南沙諸島

 南沙諸島(なんさしょとう、スプラトリー諸島、Spratly Islands)は、南シナ海に浮かぶ約100の小さな島々。諸島全体は大変小さな島々で構成され、互いの距離は十数キロメートルから数十キロメートル程度で位置している。 一般の人が普通に居住できる環境ではなく、島そのものにはほとんど価値が無いが、海洋・海底資源が見込める。そのためベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、中華民国、中華人民共和国が領有権を主張している。 Wikipedia

   

 スプラトリー群島は中国からはるか遠く離れたブルネイ近海にある100以上の小島、岩礁の総称であり、これらが東西800km、南北600kmという広大な海域に散らばっている。

 このスプラトリー群島を中国、台湾、ヴェトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイの6ヶ国が領有を主張して争っている。中でも中国、台湾、ヴェトナムはスプラトリー群島全域の領有を主張しているが、これら3国中でも中国こそスプラトリー群島から遠く離れており、歴史的にも殆ど関係がないことは言うまでもない。しかし、その中国こそが最もスプラトリー群島の「領有」に熱心で、その手口はなりふりかまわずと言って良いものである。

 1988年2月、中国軍がスプラトリー群島に侵攻し、ヴェトナムの実効支配下にあったいくつかの島を占領した。こうして中国はスプラトリー群島に「橋頭堡」を獲得した。

 1992年、中国が領海法を制定してスプラトリー群島の「領有」を宣言した。また、この年5月、中国は突如として、アメリカのクレストン・エナジー社に、スプラトリー群島の南西のはずれにある浅瀬「ヴァンガード堆」の石油探査をする権利を付与することを発表した。これは資源探査を第三国の私企業に許可することによって、その海域にたいする主権を既成事実化することを目的としたものであり、尖閣諸島問題でも中国が採った手口である。

 1995年5月、フィリピンが実効支配しているミスチーフ礁に中国が勝手に軍事建造物を設置した。

 これ以後、紛争当事者たちは各々滑走路や建造物を設置して「領有」の既成事実化に躍起となっており、現在もこの過熱状況が続いている。

◆チベットと中国

 歴代中華帝国の中でチベットをその統治下に置いたのは元と清である。

 しかし、元は大モンゴル帝国の一部、清は満州・モンゴル連合国家であり、その一面として中華帝国としての側面を持っていたに過ぎない。

 唐の公主がチベット皇帝に嫁したことを以て、唐がチベットを統治したという珍説が中国人によってよく主張されるが、これはむしろ唐がチベットを懐柔するための贈り物であって、統治下に置いたなどは問題外である。

 このように、チベットは有史以来中国(漢人国家)に属したことはなく、「チベットは古来より中国の不可分なる固有の領土である」という中国の主張には全く根拠がない。

★中国軍のチベット侵略

 清朝滅亡後、中華民国はチベットを「中国の一部」と主張していたが、チベットは独立国であることを主張し、事実中華民国の支配下にはなかった。また、歴史的にもチベットが中華民国を始めとする漢族の支配下に入ったことは1度もなく、この点からもチベットの主張が正しいと言える。

 ところが、1949年に中国共産党が国共内戦に勝利して中華人民共和国(以下中国)を建国すると、中国はチベット侵略の意図を露にし、1950年1月1日から北京放送が次のような放送を繰り返し行った。
「人民解放軍が1950年度の目標とするところは、台湾、海南そしてチベットの「解放」である。」

 このような中国の露骨なチベット侵略・併合企図に対して、チベット政府は交渉による解決を目指し、インドにおいて中国代表団と交渉に臨んだが、中国側は

1)チベットの国防を中国が担当すること、
2)チベットが中国の一部であること、をチベットが認めるよう要求。

チベット側はこの要求を拒否する一方、この要求を本国政府に伝達することを中国側に約束した。

 ところが、チベット側から中国の要求に対する正式回答がなされる前の1950年10月7日、政治委員王其梅指揮する中国軍4万が突如東チベットに侵攻した。これを迎え撃つチベット軍、カムパ義勇軍が州都チャムド(昌都)北東デンゴにおいてこれを撃破するも、質量に勝る中国軍により、同15日、チャムドは陥落した。

 そして、同25日、中国政府は「人民解放軍は300万のチベット人民を(ありもしない)「帝国主義者の圧政」から「解放」し、中国西方国境の守備を強化するため、チベットに軍を進める命令を受けた。」と声明を発した。

 1951年5月、中国が北京においてチベット代表団に17条協定案※を最後通牒の如くに突き付け、銃を机上に置き、「サインするか、それともこれ(銃)か」と威嚇してチベット側に署名させた上、ダライラマの印璽を偽造して押印した(5月23日)。

※同協定は第1条からして歪曲・捏造に満ち満ちたものであり、当然ながら中国に有利な条項以外が守られることはなかった。

第1条は次の通り。
「チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る。」

当時チベットを侵略していたのは中国だけであるから、「帝国主義侵略勢力」=中国であり、中国こそがチベットから駆逐されなければならない。

また、チベットは有史以来現代中国の支配民族である漢族の支配化に入ったことは1度もなく、「祖国の大家族」になど元々属していないから、「戻る」ことなどあり得ない。

 さて、同9月9日、ダライラマ14世が未だ17条協定を批准していないにもかかわらず、中国軍2万が同協定を口実としてラサに「進駐」し、「駐留」するため、広大な土地を占領して多くの家屋を接収し、莫大な量の食料を要求した。

 そして、中国はその武力を背景としてダライラマに強力な圧力を加え、同10月24日、遂にダライラマに17条協定を批准させた。

★中国の圧政とチベットの抵抗

 東チベットは、中央チベットに先立ち、1950年以降、中国の軍事管制下に置かれて、土地改革、農業集団化や漢人の「入植」等が進められ、カムパ族をはじめとするチベット人の漢人に対する反発が強まっていた。

 1953年、カム南部ギャルタンにおいて、中国が全ての住民を5階級に区分して、上位の階級に属する者を逮捕し、公衆の面前で批判または告発して銃殺した。

 1954年には、中国軍がアムド(青海省)においてゴロク族の寺院数軒を焼き払った。これに激怒したゴロク族が中国の圧政に抗して蜂起し、山岳地帯を背後にゲリラ戦を展開。

 1956年初、カムパ族多数(約6,000人)が中国の支配に抗して山に逃れ、各々小規模な抵抗組織を編成してゲリラ戦を展開し、チャムド、リタン、パタン、カンゼを一時的に中国支配より解放した。

 同6月、中国軍がリタンにおけるカムパ蜂起軍の拠点リタン寺を激戦の末攻陥。中国軍は残留者の捜索をせずにリタン寺に爆撃を加え、これを徹底的に破壊した。

 1958年初、東チベットにおいてカムパ族を中心に蜂起が続発し、山岳地帯の利点を利用してゲリラ戦を展開し、中国軍に打撃を与える。これに対し、中国軍は「報復」と称して蜂起軍を支援していると疑われる村や寺院に無差別に砲爆撃を加えて破壊し、宝物類を掠奪し、僧侶を民衆の前で侮辱して虐殺した。

 また、中国軍はココノル湖(青海)付近において、僧院の庭で僧侶1,000人以上を一斉射撃によって虐殺した。

 同6月16日、チュシ・ガンテュク(東チベットの抗中組織で「4つの河6つの山脈」という意味)とその支持者たちが自由義勇軍(Volunteer Freedom Fighters(VFF))を結成し、ロカ地域(南チベット)のティグタンに本営を設置した。

 中国側は卑劣にもチベット政府にチベット軍を出動させて「反乱」を鎮圧するよう要求するも、チベット政府は、出動したチベット軍が自由義勇軍と絶対に結ばないという保証はないとしてこれを拒否し、代りに自由義勇軍に使者を派遣して武器を放棄するよう指示した。これに対し、自由義勇軍は、その活動がチベット政府への不信や法に反した精神に基づいて行われているのではないとチベット政府に回答した。

 同8月、自由義勇軍がニェモ・ドゥカック・スムド村付近において、中国軍の待伏せ攻撃を受けるも、態勢を立直して反撃し、3日間に亘る戦闘の末、義勇軍側損害戦死40、負傷68に対して、中国側に戦死200、負傷多数という甚大な損害を与えて戦場から撤退した。

 自由義勇軍は以後数ヶ月に亘ってチベット各地で中国軍と交戦しつつ勢力を拡大し、1958年末、東チベット、南チベットの一部地域を確保。そして、その主力はラサから50kmの地点に迫った。

 このような状況に中国側は、チベット全体が自由義勇軍を支持していると看做して警戒を強め、1959年1月頃には、ラサの兵舎の周囲に塹壕を掘り、電気鉄線を張巡らせ、屋上に機銃や火砲を設置した。

 同3月初、中国側が3月10日に中国人「駐屯地」において開催される演劇にダライラマ14世を招待し、その際には、護衛による警備なしにダライラマ14世単独で秘密に訪問することを要求した。

この要求はチベット人たちの間に広まり、演劇当日の3月10日、ダライラマ14世が中国に拉致されることを恐れたラサ市民や東チベットからの避難民3万がダライラマの居住するノルブリンカ宮殿を包囲して道路を遮断した。そして大衆集会を開き、代表70人を選出して解放委員会を結成し、大群衆の前で17条協定の破棄を宣言し、中国軍の撤退を要求した。

これを受けて政府官吏約70人が解放委員会、クスン連隊(ダライラマ親衛軍)とノルブリンカ宮殿の中で会議を開き、解放委員会の採択した宣言を承認し、その直後、クスン連隊が「今後中国軍将校から命令を受けない」と宣言し、それまで着用を義務付けられていた中国軍の制服を脱ぎ捨て、チベット服に着替えてチベット民衆の側に加わった。

 同3月11日、解放委員会がノルブリンカ宮殿を防衛すべくラサ市内各処にバリケードを構築。これに対し、「チベット」軍区政治主任委員譚冠三が「「反逆者」たちが築いたバリケードを直ちに撤去するよう命令せよ。もしこれが実行されなければ、重大な結果引続き起こるであろう。それに関する責任はチベット政府にある。」とチベット政府を脅迫した。

 同3月12日、グルデン・クンサン夫人率いるチベット女性1万2千人がポタラ宮殿正面の大広場において集会を開き、「チベットは独立国です。中国人は自分たちの国に帰りなさい。」と気勢を上げ、ラサ市内をデモ行進し、インド、ネパール領事館前でチベットの主権と国土を中国侵略者から守るため支援するよう要請した。

 同3月17日、中国軍がノルブリンカ宮殿に迫撃砲弾2発を撃込み、また中国兵が非武装のチベット農民2人を射殺する等状況が緊迫化したため、チベット政府は、ダライラマ14世がこのままラサに留まることはその身の安全にとって賢明でないとして、ダライラマにラサから脱出するよう懇願した。ダライラマはこれを受け入れ、22:00、兵卒に変装し、夜陰に紛れて南門より脱出し、自由義勇軍の勢力下にあるロカに向かった。一方、中国側はダライラマのラサ脱出に全く気付かず、ダライラマは同3月31日、無事インドへ亡命することに成功した。

 同3月20~22日、中国軍がノルブリンカ宮殿を1日以上に亘って砲撃し、続いてポタラ宮殿、ジョカン寺、ラサ市内等を砲撃してチベット人1万5千人以上を殺戮した。

 同3月28日、中国国務院総理周恩来がチベット政府の「解散」とその職権を「チベット自治区準備委員会」に行使させること、ダライラマが「反乱分子」に「誘拐」されている間はパンチェンラマを同委員会主任代行に、アボ・アワン・ジグメを常任委員兼秘書長に任命すること、18人の委員を「反逆者」として全ての職務から罷免することを命令した。

 同4月、ダライラマ14世がインドにおいてチベット亡命政府を樹立した。
一方、チベットにおいては、中国軍がチベット全土を制圧すべく南チベットへ大軍を以て侵攻したため、自由義勇軍は敗退を続け、ツェタン、ヤムドク、ダゲェ・リン、ロダックを失い、同4月14日、南部の要衝ツェナが陥落したため、自由義勇軍主力は武装解除を条件としてインドへ亡命した。

 同6月、ダライラマ14世が17条協定を「武力威嚇によってチベット政府と民衆に押付けられたもの」であり、且つ「協定調印国の一方が協定に違反すれば、他方は合法的にその協定を拒否できる。中国側は確かに17条協定に違反した。」として正式に拒否した。

★文化大革命下のチベット

 1959年7月、中国がチベット問題を「内政問題」という主張の「根拠」とするため、チベット政府の通貨の流通を禁止し、中国通貨の使用を命令。中国は交換レートとして、チベット蜂起前の半分の価値を強制した。

 1960年8月、国際法律家委員会がチベット問題に関する報告書を発表し、「宗教的集団としてのチベット人を破壊しようとして虐殺行為が行われている」と指摘した。

 1960~1962年、東チベットのダルツェド地区の鉛鉱において、中国の強制労働に従事していたチベット人12,019人が飢餓、殴打、過労により死亡した。

 1962年5月10日、中国がインド、ネパールの経済的影響力をチベットから排除することを目的として、チベットにおける輸出入関税の課税、外国通貨(主としてチベット市場で信用の高いインド・ルピー)流通の禁止を布告。

 1965年9月1日、中国が「チベット自治区」を設置(「自治区」主席アボ・アワン・ジグメ)。

 同12月、国連総会においてチベット問題に関する決議2079号が採択され、「チベット人が常に享受していた人権と基本的自由を奪うあらゆる行為の停止」を要求。

 1966年5月、中国において猛威を振るっていた文化大革命がチベットにも及び、紅衛兵たちによってチベットの伝統的なものが有形無形に関わらず徹底的に攻撃され、1968年2月には、官庁、学校におけるチベット語の使用が禁止された。中国は実力行使を以てチベットを中国と同化させようとしたのである。

 このような中国による圧政に対して、チベット人の蜂起が続発した。

 中国側はチベット人の抵抗に対し、同6月には、インド、ネパール国境から100マイル以内にチベット人が居住することを禁止して、山岳ゲリラの封じ込めを図り、1975年には、ネパール政府に圧力を加え、ネパールのムスタンを根拠として活動していたチベットゲリラを武装解除させた。

★改革開放後のチベット

 文化大革命が失敗に終わり、改革解放路線が促進されるようになると、1980年代前半には一時的にチベットにおける圧政が緩んだが、1987年9月にダライラマ14世が5項目の和平提案を行い、これに勇気付けられたチベット人たちによるチベット独立をもとめるデモが続発すると、中国側は態度を硬化させ、武装警察を投入してデモを鎮圧した。

 1989年3月5日、ラサにおいてチベット独立を求めるデモが行われ、中国武装警察がこれを「鎮圧」すべく発砲し、8日までにチベット人約400人を殺害、数千人を負傷させ、約3,000人を逮捕した。そして、同7日には、「チベット自治区」共産党書記胡錦濤がラサに戒厳令を布いた。

 1994年5月、中国が、ダライラマ14世がパンチェンラマ11世として認定したゲンドゥン・チューキ・ニマを拘束し、同11月30日、ギャルツェン・ノルブを「パンチェンラマ11世」として「認定」した。

 2000年1月、カルマパ17世がチベットからネパールを経てインドへ亡命。

 2002年、中国が、中国による徹底的宗教弾圧、抗中勢力の摘発・鎮圧にもかかわらず、チベット側の抵抗が止まないことから、中国のチベット支配をより確実なものとすることを目的として、「2千万人の中国人(漢人)をチベットに「移住」させる方針」を決定した。

 2004年12月、中国政府が「宗教事務条例」を公布し、チベット仏教の活仏の認定を当局の「認可」事項と明文で「規定」した。

 2005年に入ると、中国は外国におけるチベット人の活動に対しても、現地政府等を通じて露骨に干渉するようになった。

 同2月には、ジンバブエにおいて開催されたミス・ワールド・トラベル・コンテストへのミス・チベットの参加を現地中国大使館が妨害し、同4月1日には、中国外交部副部長武大偉がインド政府に対し、「ダライラマとその追随者の「祖国分裂活動」禁止という承諾を守る」ことを要求した。

 そして、チベット仏教、チベット人に対する抑圧を益々強化し、同8月、「チベット自治区」副主席呉英傑が、ダライラマ14世がチベットの自治権拡大を要求していることに対し、「香港のような「高度な」自治はあり得ない」とこれを拒否することを言明し、同11月25日には、ダライラマ14世を非難する文書への署名を拒否した僧5人の逮捕に端を発した、ラサ郊外デプン寺の僧400人の抗議活動を武装警察を投入して鎮圧した。

 2008年3月10日、ラサ市内に向かってデモ行進していたデプン寺の僧500人を中国武装警察が襲撃してこれを鎮圧したが、抗議活動は同11~13日にはセラ寺、ガンデン寺に拡がり、同3月14日15:00頃、ラサ市内においてジョカン寺の西にある金谷ホテル近くに展開していた装甲車4輛のうち1輛がチベット群集に突入し、チベット人100人余を薙倒した。これに激怒したチベット人たちが漢人の商店等を襲撃する事態に発展したため、中国公安当局が夜間外出禁止令を発令し、同15日にはラサ市内を封鎖した。

一方、チベット人による抗中活動は周辺地域に波及し、同日、四川省「アパ・チベット族チャン族自治州」において、僧侶等チベット人数千人がデモ行進したところ、武装警察がこれに発砲してチベット人8人を殺害した。

 同18日、四川省「カンゼ・チベット族自治州」において、武装警察が、デモ行進していたチベット人集団に発砲し、チベット人3人殺害、15人を負傷させた。

 同24日、同じく「カンゼ・チベット族自治州」において、チベット独立を唱える僧侶等のデモ隊に武装警察が発砲して僧1人を殺害し、1人を負傷させた。

 同4月3日、同じく「カンゼ・チベット族自治州」のトンコル寺において、デモ行進を行っていた僧370人、チベット人400人の計770人余に警察が発砲し、8人を殺害した。

 その後、中国はチベット人の抗議活動を武力で弾圧し、今回の抗議活動を「ダライ集団の犯行」と決め付け、ダライラマ14世を「人面獣心の悪魔」と罵る一方、海外メディアを招いて事態の「沈静化」を宣伝しようとしたが、僧侶たちの決死の訴え等の行動により、それが嘘であることが露見した。

 チベットでは、今この瞬間にも中国による圧政が続いている。

 大東亜戦争時、まぎれもなくチベットは独立国であった。米国軍がチベットを経由し支那大陸に武器や弾薬を運ぼうとしたが、それを断固として拒否し、日本の関東軍の後に廻ることを防いでくれた。しかも欧米の経済封鎖による交易停止を、唯一チベットだけが貿易を変わらず続けてくれた。その恩義は決して日本が忘れてはならない事実である。

そのチベットが暴力国家に侵略され、孤立してあらん限りの虐殺や民族壊滅に晒されている。それを知りながら殆ど興味すら持たない日本国民が居る。人権派を標榜する弁護士や人権擁護団体も、チベットに触れることさえしない。今の時代、少し知る気になればいくらでも中国の少数民族が置かれた立場や、中国共産党というものが如何に暴力的で独善的なやくざ国家かということが解る。それを放置すれば、やがて日本も、いつ何時チベットと同じ状態に置かれる事態が来るかも知れない。ことなかれ主義はやがて国を壊滅に追い込むだろう。

◆東トルキスタンと中国

 「新疆ウイグル自治区は古代から中国の不可分の一部であり、かつては「西域」と呼ばれた。

前漢が西域都護府を設置した紀元前60年、新疆は正式に中国領土の一部となった。

1884年には、清朝政府が省を設置した。新疆は1949年に平和解放され、1955年10月1日に新疆ウイグル自治区となった。」(『人民網日文版』より)

これが中国の東トルキスタンに関する「正しい歴史認識」である。

 それにしても西域都護府設置=正式に中国領土の一部とは呆れる。このことが意味することと言えば、この地域は匈奴の勢力下にあったところであり、それを漢が侵略したということだけであり、中国の支配を正当化する何らの根拠にもなりえない。

 後漢になってこの地域における勢力が後退したのであるが、このことは、現地の人々が漢の支配に反発していたことを意味する。

 以後、漢族がこの地域を支配したのは唐と現在の中共に過ぎない。そのうちの唐も中期以降この地域から叩き出されている。

 ところで、元と清は夫々モンゴル人、満州人の国家であり、漢土はその支配下の1領土に過ぎない。だから元や清が東トルキスタンを統治したから中共にも統治する権利があると主張するなら、モンゴル国や満州族にも漢土を統治する権利があるし、漢土全体をモンゴルや満州人固有の領土とすることもできる。

 中国の歴史から見れば、その固有の領土は万里長城の内側に限定され、その外側は含まれないというのが正しい歴史認識である。

★中国共産党による東トルキスタン制圧と圧政

 1944年11月7日、ロシアの支援を受けた東トルキスタン解放組織がグルジャ(イリ)において中華民国の支配に抗して蜂起し、同12日、これを解放するとともに、東トルキスタン共和国を建国した。そして、同12月、グルジャ地区全域を解放。

 1945年、同じくロシアの支援を受けたカザフ人の勢力がアルタイ地区、タルバガタイ地区を中国支配から解放して東トルキスタン共和国に加わった。

 1949年10月、中国軍が「国民党の残党を掃討する」ことを口実として甘粛から東トルキスタンに侵入し、同12月、これを占領。ここに東トルキスタン共和国は崩壊した。

 1955年、中国が東トルキスタンに「新疆ウイグル自治区」を設置。この直後から開始された大躍進政策により、東トルキスタンの経済は大打撃を受け、1956~58年、中国支配に抗する蜂起が続発した。

 1962年5月29日、グルジャ市において、中国の支配に抗して「イリ自治州」共産党委員会の前に押し寄せたウイグル人、カザフ人等1万人に中国軍が銃撃を加え、約1,000人を射殺した。この結果、グルジャ、アルタイ、タルバガタイ地区のウイグル人、カザフ人等7万人以上がロシアへ亡命し、中国は卑劣にもこれを「好機」として大量の漢人をこの地区へ「移住」させて、これを占拠した。

 1966年、中国において猛威を振っていた文化大革命が東トルキスタンにも波及し、東トルキスタンの伝統的なものが有形無形に関わらず徹底的に破壊された。

★改革開放後の東トルキスタン

 文化大革命が失敗に終わり、改革解放路線が促進されるようになると、1980年代前半には一時的に東トルキスタンにおける圧政が緩んだが、天安門事件後、再び圧政に戻った。

 1990年4月5~9日、アフトゥ県(カシュガル南方)バリン郷において、ウイグル人1万人がゼイディン・ユースフの指導下に中国支配に抗して蜂起し、アフトゥ県政府、共産党委員会を占領してアフトゥ県を中国支配から解放した。一方、中国政府はこれを「反革命武装暴乱」として、カシュガル、アクスから10万の大軍を投入してこれを鎮圧し、2,000人以上を逮捕して、そのうち200人以上を処刑した。(バリン郷事件)

 1995年7月7日、ホータンにおいて、ベイトゥラ・モスクのイマーム(イスラム法学者)が中国官憲によって逮捕されたことを知った信徒たちが市政府、公安局前に集まり、宗教の自由を要求して2時間に亘って中国官憲と衝突。中国側は武装警察、公安警察を投入してこれを鎮圧し、ウイグル人3,000人を逮捕。

 1996年4月、中国が東トルキスタンにおいて、「反犯罪」キャンペーンを展開して、「民族分離主義者」約2万人を逮捕し、115人を裁判なしに射殺した。また、モスクと宗教学校100箇所を閉鎖し、民族主義的出版物50万冊以上を押収して焼却した。

 1997年2月5~6日、グルジャ市においてウイグル人と漢人の大規模な衝突が発生し、漢人官憲がウイグル人20人を射殺。(グルジャ事件)

 事件後、中国はグルジャ地区において無許可モスク133、無許可イスラム学院105を閉鎖し、独立派指導者20人をはじめとしてウイグル人400人を処刑した。

 2002年5月14日、中国当局がカシュガル市の空港北側のゴミ捨て場において、1万冊以上のウイグル語書籍を焼き、続いて同24日、同じくカシュガルにおいて、コーラン、同解説書、テュルク系諸民族史、中国政府や漢人の犯罪を公表した書籍等ウイグル語(含アラブ語、ペルシア語)書籍32,320冊を焼却した。

 2003年、中国が、これまでウイグル語の使用が公認されていた高等教育において、中国語を使用することを義務化。

 また、同12月15日、中国公安部が「国際的反テロ強力を進める」ことを口実として、東トルキスタン・イスラム党、東トルキスタン解放組織、世界ウイグル青年代表大会、東トルキスタン情報センターを「テロ組織」に指定して、東トルキスタン独立運動組織の弾圧を強化。これにより、これら組織の中国「国内」での活動が禁止され、組織への資金援助、支持、保護も違法となった。
 2004年9月14日、アメリカ合衆国において、東トルキスタン共和国亡命政府が設立され、サウジアラビア国籍のウイグル人フセイン・カーリー・トルキスターニーが大統領に就任した。

 2005年7月5日、中国、ロシアの主導する上海協力機構が「テロ対策強化」を盛込んだ共同宣言に調印した。ロシアと西トルキスタン諸国にとっては、チェチェン、反政府運動の拠点となる国内のイスラム原理主義の弾圧、中国にとっては、東トルキスタンはもちろん、西トルキスタン諸国における東トルキスタン独立運動を弾圧することを目的としたものである。

 同10月1日、中国の東トルキスタン占領50年目に当たるこの日、東トルキスタン解放組織(ETLO)が中国政府による「新疆ウイグル自治区成立50周年」事業を非難し、「あらゆる手段で中国政府に対する武装闘争を開始する」と宣言。

 同10月25日、中国国連大使王光亜が安保理テロ関連3委員会において、「東トルキスタン「テロ勢力」は「新疆」で常に活動を続け、数多くの「悪事」を働いている」とし、各国に「「テロ活動」を断固として制止するとともに、法により制裁」することを要請。

 2007年1月、中国公安警察がパミール高原付近にある東トルキスタン・イスラム解放組織(ETIM)(と中国が主張する)の拠点を襲撃し、党員18人を殺害、17人を逮捕。また、小型爆弾20、製造中の手榴弾1,500を奪った。

 2008年1月27日、中国武装警察がウルムチにおいて東トルキスタン独立運動組織の拠点を襲撃し、2人を殺害、17人を逮捕。

 同8月4日、カシュガルにおいて、「国境」警備に当たる公安辺防支隊が朝の体操に出ようとして、怡金賓館の前に差掛かったとき、トラックが隊列に突入し、手榴弾2個を投擲して、警官16人を殺害、16人を負傷させるという戦果を挙げた。

 同8月10日、東トルキスタン武装勢力が三輪バイクで公安局、工商管理事務所等に突入し、警察車両2台を爆破。この攻撃により、警備員1人死亡、警官等4人負傷という戦果を挙げるも、警察により8人が射殺され、2人が拘束された。

 同8月12日、カシュガル近郊シュレ県ヤマンヤにおいて検問所が襲撃され、警官3人死亡、1人負傷。

 2009年6月26日、広東省韶関市の玩具工場において、漢人労働者がウイグル人労働者を襲撃し、ウイグル人18人を殺害、多数を負傷させた。

 同7月5日、ウルムチにおいてウイグル人が広東における漢人によるウイグル人襲撃事件に抗議してデモを実施するも、武装警察3,000によって鎮圧され、7日には漢人が「デモ行進」と称してハンマー、鉄パイプやシャベルを持って「民族分裂主義に反対する!」「ウイグル族を殺せ!」と叫びつつ、ウイグル人経営の商店やレストランを襲撃したり、ウイグル人に暴行を加えたりした。この間中国の公安・武装警察ともに漢人の暴動を制止せず黙認していた。

 一昨年から東トルキスタンにおける抗議活動が多発しているが、これは中国が東トルキスタンを占領して圧政を布いていることが原因であり、その全ての責任が中国にあることは言うまでもないことである。

アルジェリア人質事件

 なぜアルジェリア政府は多くの人質の犠牲者がでるような強行な作戦を用いたのか、それには中国がアルジェリアと同じイスラム教の民族であるウイグル人を度々虐殺し、アルジェリアの過激派はその報復宣言を中国に対して行っていたことを抜きにしては考えられない。

そしてそれに対抗して現在中国政府と人民解放軍はアルジェリア過激派を殲滅しようと武器と軍隊をアルジェリアへ送り込んでいる。

日本のメディアはアルジェリア過激派が中国政府のウイグル虐殺に怒って報復宣言を出していた事を一切報道していない。

 ウイグル問題を巡って中国と敵対するアルカイダ、そして北アフリカを開発してあらゆる面で事業パートナーとなっているアルジェリア国家と中国の関係、それが人質を見殺しにし、テロ組織への攻撃を重視する救出劇と大きく関係している。 


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