低山徘徊と自転車散歩

山も自転車も一人で行動しています。その時の記録です。

金山城シリーズ:見附出丸

2017年07月16日 | 金山城

左:北土塁、右:南土塁


 現在の通路を戦国時代当時の通路と、大手前塹壕を南北の堀切・南北の土塁と思い込んでいたため、説明板の地図と一致せず、困っていました。
 解決してくれたのは金山城跡ガイダンス施設の「金山城跡縄張図」と太田市HPの「文化財だより」でした。

 「金山城跡縄張図」と「文化財だより」を参考に「見附出丸地図」を作成して、納得できました。手書きの見苦しい地図ですが、参考になればうれしいです。

 しかし、現在の通路はいつ、どんな目的でできた道か、旧通路はどこへつながっていたのか、新たな疑問が生じました。

 見附出丸は実城域を守る主要な防御施設の一つです。
 土塁・堀切・虎口・旧通路は、木の繁殖・倒木の放置等で整備当時の遺構保護が失われています。
 再整備が待たれます。馬場下通路・大手虎口並みの復元は無理な願いでしょうか。


≪見附出丸の発掘調査と整備事業の経過≫
 太田市HPの「文化財だより」を引用しました。なお、アンダーラインは原文にはありません。

①西城見附出丸でも石垣が見つかる №1 平成15年3月25日
 見附出丸の発掘調査では、石垣が見つかりました。石垣は、金山城の中核部だけでなく、西の防御拠点にも築かれていたのです。
 金山城は、廃城となる6年前に、謀略により小田原北条氏の支配下となります。見附出丸は、迫り来る豊臣秀吉軍に備えて普請されたと考えれれます。金山城がその終焉に近づく中、石垣を築き、戦に備えた当時が偲ばれます。

②西城見附出丸の筋違い堀切を発見 №2 平成16年3月12日
 見附出丸では、南虎口両脇の筋違いに配された堀切について調査を行いました。
南堀切
 
南堀切は、堀底が非常に丁寧に造られており、底面には西方向へ下る段差も見られました。
 南堀切の北斜面は急峻な切岸で、その上位には南土塁が存在します。この南土塁は、自然堆積した砂層の上に叩き締めながら土を盛っており、「水抜き」を意識して造らたと考えられます。この南土塁下に位置する南堀切は、防御機能だけでなく、南土塁から染み出た水をさらに西側へ処理するための機能もあったようです。
●北堀切
 
北堀切は、石積された北土塁石垣の南下に存在し堀の深さは3mあります。
 北堀切の堀底は、南堀切とは対照的に、岩盤節理によるガタガタな状態で、非常に「威圧感」溢れる様相を呈しています。
 南堀切より1m程深く掘られていることや、堀底が粗雑であることから、かなり「防御」を意識して造られた堀切であると考えられます。
 廃城後410年以上経過した現在でも、北堀切は、いかなる者の侵入も拒んでいるかのようです。

③金山城跡整備事業(補助事業) №5 平成19年3月31日
 平成18年度の金山城跡整備事業(補助事業)は、見附出丸・南土塁について「遺構の顕在化」を図るため、南堀切・通路跡を含めた「遺構保護」のための盛土工事と排水工事を行いました。
 南土塁では、改良盛土により遺構を保護し、法面の植栽を行いました。しかし、法面の保護盛土と植栽により、南下に存在する南堀切が埋まってしまい、戦国時代当時の南堀切の形状が全く分からないことになります。そこで、南堀切の位置を表現するための植栽標示も行いました。来年度には、南堀切の調査前・発掘調査時の説明板を合わせて設置し、より市民の皆さんに山城における遺構の様子を理解していただくよう努めてまいります。
 一方、見附出丸・南土塁の東端部は虎口(出入口)となっており、南堀切の脇に通路が位置していました。そこで、南堀切の東端部では、連続繊維複合補強法(ジオファイバー工法)により、通路から南堀切の形状を体感していただくことにしました。
 この見附出丸では、太田市街地を含めて関東平野が一望できる絶好のビューポイントであり、整備されたこの見附出丸からの眺望も楽しんでみてはいかがでしょうか。

④平成19年度 史跡金山城跡整備事業(補助事業) №6 平成20年3月31日
 平成19年度史跡金山城跡整備事業は、見附出丸北石垣土塁・北堀切遺構保護盛土工事と説明板設置工事を行いました。
 工事に際して、平成18年度に行った北堀切周辺の地質調査によって、岩盤面の風化が著しいことがわかりました。土塁石垣の高さや小檀状の張出し遺構部の機能があきらかでないことを踏まえて、遺構を保護するための盛土による整備を実施しました。
 その内容として石垣土塁上の遺構保護盛土の法面肩部にはリュウノヒゲを植栽して法面肩部の保護及び遺構標示を兼ねました。虎口周辺部には植生土のうを設置して斜面部の崩落防止及び通路幅を極端に狭くすることのないよう配慮しました。堀切部は岩盤保護のため勾配を1:1.7に盛土し昨年度の南土塁・南堀切遺構保護工事に順じ、野芝を植栽しました。
 整備手法としては、戦国時代当時の見附出丸の形状がわかりにくいことになりますので、発掘調査で確認された見附出丸南土塁・南堀切と北石垣土塁・北堀切の内容を説明板にして、南と北それぞれ設置しました。この説明板で見附出丸における遺構の様子を理解できるようにしました
 この場所は、晴れた日には関東平野が一望できるため、訪れる人々の憩いの場となることが期待できます。


≪地図≫

 地図は、「南北土塁周辺平面図」「北土塁断面図」が、現地の説明板「見附出丸・南土塁」と「見附出丸・北土塁」に表示されています。
 この地図には、遺構保護の盛土工事等により戦国時代当時の見附出丸の形状がわかりにくくなったため、発掘調査で確認された南土塁・南堀切北石垣土塁・北堀切および通路が平面表示され、北石垣土塁・北堀切が断面表示されています。

 この平面図と断面図には、発掘調査区とその周辺のみ表示されているため、現在の通路が表示されていません。現在の通路と南北の土塁・堀切等の関係をわかりやすくするため、範囲を拡大した「見附出丸地図」を作成しました。 

 「見附出丸地図」は、「*金山城平面図」「*金山城跡縄張図」の色分けされた遺構(曲輪・土塁・堀切)を書き加えたものです。
 縄張図は遺構の色分けだけですが、南土塁・北土塁の名称は、説明板の設置場所と説明文により判断して記入しました。
 なお、金山城平面図には、南土塁の北側(上側)に空堀が記されていますが、縄張図には記されていません。最新の縄張図に従い、この部分は色分けしていません。
 現在の通路から枝分かれした3本の通路は、現在、それぞれつながっています。一度は歩いてみてください。

 *金山城平面図は昭和55年以前の作成で、本丸跡に設置されている説明板「史跡金山城跡」に表示されています。
 *金山城跡縄張図は最近作成されたもので、金山城跡ガイダンス施設に展示されています。

 「見附出丸地図」


≪南土塁・南堀切・旧通路≫

南土塁 説明板 全文
 見附出丸は、金山城の西側を守る最前線としての性格が考えられる場所です。北土塁と筋違いに位置する南土塁は、発掘調査時の結果、北土塁のように石垣はなく、厚く堆積した砂層の上に土を叩き締めながらつくられていえることがわかりました(土塁版築層)。そして北側には「排水」を意識していたと考えられる拳大の凝灰岩が見られました(*写真1)。
 また土塁の上面からは柱穴列が見つかりました(*写真2)。この柱穴列により、柵があった可能性が考えられます。

写真説明文
 
写真1:砂層上から構築された南土塁
 写真2:南土塁で確認された柱穴列
 *南土塁では、土塁形状の形を示すための整備を行いましたが、柱穴列は将来の柵等の復元に備え、
  遺構保護を目的に埋め戻しています。 


南土塁
 で南土塁の位置を表示。
 北土塁
の上から撮影。


南土塁の西北端
 
柵の右側が堀切への斜面。
 カーブより手前は大手前塹壕(堀切)への斜面。
 カーブより奥は南堀切の斜面。


南土塁東端と北土塁西端
 
筋違いに配置された南土塁北土塁
 ここに虎口(門)があり、旧通路が通っていた。
 


≪北土塁・北堀切

北堀切 説明板 全文
 見附出丸は、金山城の西側を守る最前線としての性格が考えられる場所です。南土塁と筋違いに位置する北土塁では、発掘調査の結果、石垣が「雛壇状」に積まれていることが確認されました(断面図参照)。土塁の下部には一部くずれたところがあり、後の時期にそこから西側へ新たな石垣を積んでいることがわかりました。この石垣は、石と石のすきまに小石を詰めて修正しながら石を積む方法でつくられ、戦国時代には非常に珍しいものです(写真1)。
 また、北土塁には、南に張り出す壇が付属していることがわかりました(写真2)。この位置には、門などの施設があった可能性が考えられます。

写真説明文
 写真1:すきまを詰めて修正しながら積まれた北土塁最西端部
 写真2:北土塁南側に付属している壇
 *北土塁の整備では、石垣を積み足すことが困難であるため、遺構保護をはかるため石垣を全て埋め戻し、
  土塁石垣跡を平面表示しています。


北土塁
 北土塁の上から前方の南土塁の柵を見る。


北土塁
 北土塁説明板。
 右の柵は南土塁の東端。
 土塁と柵の間より奥が北堀切であるが、それらしき地形を残していない。
 


北土塁(右)と南土塁(左) 


≪大手前塹壕≫

石製標識柱


土橋
 
塹壕を渡る土橋。
 通路は土塁をU字に穿ち、見附出丸から西城に通じている。


北塹壕


南塹壕


≪現在の通路≫ 西城➡見附出丸➡大手前塹壕

 西城から見附出丸までの道は金山城で最大級の広さ。

 見附出丸。

 大手前塹壕塹壕へ向けて大きく迂回する道。

 大手前塹壕の土橋。
 塹壕の前後は鉤形の道。

 左へ下ると大光院・金龍寺。
 直進すると浅間(せんげん)神社・こどもの国。


≪現在の通路≫ 大手前塹壕➡見附出丸➡西城

 塹壕へ向かう道。 

 塹壕の土塁を抜ける鉤形の道。

 見附出丸。

 西城への道。


≪見附出丸からの眺望≫

 太田市と関東平野が一望できます。


以上



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