山野ゆきよしメルマガ

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小さくとも個性輝く政令指定都市金沢

2002年10月27日 | Weblog
 私は平成13年12月議会において、金沢市は政令指定都市を目指すべきだと述べた。他会派の議員さんたちからは、厳しい野次が飛んだ。ところが、市長答弁で前向きな姿勢が出、翌日の新聞は、すべてそのテーマを見出しに持ってきた。その後、総務省から出向されていた原田助役(当時)も、個人的な意見としながらも、「金沢市は政令市を目指すべき」と述べたことが報道されたことなどがあいまって、金沢近郊の識者の間に、一時に、そういう空気ができてしまった。
 13年12月議会の質問原稿と併せて読んでいただければ、より一層私の思いが伝わりやすいのではないかと思う。

 政令指定都市と聞くと、漠としたイメージながら、都市の膨張化を想像される方も多い。確かに、法律上は、人口要件は50万人としながらも、実際は100万人を想定した80万人以上とされていた。昨年、総務省からその要件を、70万人にまで広げると発表された。金沢市が70万人の都市を目指すとした場合は、それなりの膨張化を前提にしなければならない。
 私は、金沢というまちは、膨張化を念頭においたまちづくりはすべきではないと考えている。しかしながら、生活圏を一体化する自治体と合併することによって、節度ある発展をしていくことは、必要なことである。
 政令市の最大の眼目は、地域の拠点都市であるということである。しかし、現実の政令市のなかには、人口要件ばかりにとらわれて、その意義があいまいになっているものもある。川崎市や千葉市さらには北九州市などがそうだ。大阪府の堺市も政令市へと希望しているようだが、総務省の方で、なかなか首を縦に振らないという。本来の政令市の意味を考えると、当然のことであろう。
 
 さて、政令市に移行した都市は、新規産業の発生件数、立地件数が増え、産業基盤が厚みを増し、雇用の機会も増えてきていることは各種データからも明らかである。また、その近隣自治体への波及効果の大きさなどもいうまでもないであろう。特に現在、金沢市には、国の出先機関がほとんど駐在しているが、環日本海の拠点都市として新潟市が政令市に移行すると、行政改革の流れの中、そのいくつかが廃止され、新潟市の同機関に管轄が移されかねないことも危惧される。現に、今年に入り、農水省の金沢食糧事務所が廃止され、新潟食糧事務所の管轄内になり、14年7月からは、石川県の陸海運業務の管轄は新潟市内の北陸信越運輸局(旧新潟運輸局)担当とされてもいる。
 また、金沢市に、銀行をはじめとした金融関係企業のほぼ全ての支店が出されているのは、北陸財務局・北陸国税局、さらには日銀金沢支店が存在していることと無縁ではない。北陸郵政局、北陸総合通信局があることにより、金沢市、石川県がインターネット普及率が地方都市の中で上位を占めていることは、高等教育機関の充実とあいまっての効果であることも否定できないところであろう。
 詳細は割愛するが、私は、その優位性をしみじみと感じ入ったできごとも経験している。
 それらが枝葉のように繋がり、地域経済に大きな貢献を果たしていることはいうまでもない。

 私は覇権主義を想像させかねない、都市間競争という言葉は好きではないが、少なくともこれからの時代は、都市の選別がなされてくることは言を待たない。環日本海の拠点都市としての金沢市であることが、石川県、北陸の活性化に必須のことである。

 そこで、私は、金沢方式の政令指定都市というものを提案している。
 金沢は新潟のように膨張化を前提にした、70万人を目指すのではなく、法令の50万人を合併によって満たす。あくまでも生活圏と行政圏の一致を前提にする。そして、北陸及び環日本海の拠点都市としての性格と、歴史や伝統・文化を踏まえたブランド、都市の格とをしっかりとアピールし、小さくともキラリ輝く個性を大事にした政令市になる。金沢型の政令指定都市である。
 総務省の70万人という目安に届かないという愚問を発する輩もいる。そもそも、100万人という基準が80万人になり、さらに、今回、70万となった。これは、静岡市と清水市とが合併する人口70万ちょうどの新静岡市をぜひ政令市にという、静岡県知事と静岡市長及び経済界の強い働きかけに、総務省が地域の拠点としての性格を根拠に、認めたものだ。つまり、目安が70万人となったから静岡市が政令市になるのではなく、静岡市が政令市になるために、人口70万人にしただけである。現に、片山総務大臣は明らかに金沢市を念頭において、「合併がなされるなら、法律の要件どおり50万人でも認める」と記者会見で明言している。要は、自治体側の色々な意味での「熟度」次第である。
 合併によって吸収されるとか、呑み込まれるとかいうような、狭隘で感情的な議論ではなく、私たちの子供や孫たちのために「政令指定都市」という新しいまちを一緒に作っていくという発想が必要である。しかも、従来型の政令市でなく、金沢式の小さくとも個性をしっかりと持った政令市だ。

 さて、合併によって、まちの個性が失われるのではないかという懸念の声が聞かれることがある。感情的には理解できるし、一瞬、もっともらしく聞こえるが、実は、そのような実例は一つも存在していない。まちの個性が失われてしまうのは、新しいまちづくりのせいではなく、個人の価値観やライフスタイルの変化によるものである。ライフスタイルはともかく、価値観は自覚の問題であることが大きい。もちろん、個人の価値観だけではどうにもできないまちの流れというものもある。しかしそれは、合併等の施策の問題ではなく、政治家をはじめとした為政者の資質の問題である。住民合意という美名のもと、責任を回避し、何のリーダーシップも発揮しない後ろめたさを糊塗した政治家も残念ながらいるようだ。そして、その政治家を選挙で選んでいるのは、私を含めた有権者である。議論を混同してはいけない。むしろ、自治体のいくつかが、自分たちのまちに隣の自治体と同じような施設を作りたがるほうが、よっぽど個性喪失に繋がりかねない。もちろん、こちらも政治家の資質の問題である。
 しかし、感情的にはなかなか消せ得ないその懸念払拭のために、私は次の考え方を提案したい。
 政令市になることにより、区制が敷かれる。当然、ある一定の基準で線引きすることになろう。例えば、白山麓1町5村で、「白山郷区」なる区を作る、大きな課題は市全体の中で取り組み、地域に特化した問題は、できるだけその区のなかでの議論を優先するということによって、一つの区切りができるのではないか。様々な法律との整合性を見ながら進めていけるのではないか。

 一般的に政令市のメリットとして、教職員の任命権、児童相談所の設置、都市計画の様々な権限など、県並みの権限を持てることがあげられている。また、具体的には、先に私が述べた、経済的なメリットや区制による大きな案件と小さな課題への取り組み等もあるが、一つ、教職員の任命権について述べたい。
 
 中核市である金沢市は、一般市町村と違って、教職員研修は独自で行なうことになっている。しかし、人事権は全て県が握ったままだ。研修の結果が人事に全く反映されない、いびつな形となっている。政令市になることによって、地域独自の教職員研修を行なうと同時に、先生方の研修の一環としてのより適切な配置も可能となる。場合によっては、研修の結果、不適格教員と判断された場合は、現場と離れたさらなる研修を課すこともあるだろう。研修の成果と現場の状況とを見据え、建設的なアイデアも可能だ。また、政令市の区(前述例の白山郷区のように)を意識した配置も研修との兼ね合いでできるようになる。実験的で大胆な、学級編成も可能だ。大きな魅力がある。

 最後になるが、これまで全国の県庁所在地の合併は全て、知事とその地域の青年会議所(JC)や商工会青年部を中心とした若い経済人がリーダーシップをとっている。一つの例外もない。新静岡市などは、完全にJCが先導役を務めてきた。さいたま市は剛腕知事が一人でやったようにいわれることが多いが、行政に先駆けて、エリア内のJC同士が、お互いの合併を先行してやったことが大きなエンジンになったということを、行政関係者も認めておられた。

 石川県においては、残念ながら、知事の動きは鈍いが、経済界は真剣だ。特に、昨年度、金沢JCにおける、まちづくりの責任者であった担当理事の熱意と当時の理事長の英断とがあったからこそ、議論がここまで熟成してきたことは間違いない。この二人がいなければ、金沢市、及び生活圏を共有する隣接自治体による、新しいまち、「政令指定都市」をつくろうという、将来を見据えた議論は今でも出ていなかったかもしれない。県・市議会議員を含めた識者から聞かれる議論のほとんど全てが、昨年のJCの議論をなぞっているに近い状況であることを見ても、間違いないところであろう。
 私にしても、幸いなことにその渦中に身を置き、総務省の方や多くの調査研究を続けてこられた学者さん、さらには、石川県内を含めた全国いくつもの自治体関係者と議論を重ねる機会を与えられたからこそ、「小さくても個性輝く政令指定都市」という一つの見識に到達することができたに過ぎない。
 彼らを中心としたJCメンバーや商工会青年部の方たちをはじめとする、多くの若い人たちの将来に対する危機感から出た行動を何とか次代につなげていきたい。JC内での議論と行動とを知り、議員という立場を与えていただいている者の責任として、精一杯取り組んでいきたい。
 また、正攻法での議論をぜひさせていただきたい。

 蛇足。

 他自治体の動きを論評することは、私自身が感情的な議論をしていると思われるのを避けるためにも、できるだけ控えるようにしているが、蛇足として一点のみ付け加えておく。

 対等合併が良いとか、編入合併は嫌だとかいう議論は論外であるということは既に述べた。しかしながら、残念なことに、そのことを強調する首長、議員も多いようだ。あるマスコミの方から、自分の自治体、もしくは、あの自治体は小規模なので、大きな自治体と合併すると、自分たちの自治体を地元とする議員はいなくなってしまう、もしくは、少なくなってしまうと吹聴する首長もいたということを聞いた。俄かには信じがたいが、中には、そういう方もいたのかもしれない。話が進まなくなるので、ここでは、これ以上触れない。

 今日再選が決まった松任市長は、白山麓1町5村との合併を進めるにあたって、「対等合併」とともに、これまでの旧石川郡での広域行政の実績を強調されている。

 これまでも私は指摘してきているように、合併は基本的には、生活圏と行政圏との一致を錦の御旗にすべきである。なぜなら、市役所や町・村役場とはそこで働く職員や首長、議員のためだけに存在しているのではなく、その方たちを含めた、そこで生活する全ての住民のために機能するものであるからだ。広域行政の組み合わせは、住民にとっては極論すればどうでも良いことである。

 例えば、全ての野々市町民、及び一部の鶴来町民の下水処理は全て金沢市安原にある最終処分場で処理している。下水処理施設とは一般的に言って、近隣にあることが、必ずしも歓迎される施設とはいえない。そのことに対して、野々市町民や鶴来町民が金沢市民、特に、安原地区にお住まいの方たちに対して、感謝の気持ちを述べたということは聞いたこともない。また、金沢市側としても、そのようなことは考えたこともないであろう。生活インフラとして必要なものであるということは、誰でも理解しているかただ。

 また、野々市町民が利用する斎場は、広域行政サービスにより、基本的には、鳥越村の斎場となっているが、実際は、多くの方が金沢市の斎場を利用している。その際の使用料は、金沢市民のそれよりも多くを徴収してはいるが、イニシャルコストを含めた実費の全てをまかなうものではない。差額分は、金沢市民が負担している。しかし、そんなことは、一般の野々市町民や鶴来町民にとってはどうでも良いことであろうし、金沢市民がそのことにクレームをつけたなんて事は聞いたこともない。また、問題にすることでもない。

 つまり、広域行政の実績なんていうものは、あくまでも行政サイドだけの都合であり、その恩恵に与っているほとんどの生活住民にとってはどうでも良いことなのである。

 合併を語るに際して、広域行政事務の実績は、行政サイドにとってはひとつの側面であることは間違いないが、生活住民にとっては、優先順位の極めて低いテーマである。にもかかわらず、そのことを、さも大事そうに強調することは、実は、生活住民の意思や利便性、さらには、その地域の将来のまちづくりよりも、現在の、否、過去の行政側の都合だけを最優先にしていることを露呈していることに気づいていない。本当は、住民置き去りの議論といっても過言ではないかもしれない。

 もちろん、感情論というものは大切な議論であることは間違いないが、入口論としてもってきては、全てが滞ってしまう。建設的な議論ができなくなってしまいかねない。

 本当に住民のことというのであるならば、先ほどの論外の議論はもちろん、行政側だけの都合で意見を言うばかりではなく、将来に責任をもてる議論をしていきたいものだ。