山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

2つの市民ジャーナリズム論

2005年08月05日 | メディア論
ネットジャーナリズムに関する議論をリードしてきた2つの有力ブログの間に、微妙な距離が生じている。各分野の専門家による良質の議論空間を期待する「ブログ時評」に対し、「ネットは新聞を殺すのか」は、言論のエリート支配打破のためには質にこだわる必要はないという立場のようだ。

社会が高度化すれば、同時に各分野の専門化が進む。世界全体を把握しようとする教養主義は廃れ、ゼネラリストに代わってテクノクラートが社会の支配的地位に就く。

トランジスタラジオは解体すれば、だいたいの仕組みが理解できた。デジタル家電を解体しても、応用技術の応用の応用で成り立った最新技術は素人には到底理解できない。

「知識の蓄積」は社会の繁栄をもたらすと同時に、専門家と素人の間の壁を高くし、素人は専門家に支配されるようになった。一方、社会の繁栄にともなう「富の蓄積」は、新たな専門家を育てることのできる階層と、素人として労働力を提供する階層とに社会を二分化することになった。

平和な時代が3世代続くと、社会階層の固定化が生じる。「負け組」の不満が溜まれば、現状打破運動が起きる。20世紀の戦争は、固定化した階級秩序を一時的に流動化させる役割を果たしてきた。

太平洋戦争やベトナム戦争は、米国のアフリカ系住民の地位向上に寄与したし、戦前の日本でも、農村の貧しい青年にとって、軍功による立身出世を保証する軍隊組織は、新たな可能性として映ったに違いない。昭和初期のファッショ化が、軍部とともに労農無産政党である社会民衆党によって主導されたことを、我々はもう一度想起すべきだ。

大陸プレートが別のプレートの下に沈み込み続け、反動で跳ね上がる時に、地震は起きる。同じように社会の不平等が限界点に達すれば、社会は無意識のうちに既存秩序のリセットを要求する。21世紀に生きる我々が戦争や革命を否定するなら、暴力に変わる秩序リセットの手段を考えるべきかも知れない。

昨今のエリート批判の根底には、技術に支配される素人層に鬱積した不満表明の一面があると思う。10年ほど前に沸き起こった既存のエスタブリシュメントに対する批判の大合唱は、政治家、官僚、医者、有名大学、マスコミ、戦後知識人と、ターゲットを変えながら深化してきた。

この、いささかヒステリックな現状打破運動は、高度化、専門化した社会を一般素人の手に取り戻そうとする一種の「階級闘争」とみることもできる。薬害エイズ訴訟、大蔵不祥事、小泉ブーム、つくる会…。これらの現象は、インテリを信用せず、素人の視点で既存の常識を覆そうとする点で、地脈が通じている気がしてならない。

インターネットに吹き荒れる既存メディアに対する批判も、基本的にはこの一連の流れの中にあると思う。違うのは、メディア批判者の立場が一様ではないこと。結論から言えば、既存メディアは今、エスタブリッシュメントの一員である専門家層と、アンチ・エスタブリッシュメントである素人層の双方から批判を受けているのだ。

社会の専門化、高度化によって、大卒程度のレベルでは通用しない専門領域が拡大し、企業ジャーナリズムの社員記者は、科学分野のみならず、政治、経済、社会といったあらゆる領域において、説得力ある解説能力を失いつつある。

それぞれの分野には、その分野に特化した研究者(分野によってはマニア、オタクとも称される)がいるから、彼らの目には大手マスコミの書く記事は間違いだらけで、極めて杜撰な不良品に見えるだろう。「ブログ時評」の団藤保晴氏が、新しい時代のネットジャーナリズムの担い手として期待を寄せるのは、こうした専門家読者ではないだろうか。

優れたウェブを作っている人たちに、まだブログの世界に乗り出さない方たちがいかに多いか知っています。この人たちを迎え入れる環境整備をした上で、現在のマスメディアの水準を抜く「大衆知の集合体」をどこかにつくりたいと考えています。


という「ブログ時評」の記述は、そうした推測を十分に裏付けていると思う。

一方、「ネットは-」の湯川鶴章氏が指摘するように、確かに彼らのような専門家は、見る者によっては、既存メディアの社員記者たちと同じエスタブリッシュメントの側に属するだろう。湯川氏は次のように言う。

団藤さんが考えておられるように市民ジャーナリズムの中からプロをも凌駕するような質の高いジャーナリズムが増えてくることはすばらしいことだと思う。(略)

わたしもそうした観点で米国のブログジャーナリズムの現状を講演などで紹介することがある。ところがときどき「それって今のジャーナリズムとどう違うの」という質問というか、反発を受けることがある。

「エリート気取りのプロの組織ジャーナリズムが、エリート気取りのアマチュアの個人ジャーナリズムに変わるだけでしょ」「組織か個人という違いはあっても、結局エスタブリッシュメントの家に生まれ高等教育を受けた人だけが社会をひっぱっていく資格を持つ、という考え方は変わっていないじゃないか」というような主張だと思う。頭をガツーンと殴られたような気がした。(略)

おそらくジャーナリズムというものはこれからどんどん形を変えていくことになるのだろう。50年後には、今生きているわれわれが想像もできないようなものになっているかもしれない。

その変化の過程の中で、ジャーナリズムがプロの独占から抜け出し、やがてエリート層の独占からも抜け出すようになるのではないか。わたしはそんな期待を持っている。ひょっとするとそれは単なる「夢物語」かもしれない。「夢物語だ」と批判されても、わたしは反論できない。

これを読む限り、湯川氏の提唱する「市民参加型ジャーナリズム」は、大衆層を主体とした反エリート闘争の一過程のようだ。思想的にはライブドアPJニュースや、韓国のオーマイニュースに近いようにも思う。

団藤氏の「市民によるブログ運動」を「米国型」と呼ぶなら、湯川氏の「参加型ジャーナリズム」は「韓国型」に分類できるかも知れない。団藤氏の説く良質のブログジャーナリズムは、長期的に見れば、ジャーナリズムそのものであるのに対し、湯川氏の夢見る参加型ジャーナリズムは、ジャーナリズムへのアンチテーゼにはなり得ても、ジャーナリズムそのものにはなり得ないだろう。

それは一種の社会改良運動であって、やはり階級闘争の色彩を帯びてしまう。社会の階層間対立を煽るような方法論は、個人的にあまり好ましく思わないのだが、それでも湯川氏のジャーナリズム観の持つ、ある種の青臭い民主主義思想には、それなりに好感が持てる。

一方、湯川氏は、NPOなどの社会活動家にも「参加型ジャーナリズム」の担い手を期待しているようだ。NPOも様々で、純粋にボランティアに専念している人たちもいれば、政治的意識の高い運動家もいる。

後者は既存メディアの社員記者たちと、似たような社会階層の出身で、企業ジャーナリズムに「近親憎悪」に近い感覚を持っている。新潟中越地震の際に、被災者支援のボランティアと取材記者との間の摩擦が問題になった背景には、そうした事情も影響しているのではないか。そうした既存メディアに批判的な社会運動家は、インターネットという言論手段を得た途端に、ジャーナリスト以上にジャーナリストらしくなるだろう。

インターネットという新技術の登場は、ジャーナリズムという権威を、一時的に流動化させている。やがて、高度な専門知識を持つエスタブリッシュメントや、身の回りの出来事を記す一般市民、社会改良の意欲に燃える運動家といった人々の中から「新たな権威」が生まれ、秩序は再び固定化に向かうだろう。

既存メディアに対する様々な批判は、そうした流動化による秩序リセットの最初のプロセスなのかも知れない。〔了〕


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Japan Media Preview (山川草一郎(自称保守志向の独立ブロガー))
2005-08-09 17:34:22
「ウェブログ図書館 業務日誌」さんのご紹介で、市民ジャーナリズム論争を取り上げた「Japan Media Preview」の記事を知った。



「What They're Saying: Bloggers Debate the Future of Citizen Journalism」と題した記事には、当ブログの記述も一部引用されている。自分の記事を英語で読む機会はめったにないので、記念に関連部分を翻訳してみた。



===============

A third blogger neatly summarized the debate.



"If you categorize Dando's preferred version of the citizen blogging movement as 'American-style,' then what Yukawa calls 'participatory journalism' can be categorized as 'Korean-style,' wrote Soichiro Yamakawa, a self-styled conservative-leaning independent blogger. By contrast, "The type of good quality blog journalism that Dando advocates, looked at in the long run is journalism itself, whereas the participatory journalism that Yukawa dreams about, if not the antithesis of journalism itself, will certainly develop into something very different from journalism.”



===========

 第三のブロガーは、この議論を手際よくまとめた。  「団藤氏の『市民によるブログ運動』を『米国型』と呼ぶなら、湯川氏の『参加型ジャーナリズム』は『韓国型』に分類できるかも知れない」。自称保守志向の独立ブロガー、山川草一郎はそう指摘する。

「団藤氏の説く良質のブログジャーナリズムは、長期的に見れば、ジャーナリズムそのものであるのに対し、湯川氏の夢見る参加型ジャーナリズムは、ジャーナリズムの対照物にはならないものの、ジャーナリズムとは異なる何かに発展するに違いない」



=============



なんか最後の部分が原文と微妙に違うような気はするが、英文の方が論理的に聞こえるから不思議なものだ。





返信する