低山徘徊と自転車散歩

山も自転車も一人で行動しています。その時の、写真と短文による、記録です。

金山城シリーズ:城跡主要部 ≪西城~物見台~月ノ池≫ その1 西城・見附塹壕・筋違城門

2017年06月10日 | 金山城

 「見附塹壕」と「西城筋違城門」の標識柱


 「西城」は「見附出丸」と共に、「本丸」から南西に延びる尾根上にあり、城の中核地区を防御する役割をになっていた。

 しかしながら、「見附塹壕(堀切)」と「西城筋違城門」より城内側には、明確な遺構はなく自然地形のままであり、造成途中で未完成のまま放置された城だったようだ。


西城に関する資料と引用文。

太田市史 通史編 中世 太田市発行
 山頂の本丸を含む実城と、そこから南西に延びる尾根上の西城、それと谷を隔てた南の八王子の砦とが鼎立し、前者は七〇〇㍍、後者は六五〇㍍本丸からの距離がある。
 これら三つの支点は、断続する石塁と竪堀をもってつながり、谷底西部の大手虎口、東の鞍部の比丘尼坂(今は切り通しとなって松風峠という)の食違い虎口(敵に向かって左に突き出したものを「順」、右に突き出したものを「逆」という)が構えられて、懐に金龍寺谷の奥をしっかり抱く。このような構えの城は、県下に類例がなく、朝鮮式山城と考えた人さえあった 。
 天正12年(1584)、金山城は北条氏の手に落ち、天正13年(1585)11月9日付で、北条氏は高山定重を金山西城に在城させた。

金山城と由良氏 太田市教育委員会発行
 西城の遺構は東西方向の尾根を二本の堀で堀切り、堀の交差する部分を食い違いの虎口とする遺構である。
 中核地区(本丸~物見台)に比べて、規模も大きく土塁を伴う虎口である。堀の側面には石垣も見ることができる。
 しかしながら、この遺構より東側(城内側)には表面には明確な遺構はなく自然地形のままであり、郭も造成されていない。したがって、虎口付近の遺構は中核地区の西に防衛ラインを設置した形になっている。

太田市HP「文化財だより №4」太田市教育委員会発行
 
西城曲輪における曲輪造成面や土層堆積状態調査の結果、西城曲輪では建物の柱穴や基礎等は全く見られず、「空間的には何もない、自然のまま」の状態でした。
 しかし、西城曲輪の中央から西寄りにある「盛土状遺構」では人為的に盛り上げられていたことが明らかになりました。
 なお、この「盛土状遺構」の裾部からは永楽通宝が、盛土内からは火縄銃弾丸が出土しました。
 西城遺構は、「盛土状遺構」を除いて、自然地形をそのまま残していることから、曲輪面の造成途中で『未完成』のまま放置された城だったようです。


地図

 


西城

 右の道は「西城~物見台~月ノ池~本丸』に向かう道。
 中央の盛土状の場所の向こう側を「西城~こどもの国」に向かう道が横切っている。

 西城曲輪の中央から西寄りにある「盛土状遺構」は人為的に盛り上げられたもので、「盛土状遺構」の裾部からは永楽通宝が、盛土内からは火縄銃弾丸が出土している。
 西城遺構は、「盛土状遺構」を除いて、自然地形をそのまま残していることから、曲輪面の造成途中で未完成のまま放置された城だったようだ。


見附塹壕(堀切) 見附は城の外門、塹壕は堀切のこと。

 堀切は西城の外側(敵が攻めて来る側)に掘られている。堀切の城側は土塁状に盛り上がっている。

 堀切は、中央通路(ハイキング路)をはさんで、筋違いになっている。城側から見て左側が突き出ている。

 

城の外側より見た堀切の土塁


城の内側より見た堀切の土塁


北側の堀切右が城側)


北側堀切の残存石垣(奥が城側)


南側の堀切盛土の右側が堀切


西城筋違城門

 遺構はないが、土塁が筋違いに掘られていることから、門は「順」の筋違城門である。(敵に向かって左に突き出したものを「順」、右に突き出したものを「逆」という)


以上

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