山野ゆきよしメルマガ

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障碍者と障害者―文化としての日本語その7―

2004年05月11日 | Weblog
 前回(「交ぜ書き-文化としての日本語その6-」)、1850字に使用が制限された当用漢字表なるものが登場したことにより、我が国語に甚大な弊害が与えられた事を述べた。
 特に、この当用漢字表の前文にあった、「この表の漢字で書きあらわせないことばは、別のことばにかえる」という指針が示されたことにより、発音が同じということを主たる理由として、当用漢字表に掲載されていない漢字(表外字)は書き換えられ、そのことによって、漢字文化に大きな悪影響を及ぼすようになったということも、いくつか例をあげて、既に述べた。(「濫」を「乱」に、「捐」を「援」になど)
 昭和56年に、「目安」としての1945字の常用漢字が制定されても、事態は全く変わることはなかった。

 先に述べた、「濫」を「乱」に、「捐」を「援」に書き換えたことによる弊害、それは、それぞれの文字が持つ意味合いについての、いわば文化的齟齬といっても良いものかもしれない。しかし、私は漢字の書き換えによる、人間的齟齬といっても過言でない例を一つあげたい。(人権的齟齬と書こうかとも思ったが、やめた。安直な人権主義者と同一視されたくなかったからだ。)

 それは、「碍(がい)」を「害」に書き換えたことである。
 現在、私たちが日常的に使用している、「障害者」という言葉は、当用漢字表公布以前は、「障碍者」と書かれていた。「碍」という字は当用漢字表に記載されていないため、その前文に従って、「別のことばにかえる」ことが行われたのである。
 「碍」のかわりに「害」が使われるようになった。
 「害」という字が使われたのは、発音が同じということを主たる理由としてなされたであろうことは、間違いない。

 「碍」は「礙(がい)」の俗字であり、電柱の「碍子(がいし)」(陶製の電気絶縁物)という語から見てわかるように、本字である「礙」も「碍」も、「妨げる」という意味を持つ言葉である。誰かを傷つける、害するという意味はない。あくまでも自分自身にとって、妨げになるという意味であり、「障碍」という意味も、文字通り、自分自身にとって「障り」があり、「妨げ」になるという意味である。

 融通無碍(ゆうずうむげ)『一定の考え方にとらわれることなく、 どのような事態にも滞りなく対応できること』(「広辞苑」)。この四字熟語を一つ見るだけで十分であろう。

 では、「害」はどうか。
 やや、長くなるが、白川静氏の著作を引用し「害」を説明する。(こういう時は、白川氏の著作に限る)

『もとの字は把手(とって)のついた大きな針と口とを組み合わせた形。口は「くち」ではなく、もとの形は「さい(ここには本当は、甲骨文字がくるのだが、どうしてもテキストとしてパソコン上で表記はできない)」で、神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形である。大きな針で「さい」を突き破り、その祈りの効果を傷つけて失わせ、祈りが実現することをじゃまするのが害であるから、害には「きずつける、じゃまする、そこなう」の意味があり、そこなうことによって「わざわい」が生まれるのである。』(白川静著「常用字解」(平凡社)より)
 
 「害」という字は、ある対象があり、その対象に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせることを企図した意味を持っているのである。「害悪」「公害」「有害」「危害」等々、いずれも誰かに、「わざわい」も生じさせるものである。「害虫」は、その虫自身に害があるわけではなく、人間の都合で、害があるとされているだけである。自分自身に「わざわい」をもたらす際は、「自害」とする。

 前述したように、「碍」は、「妨げる」という意味であり、「障碍」とは、本人が「妨げ」をもってはいるが、他人を「害」する「障害」とは、全く意味が違うのである。

 ちなみに、「碍」の本字の「礙」は、「石」と「疑」とからなる。この「疑」という字は、「もとは、進もうかどうしようかと自分で迷うという意味」(「常用字解」)であったという。そのことからしても、「礙」も、その俗字である「碍」も、あくまでも自分自身における「妨げ」と理解されるものといえる。

 「障碍者」とは、「障り」があり、自分自身にとって「妨げ」になるという特性を持った人のことをいい、その特性によって他の人との関係が云々されるというものではない。しかし、「障害者」としてしまうことは、「障り」があり、他の人に対して「きずつける、じゃまする、そこなう」ことによって、「わざわい」を生じさせる人という意味になってしまう。全く違う意味になってしまった。つまり、「障害」というような造語は、「障碍」の書き換えにはなり得ないものである。それとも、「障碍」とは、他者に危害を加えるものという意味を有しているとでも言うのであろうか。それこそ、差別以外の何ものでもない。

 そう言えば、最近、一部の学校や地域の運動会では、「障害物競走」なる名称が少なくなってきているという。そのかわり、「山あり谷あり競争」「チャンス競争」(ちょっと違うような気がするが・・)など、別の名前を付けることもあるという。
 「障害物競走」なる名称は、「障害者」に対して、失礼だからという考え方かららしいが、これも、乱暴な漢字の書き換えのせいでもある。
 この競技の場合は、進路に置いてある飛び箱や平均台は、明らかに、競走者への邪魔をし、スピードを損なわせることを目的とするものであるので、「障害」物競争という漢字は当てはまるのかもしれない。但し、それは、あくまでも人間側の価値観で、「障害」物となっているだけで、そこにおいてある飛び箱や平均台そのものは、決して、「障害」物ではない。
 いずれにしても、その名称は、「障碍者」にとっては、何ら関係ないことである。

 「障害者」という間違った表記にするから、的外れな気遣いもしなければならない。他の人に、害を及ぼすわけではない「障碍者」からすれば、そのような気遣いは、痛くもない腹を掻き回されたような気分ではないだろうか。

 また、時として、「障害」という字を、わざわざ、「障がい」と交ぜ書きにしてある文章に出会うことがある。前回に記したように、ようやく、少しずつではあるが、交ぜ書きを修正していこうという気風が出てきているときに、全くナンセンスである。要らぬ気遣いをするくらいなら、すっきりと、「障碍」と正していくべきである。

 最後に、最近、ノーマライゼーションという言葉を耳にする機会が多い。
「障害者に、すべての人がもつ通常の生活を送る権利を可能な限り保障することを目標に社会福祉をすすめること。」(大辞林(三省堂)より)を表わすという。

 他者への「わざわい」を生じさせることを意味する「障害者」と名付けることは、既に、その方が、「すべての人がもつ通常の生活を送る権利」を奪われていることに、なりはしないだろうか。当用漢字が公布される以前の、「障碍者」と戻すことこそが、ノーマライゼーションの第一歩といえる。

 「ノーマライゼーションな社会を」と唱える方たちの善意を疑うものでは、決してないが、安易にスローガンを口にするよりは、先にしなければならないことがある。

4 コメント

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日本語のハングル化。 (ぬこ)
2006-11-05 15:24:39
当用・常用に関しては強制力は無いと聞いております。
最近は交ぜ書き所か、ダイレクトに平仮名になってます。
(新聞・TV)

漢字の使用は、そのメディアの裁量に任されています。
然し今、明らかに意図的に漢字を削減していき、無くそうという動きが見受けられます。

抗議しても、逆恨みの様に酷くなるばかりです。
最終的には、韓国の様にしたいのでしょう。

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「障害者」を「障碍者」に、に賛成 (むー)
2008-02-20 20:45:15
「常用漢字」には強制力はないとしても影響力はある。取り組み方によっては、「障碍者と書くために必要」という理由だけで、「碍」の常用漢字採用の可能性は十分ありうる。
なお、「障がい者」という表記が広がっているということだが、これが「障碍者」の表記をめざしすための一時的なもの、というならともかく、これが永久化するとすれば、ある意味で、「障碍者」のかわりの表記としての記憶も残っている現行の「障害者」よりもより不適切な表現、といわざるをえない。
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わかりやすかったです (通行人)
2008-10-26 22:43:28
障害と障碍の違い、非常にわかりやすい説明だったと思います。
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漢字の問題よりは・・・ (通行人2)
2009-05-26 13:29:06
漢字の意味にこだわるのであれば「障碍」より「不具」を使ったほうがよいのではないでしょうか。
「不具」という言葉は読み下せば「そなえず」であり、「ある機能もしくは器官の欠落」を示すシンプルでニュートラルな表現だと思います。字義の上からは「『障り』があり『妨げ』がある」という「障碍」よりずっと穏当に感じます。
ただ「不具」という言葉が一般に用いられた時代の障害者に対する扱いが非常に差別的であったため、今でも「不具」は忌避される差別語とされています。
「差別語」というものを考えるとき、漢字の元々の意味というのは相対的にそれほど重要ではなく(全然関係ないわけでもないですが)、その言葉が社会で実際にどういった意味合いや文脈で使われてきたか、ということの積み重ねなのだと思います。
山野さんがこの記事で「人権」という言葉を避けたのも全く同じ理由ですよね。「『人権』という言葉」自身には悪い意味などないのですが、ごく一部に「『人権(という言葉)』を振り回す、あまり尊敬できない人々」が存在するために、その言葉を避けたわけで。

そう考えると、「障碍」が使われていた時代より、「障害」が使われていた時代のほうが、障害者(あえてこう書きます)の人権(あえてこう書きます)がきちんと尊重されるようになっているのであれば、「障害」という言葉も悪くないのではないかなあ、と思います。
漢字表記を変えることより大事なことはいろいろあると思います。
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