山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

映画『華氏911』を観て

2004年08月16日 | メディア論
マイケル・ムーア監督の問題作『華氏911』をようやく観た。正直、ちまたに流布する安っぽい陰謀説を取り上げ、意図的なカットつなぎで権力者を揶揄した不愉快な映画だろうと先入観を持っていたのだが、(演出論はさておき)主張と論理展開は案外、冷静かつフェアーなものだった。

映画や音楽といった大衆文化は、人間の感情に直接訴えかけるものだ。その強大な力の前には、時に正論はかき消されてしまいがちである。(体制側のプロパガンダは極めて危険であるし、体制側の主張を描いても感動はないことから、当然の帰結ではあるが、大衆文化のテーマは「反体制ありき」である。若者に人気の小林よしのり氏の漫画も、独特の戦争観から体制側に位置づけられがちだが、その思想はアナキズムといっていいほど「反体制」で貫かれている)

それだけに、巧みな演出による誘導を警戒しながらの鑑賞だったが、予想外に説得力のある構成で、他国のことながら深く考えさせられてしまった。

映画の主張は「9・11テロは、ブッシュ氏が石油戦争を始めるために呼び込んだものだ」といった悪意ある憶測でなく、「サウジアラビアの富豪ビン・ラディン一族と家族ぐるみのつながりを持つブッシュ大統領が、一族の問題児であるオサマによる大量殺人を黙認し、彼を逃走させた」というもの。後半は、武器商人や石油会社のためにテロとは関係のない戦争を始めたブッシュ氏のせいで、貧しい階層の若者が戦場に送られ死んでいることに対する「怒り」が主たるテーマとして展開していく。

映像を駆使して私見を提示しながら、問題の責任者を探して追及する姿勢は、前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」と変わりない。映画としては、前作が銃乱射事件の犠牲者に対する鎮魂をテーマにしていたのに対し、今回はより「怒り」が前面に出た印象。

また、前作のクライマックスが全米ライフル協会のチャールトン・ヘストン会長宅での緊張のインタビューから、ウォルマート本社に詰め掛けてスーパーでの弾薬販売停止を勝ち取るまでが、息つく暇なく畳み掛けられたのに比べて、本作では「反戦」「政権批判」というハードなテーマのせいか、大きな盛り上がりなく単調に終わってしまったのが、やや残念だった。

全体を通して語られえるテーマにも、いくつか気になる点があった。ひとつは映画のトーンが「反ブッシュ」で貫かれているため、フセイン政権を正当化するように受け取られかねないと感じたこと。米国が「大量破壊兵器の脅威」をかざして戦争に突き進んだのは確かに「誤り」であったろうが、フセイン氏側も、米国をけん制するため「大量破壊兵器があるように見せかけてきた」ことは多くの識者が認める事実だ。罪のないイラクの民衆を「避けられた自滅戦争」の巻き添えにしたのは、ほかならぬフセイン氏自身の責任でもあるのだ。

そもそも、そのフセイン政権は、10年前のクウエート侵攻とそれに続く湾岸戦争の時点で崩壊していても文句は言えない立場なのである。イラクの一般国民や多国籍軍側の犠牲を考慮して、国境内に押し返しただけで停戦になったが、その後も国連に反抗的態度をとり続けた責任も、やはりフセイン氏側にあると言わざるを得ないだろう。

ふたつ目の問題点は、映画が、まるで「9・11テロは、ブッシュ家とビン・ラディン一族とのいかがわしい関係が原因で引きこされた」かのような印象を観客に与えていること。しかし、実際には、アルカイダが米国を標的にするようになったのはクリントン政権の時代のことで、オサマ・ビン・ラディンが米国本土への攻撃を計画したのは、クリントン大統領がアフガニスタンに巡航ミサイルを撃ち込み、無差別大量殺戮を行ったことが直接のきっかけだといわれている。映画が、そうした民主党政権の責任に言及していないのは、フェアーとはいえない。

(憎悪の連鎖のもとをたどれば、湾岸戦争後の中東への米軍駐留まで遡ることはできるが、そうだとしても原因はフセイン大統領のクウエート侵攻にある)

そうした懸念材料を考慮しても、本作の持つ極めてプリミティブなメッセージは、やはり強烈である。映画好きで知られる小泉首相は、『華氏911』について「人の悪口を見たいとは思わないね」と語ったという。当然である。この映画はブッシュ政権のみならず、小泉政権にとっても相当な痛手となるに違いないだろう。国境を越えて、観た者の多くが「自分も何かしなくては」と感じるほどの説得力を、この映画は持っているからだ。

「何かしなくては」と思っても、映画のテーマは米国民が抱える問題。われわれ日本人ができることは限られている。そこで批判の矛先は「自衛隊派遣で戦争に手を貸している」とされる日本政府に向けられる可能性が高い。(実際、日本の配給会社が製作したパンフレットにもブッシュ氏の「迷言集」の中に、小泉首相の「スパゲッティ」などの発言が紛れ込ませてある)

わたしは、この映画に大いに説得された一人ではあるが、それでもやはり頑固に、日本政府が選択した「対米協力」方針を支持し続ける。何度か書いたように、それが日本の国益だと信じるからだ。

全世界で盛り上がる「ブッシュ批判キャンペーン」に参加するには、「小泉批判」は確かにお手ごろかも知れない。しかし、小泉氏がサウジや軍需産業と手を組み、イラクを侵攻したわけではなく、そうした批判は「アルカイダへの報復」を「フセイン政権打倒」にすりかえたブッシュ氏の論法につながるものだ。手ごろなところに「身代わり」を見つけてバッシングするのは、いかにも大衆的な悪趣味といわざるを得ない。

ブッシュ氏を大統領に選んだのは米国民であり(もっとも「そもそも選んでいない」というのが映画の主張だが)、したがって、この映画で示された問題点は、一義的には米国民自身が解決しなくてはならない問題だということを、われわれは冷静に認識しなくてはならない。

日本国内にも現在、ブッシュ大統領に対する批判や軽蔑といった感情が蔓延している。わたしはこうした風潮を危惧する者の一人である。確かに、この映画を観ればブッシュ氏に対する、ある特殊な感情が沸き立ってくるのは事実だ。しかし、それはあくまで「米国の問題」なのである。

わたしは森喜朗氏が首相であった時期、日本国民であることが恥ずかしくて仕方がなかった。実際、森氏には首相の任にあたる資格はなかった。しかし、そのことを当時、外国人から指摘されたら、どんな気分になっただろうか。それと同じことを今、われわれ日本人は客観的に考える必要があるだろう。

民主党の岡田代表はさっそくこの映画を鑑賞し、「小泉さんも観るべきだ」とコメントしたという。正直、思ったより控えめなコメントで安心した。野党とはいえ、一国の政党指導者が、よその国のトップを批判した映画に便乗するのはあまり褒められたことではない。岡田代表をはじめ、日本の民主党の皆さんが、そうしたデリケートな国民感情について、十分に認識しておられることを期待してやまない。(了)




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