おもしろニュース拾遺

 BC級ニュースが織り成す可笑しくも愛しい『人間喜劇』。おもしろうてやがて悲しき・・・

文科相がスケート発言を謝罪

2006-03-06 23:57:33 | 迷言・妄言
 栄光の絶頂にある人を突き落とす効果的な言葉はなんだろう。お前の金メダルなんて誰でも取れる、というのは単に悔し紛れとしか思われないので打撃にならない。我らが文部大臣(正式名称で呼ぶほどの値打ちはない)がそのヒントを与えてくれた。「お前の優勝はライバルがしくじったからに過ぎない」と本人の目の前で言ったのである。

 <小坂文科相は、2月28日夜に荒川選手が同省大臣室を訪れた際の懇談で、競技の最後に演技をしたスルツカヤ選手が転倒して荒川選手の金メダルが決まった時の感想を「人の不幸を喜んじゃいけないけれど、こけた時は喜びましたね。『これでやったー』と、ものすごい喜んだ」と述べていた。>(共同3月6日)という報道にはたまげた。世間の常識ではここは栄誉を称える場面でしょ。「あんたの金メダルはスルツカヤが失敗していなかったら無理だった」と言ってるも同然。どう考えてもこれ以上の侮辱はない。

 しかも文科相というのは、学校教育の頂点、そのお方が公式に「他人の不幸は蜜の味」と教えるというのでは子供に示しがつかない。フェアプレーの精神などクソ食らえ、オリンピック憲章などゴミ箱に捨てろと言うのが日本の教育の総元締めだと世界に教えるのだから、とんだ”愛国教育”だ。

 このやり取りは一部の民報で放映されたため、さすがに「文科省に電子メールでの抗議が数十件あった」から、お役人が「大臣、いくらスケートとは言え、あのご発言はあまりにもお滑りになりすぎでは」と諫言したのだろう。6日になって、同省のWebに大臣名でおわびの一文が掲載された。「懇談で、荒川選手の金メダル獲得が大変うれしいとはいえ、一部配慮に欠けた発言をしたことについては、深く反省しており、荒川選手及びスルツカヤ選手に対してお詫びを申し上げます。」 腰を折って頭を前に下げる小坂”選手”の「逆イナバウアー」である。

 一週間で自らの非を認めたのは、民主党の二週間に比べるとましとは言え、まだこの事件の本質がどこにあるかよく分かっておられないようだ。オリンピック派遣のいわば最高責任者が文科相であるから、終盤になってもあの大選手団(+それを上回る派遣「役員」)にもかかわらずメダルゼロという暗黒の結果に焦りがあった。「不正でもテロでも何でもいいからメダルを取れ」と言う気持ちが、「人の不幸を喜ぶ」ことを公言するという大臣にあるまじき行為につながったのだ。
 (まあ自民党そのものが長期政権を維持して、今は"栄華"を極めているのも、自らの精進でなく、昔は社会党今は民主党という野党第一党の無能と大ポカのおかげなので、常に他人の失敗を当てにする癖がついているのは分かるのですが・・・・)

 そう、「反省」すべきは、自らの大臣の器だけでなく、今回冬季五輪メダル獲得率世界最低(メダル獲得国中、ちなみに最高は韓国で4人に1人はメダリスト)という日本の五輪実績である。
 抜本的な対策を施さないと、次回の五輪では大臣が、他の国の選手は皆失敗しろと「丑の刻参り」をしたという記事を見て驚くことになるだろう。

自民政治家愛用料亭が店仕舞い

2006-02-25 17:07:40 | 迷言・妄言
 我ら民草には高根の花というより、別世界の赤坂の高級料亭。連想するのは与党政治家の、時代劇の定番の上の写真のようなやり取りだ。そしてそれが必ずしもそれほど的外れな連想でないというのは、この世界に「入門」したての新人の次のような言葉でも確認できる。:「料亭行ったこと事ないですよ!行きたいですよ!料亭!」。小泉チルドレン、デビューの第一声であった。

 しかしその小泉氏愛用の老舗料亭が店仕舞いという寂しいニュースである。「金龍:YKKの「拠点」が店じまい 料亭政治で一時代」(毎日新聞2.25)

 <東京・赤坂の老舗料亭「金龍」が今月末にも閉店する。かつては小泉純一郎首相、自民党の加藤紘一元幹事長、山崎拓前副総裁の「YKK」トリオが頻繁に会合を持ち、店先はそれを取材する記者であふれた。90年代のYKK全盛期を見続けた料亭の店じまいは、政界の時の流れを象徴しているようでもある。>と記事は書いている。

 すでにこのBlogでも紹介したように、あの日歯連事件のワイロ攻勢の記事によると、料亭での政治家との会合のあと、「同席した幹部が議員の背広のポケットに100万円を入れる」という手荒な「接待」をしたこともあるということなので、「料亭」に落ちるカネも大きそうだと素人は考えてしまうが、おいしいのは政治家だけでその舞台ではなさそうだ。

 自民党の大物政治家が利用するのは赤坂ではこの『金龍』のほか、『口悦』『鶴よし』『浅田』『外松』、向島では『ふたば』、銀座の『吉兆』などなどが有名という。いったいいくら使っているか政治資金収支報告では出てこないが、例えば上記日歯連の場合、02年に51回の「会合」で890万円だから、1回あたり17万円。豪勢さで有名だった亀井静香議員は『外松』だけで年間11回で330万払っていることが分かっている。タイゾー君の憧れは無理からぬことだが、すべての政治家がこの特典を享受できるわけではない。

 日本の政治の重要事は料亭で決められる。政界の大物は皆「料亭政治家」であった。国会での論議は形式に過ぎないというのは極論であろう。しかしこと人事に関しては、「その時歴史は料亭で動いた」という証言が数多くある。
 以下に紹介するのはあのナベツネ(本名知ってますか?渡邊恒雄ですよ)、の証言である。舞台はこの「金龍」だった。
「中曽根さんは大臣になりたい。僕もできることなら大臣にしてやりたい。親分の河野に頼んでも、斡旋してもらえないので、ここは僕が大野伴睦に頼むしかない、こうなったわけだ。」
 もちろん「大勲位」中曽根康弘である。この時にナベツネは読売新聞の政治部記者。中曽根とはすでに盟友であった。
 「大野伴睦と中曽根さんを向き合わせて、僕が角に座って議事進行したわけです。そしたら『きみは総裁の器だ。そうだな、よし、きみを入閣させる』ときた。それで中曽根さんは、科学技術庁長官になるんだよ。」(『渡邊恒雄回顧録』)
 年譜で見るとこれは1959年のことだ。「あの時、入閣していなければ、彼は総理大臣になっていなかったかもしれないよ。」とナベツネは語っている。まさに「金龍」から大勲位へと登り詰めたわけだ。ナベツネはこの時すでに政治記者というよりフィクサーだった。

 「料亭史観」で日本の戦後政治を語る人もある。ただ、国会の論戦と違い、正確な記録が残るはずもないので、「正史」にはなり難い。その日本政治の「本舞台」も、「往時100軒近くに及んだ赤坂の料亭も今は1ケタ台」という。不景気と政治資金の規制が厳しくなったことで、大先生の金回りが悪くなったのだろう。最も豪勢であった静香氏が自民党を追われたのも、「小泉改革」の結果だったから、小泉行きつけの「金龍」が廃業するのも時の流れだ。「今は政治家もイタリアンや焼き肉店で会合を持つ時代」(加藤紘一)というから、タイゾー君は時機を逸したのかもしれない。

 週刊誌の報道によると、早くも昨年の10月にタイゾー議員は「料亭」を初体験したという。しかしそれは日本料理屋で、しかも1万5000円のランチだったらしい。もう「金龍」には間に合わない。少なくとも「大勲位」への道は閉ざされたわけだ。

「本当に体たらくな自分」:東横イン社長

2006-02-07 13:49:51 | 迷言・妄言
 松田聖子、ボビー・オロゴン、東横イン西田憲正社長に共通する特技は?

 それは「涙の偽装」、つまり涙を流さずに号泣できることである。

 松田聖子が、受賞の喜びで身をよじりながら「号泣」しているにも関わらず、涙は一滴も流していないことを最初に看破した人はエライ。これは歌手タレントとしての一種の営業活動なので一概に責められるべきことではない。むしろこのことで「ぶりっ子」キャラという存在を世間に知らしめた功績の方が大きいかもしれない。

 ボビーは、事務所で暴れたことについての先日の弁明会見で涙を偽装していたが、これは記者に簡単に見破られた(「号泣した場面も、涙は流れていなかった。」(デイリースポーツ 1月28日))。彼の偽装能力の高さはむしろ日本語においてだ。わざと妙な日本語を駆使してウケを狙うことは、正しい日本語を使いこなすことよりも難しい。体力的には「最強の素人」と言われていたが、知的能力も非常に高い。ただこの会見は策士策に溺れたという感がある。

 そして西田社長である。2月6日の会見は、最初の人を食ったような会見(1月27日)と違いみかけは神妙そのもの。ずっと下をうつむきっぱなしで涙声になっていた(報道では各紙「泣きながら」)が涙をぬぐうことはなかった。豹変ぶりの凄まじさは、ヒューザー小嶋社長と好一対である。

 6日の会見では"同志"のボビー・オロゴンを真似たわけではなかろうが、奇妙な日本語が飛び出した。曰く。「本当に体たらくな自分だったと思います」(時事)。ん? 言いたいことは分からぬではないが、「体たらく(為体)」に連体詞的な用法はないと思う。「情けない体たらく」とか、「この体たらくは我ながら情けない」と言うべきだろう。学研国語大辞典は以下のように説明している。<ありさま。かっこう。ざま。 《参考》好ましくないありさまをいうときに用いる。また、そのありさまをけいべつの気持ちをこめていうときに用いる。>

 しかし西田社長は自分のしたことに本当に「けいべつの気持ち」を持っているのか。心理学や音響学の専門家によると彼は日本語だけでなく、”気持ちの偽装”の天才だという。
 心理学の知識をもとに人間のマナーを研究しているある専門家によると、彼は27日の第一回の会見の方が心理的に追い詰められていたという。「時速60キロ制限の道を67~68キロで走ってもまあいいかと思っていた」と報道陣を小馬鹿にした発言を繰り返していたが、その時非常に瞬きの回数が多くなり、口が渇くのか盛んに唇をなめていた。これは重大な嘘をついているときやまずいことを聞かれたときに現れる典型的な仕草という。

 そして逆に6日の会見では、日本音響研究所の鈴木松美博士(もうワイドショーの犯罪報道では常連ですね)の分析によると、音声周波数はフラット、つまり平常心だというのである。と言うことは2回の会見とも表に出る自分の気持ちを完全に”偽装”しているわけだ。さすがと唸るしかない。

 今予算委員会の真っ最中だが、答弁する大臣たちの行動に注目して欲しい。まずいことを聞かれたあとには、水をがぶ飲みしている。心理的な圧迫感というか焦りがモロに表に出てしまっている。どれだけ大臣に水を飲ましたかで、質問者のポイントを計算することも出来よう。逆に言うと、日本の大臣連は”修業”はまだまだ。平静さを偽装できないとはまだまだ小物である。主権者の立場からは少し安心が得られる?心理学的観察結果なのだ。

 しかしその西田社長、会見の中で、ひょっとしたらここだけは真実の気持ちに近いのではと思わせる表現があった。「自分が上等な人間と思っていたことが悔しくてしようがない」。昨日の会見を聞いて、この言葉だけが気になっていた。
 そして上述の鈴木博士が、西田会見で唯一「周波数の異なっている」部分としてこの箇所を指摘しているのを聞いて我が意を得た。博士は「ここだけ周波数が100Hzほど上がっている。おそらく自分の言葉に自分で感動している」と分析していた。

 西田社長には『家族・友達・仕事のために自分を知ろう―人生を豊かにする内観』なる著書がある。<「本当の自分」を知れば、人生も家庭も職場も明るくなり、世界も平和になる!そのための画期的方法!内観>を解説しているらしい。人生のすべてが偽装であった自分を振り返って、会見でも自分の気持ちを偽装した彼であったが、一瞬「本当の自分」が言葉の端から漏れたのでなかったか。そして”自分らしくもなく”正直な気持ちをカメラの前で喋った自分に感動したのだ。できればこの「感動」をヒューザー小嶋社長や政治家にも味わって欲しい。

小嶋はコペルニクス的馬鹿者:横浜市長

2006-02-03 11:06:23 | 迷言・妄言
 「コペルニクス的転回」というのはよく使われる表現だが、「コペルニクス的馬鹿者」という言葉は初めて聞いた。
 横浜市の中田宏市長が2月2日に記者会見でヒューザーの小嶋社長を評した言葉。横浜市は小嶋社長に「損害賠償」38億円を請求されている。<「盗っ人たけだけしい。コペルニクス的ばか者だ」と発言した。>(朝日新聞)。

 普通人名に「的」を付ければ、その人のようなという意味になる。「コペルニクス的馬鹿者」というのはコペルニクスのように愚かだということになって、あの偉大な天文学者に対してあまりにも不似合いだ。コペルニクス先生も突如こんな問題で自分の名前が引き合いに出されて、草葉の陰でひっくり返っているだろう。

 そもそも「コペルニクス的転回」という言葉を広めたのは哲学者のカント(1724- 1804)だ。主著『純粋理性批判』の中で自分の認識論の斬新性をアピールするために、まさしく天文学でコペルニクスが行ったのと同じことをやっているのだという意味で「コペルニクス的転回」Kopernikanische Wendeという言葉を用いたのが始めとされている。物の見方を180度転換するという意味だ。

 だからあえて中田市長の言葉を忖度すると、「本来は自分が加害者で謝るべきなのに、被害者面をして自治体を訴えるなど180度倒錯している。そういう愚かなことをする馬鹿者」と言うべきところをかなり”省略”して表現したのだろう。

 確かにコペルニクス的というのを「180度」という意味で使うなら、小嶋社長というのはまさしくコペルニクス的人物だ。最初の参考人招致では「ふざけたことを言うな!」と国会の場で大声を上げていたのに、証人喚問の時は「コペルニクス的転回」をして、聞き取れない蚊の鳴くようなか細い声で「答え」ていた。「どうぞ証人に呼んでいただきたい。困るのは国交省のお役人」という強気の態度が、喚問の場では「コペルニクス的転回」して、「お答えは拒否させていただきたく思います」と逃げに終始。マンション住民への説明も何度も「コペルニクス的転回」して不信感を煽って、破産宣告を申し立てられた。

 ただ、今回の事件の本質の一つが、いわゆる検査体制にあることは間違いない。これまでの「官」の検査から「民」の参加も認めるという「コペルニクス的転回」によって検査が杜撰になった。と言うより、「民」に天下った「官」が建築会社とグルになって検査をフリーパスにしたという側面がある。
 現在も自治体の検査体制がいい加減であることは、再検査しても姉歯偽造を見抜けなかった自治体が頻出したことからも明らかだ。「官」は完全に無罪というのはそれこそコペルニクス的な間違いだ。自治体や国交省も「姉歯、小嶋、内河はコペルニクス的馬鹿者だ」と全責任を転嫁して、満足そうに深々と椅子に腰掛けられていてもユーザー(ヒューザーじゃないよ)としては困ってしまう。

 まもなくカントの命日(2月12日)がやってくる。この大哲学者の臨終の言葉は「すべてこれでよし" Es ist gut"」だったという。しかし日本の「官」のエライさんが" Es ist gut"とご満悦では困るのだ。中田市長の言葉が自分たちの責任逃れでなければ幸いであるが。

BSEよりも交通事故の方が危険だ:米高官

2006-01-28 19:14:08 | 迷言・妄言
 「コラ日本人、お前らアメリカの牛肉に背骨が入ったくらいで騒ぎ立てるな。牛肉買いに行く途中に車にはねられて死ぬのと、買った米牛肉がBSEで死ぬのと、どっちが可能性が高いか考えても見ろ。」と逆切れしているのは、来日したペン米農務省次官。日本に謝りに来たんだと思っていたら記者会見で日本人にお説教を始めた。

 発言は1月24日。<BSEの危険性を「車でスーパーに買い物に行って事故に遭う確率の方がよほど高い。その事実を日本の消費者に伝えたい」(ペン農務次官)と指摘。厳しい日本の輸入基準へ不満をあらわにしたが、背骨混入を見逃した原因について明確な説明はなかった。>(朝日新聞1月25日)というから、やはり謝罪でなく「啓蒙」に来たのだ。ただ次官がこれに先立つ局長級会議でもこの持論を展開したのかは分からない。
(ちなみにこの発言、在日アメリカ大使館のWebに原文が載っているので、その部分を最後に資料として掲げた。さすがに日本人に反感を買ってもと思ったのか?英文だけなので、日本語訳をつけた。)

 武部幹事長、麻生外務大臣などは日本では”失言居士”として有名だ。この記事だけ読むとペン次官、つい感情的になって「居士」の仲間入りと思いがちだが、全く違うのだ。昨年6月24日のことだが、ジョハンズ米農務長官が記者会見で全く同じ「交通事故理論」を展開しているのだ。つまりこの「理論」は、米国産牛肉の「安全性」を訴えるために米国の農務省が編み出した”戦略兵器”なのだ。

 何しろ会見のおしまいでイタチの最後っ屁みたいに言われたので、日本の記者から「その理屈はおかしい」という指摘はなかった。しかし米農務省が英知を結集して磨き上げた理論である。その場の記者の”常識的な”質問はかえって恰好の餌食になったはずだ。「いいだろう、じゃ君、米国産牛肉を食ってBSEで死んだ日本人は何人いる?・・そう0だ。そして”さあ今日はカレーにしましょ”と牛肉を買いに出かけて交通事故で死んだ日本人は何人だ?一人や二人ではあるまい。君たちがBSEよりも交通事故を心配しなければならないというのは、統計が証明しているのだ」と勝ち誇るに違いない。

 面白いのは「2ちゃんねる」なんかを見ると、昨年この「交通事故理論」が発表されたときに、「まったくアメリカの言うことは論理的だ。」と賛同する日本人も珍しくなかったことだ。もちろん米農務省の”エージェント”が日本人を装って書き込みしていることも考えられないではないが、内容から判断する限り、単なるお人好しの素人だ。詐欺師が滅びないのも無理のないことだ。

◆『統計でウソをつく法』

 19世紀の大英帝国の保守政治家ディズレーリ(1804~1881)は「ウソには3種類ある。ウソ、みえすいたウソ、そして統計だ」と言ったそうだ。これを紹介しているのがその題名もズバリ『統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門』(ダレル・ハフ 著,講談社ブルーバックス)だ。
 「統計」というのは正確な数字で事実を証明するものだと思っている人が多いが、それは全くの誤りで、詐欺師ほど統計の好きなものはいない。その詐欺の手法を学ぶことで、統計学の概念を学ばせるという手法だ。
 書店に行くと統計学の入門書というのは、日本人の書いたものや翻訳物が無数に並んでいる。手法の解説は大きな違いはないが、翻訳物と国産の違いは練習問題の内容の違いだ。アメリカ人の本の例題はその中味が現実に起こったことから作られており、それを読むだけで興味深い。日本人のものは著者が頭の中でこしらえた数字で全く無味乾燥だ。ハフの本は実際の”統計詐欺”が縦横に使われていて、それを読むだけでも笑ってしまう。

 最後のペン次官の発言をお読みになれば分かるとおり、「probability確率」なる言葉を乱発している。日本人記者を前にして、畜産学でなく「確率・統計学」を講義しているわけだ。よろしいペン次官、それならお尋ねしますが、あなたは何と何の「確率」を比較しているのですか。
 そもそも病気と事故の「確率」を比べるのが無意味なのだ。あるホテルではスキー事故でこれまで10人亡くなったが、食中毒では4人だ。このホテルはかなり安全な食事を提供していると思う人がいるだろうか?
 例えばハフの本では、列車事故と飛行機事故の件数を根拠に安全性を論じることや、海兵隊の方が一般市民よりも死亡率が低いので海兵隊は安全という主張が統計的に意味がないことを指摘している(その理由が分からない方はこの本を見てください)。どちらも全く違う母集団を比較してしまっているからだ。「交通事故理論」は母集団どころか概念の異なるものを強引に「確率論」でくっつけている。数字や統計に弱い人の目をくらますためだが、端的に言えば日本人をなめているということだ。間違っても謝罪する側の持ち出す論理ではない(が、何とも言えぬ可笑しみはある。例えば「雨降って地固まる」という諺を持ち出した米軍の司令官の不愉快さと比較せよ)。

 『統計でウソをつく法』は原著は半世紀以上前に書かれている。日本ではまだ刊行されているのだから超超ロングセラーだ。実はその統計というのは大部分は二十世紀前半の事実なのだからむしろ歴史書だ。もう著者は鬼籍に入られていると思うのだが、健在であればこのペン次官の発言を教えてあげたかった。喜んで「ウソ」の見本として書き加えただろう。

 ペン時間はこの会見でまともなことも言っているのだが、最後に「統計のウソ」が混入した。ちょうど米牛肉に「特定危険部位」が混入したように。日本人も論理の偽装を見破れるように「検査体制」を強化する訓練と教育が必要だ。

【付録-ペン発言該当部分原文】

As I said, no more than about 150 people have ever contracted the human variant of this disease and died. If you look at all of the other possibilities of having something bad happen to you, the probabilities are much higher. In fact, probably, getting out of your automobile and walking into the store to buy beef has a higher probability that you will be hit by an automobile than it does from the probability of any harm coming to you from eating the beef.

 以前に申しましたように、狂牛病にかかって死んだ人の数は150人もないくらいです。それ以外の色々な悪いことが皆さんの身に降りかかる確率というものの方がずっと高いのです。実際にですね、恐らく、牛肉を買おうとして車を降りて店に歩いて入っていくとしましょう。その時に車にはねられる確率というのは、牛肉を食べて何らかの害がある確率よりも高いのです。

殺人事件で「雨降って地固まる」:米司令官

2006-01-19 10:53:10 | 迷言・妄言
 最近鬼籍に入られたがアメリカにレーガンという大統領がおられた。彼は衆院本会議場で公式演説をした最初の大統領だが、それは1983年11月11日。その中で彼は芭蕉の句を日本語で引用したのだ。「草いろいろ おのおの花の 手柄かな」。日本中が驚いたが、その時議場にいた山拓氏はその衝撃を次のように書いている。
<私は中曽根総理に「総理、いまの俳句知っていましたか?」と聞きました。「知らなかった」「おまえは知っていたか?」「私も知りませんでした」という会話になりました>。

 驚いた理由はもちろん日本語のせいではない。アメリカ大統領が「俳人」でもある中曽根氏さえ知らない芭蕉の句を持ち出したからである。中曽根氏といえば、最近自民党の改憲草案を起草し、その中で「日本文化への敬意」を高らかに謳った(主流派に「復古的」とされ削除されたが)いわば日本文化の「巨匠」である。その人が知らない句を普通の日本人が知る由もない。

 もちろん演説草稿は大統領直属のスピーチライターが書くので(レーガンは芭蕉さえ知らないはず)、彼は図書館で「日本の名句」というような文献を渉猟したに違いない。文脈的に適当と思って引用したはずだが、日本人の間でこの句がどれだけ膾炙しているかは調べなかった。そのため「巨匠」だけでなく、一般の日本人にも自分が無学者扱いされたような奇妙な屈辱感を抱かせてしまったのである。

 レーガン大統領の「失敗」の教訓はしかし、アメリカのお偉方に共有されていないようだ。すでにこのBlogでも取り上げた米兵による横須賀女性の殺害事件で、昨日第7艦隊司令官と在日米海軍司令官が連名で、日本人に向けた「公開書簡」(全文はここで)を明らかにした。「日本人向け」という割には英文しかないのだが、その最後で次のように日本の「ことわざ」を引用している。
There is a Japanese saying that "after the rain, the ground becomes firm"
- it is our hope that this sad affair will prove the catalyst to make
our relationships and our alliance even stronger.
(日本のことわざに「雨降って地固まる」というのがあります。この悲しい出来事が、将来両国の関係と同盟をより強固なものにするきっかけになることを望みます)

 えっ!え~え、「雨降って地固まる」ってこういう時に使っていいの?殺人犯の親がですよ、遺族に向かって「”雨降って地固まる”と申します。これをきっかけに両家の関係が深まることを願っています」と「声明」を出したとしたらどうよ? 朝日新聞は「謝る側が使う言葉ではない。市民感覚が分かっていない証拠だ」という地元の声を伝えている。

 よその国の諺を外国人が引用するときはその辞典的な意味だけでなく、それがどのようなシチュエーションで使われるかを知っておかないととんでもない騒動になることがある。米軍司令官は日本語も解さないし、日本人と深く付き合ったこともない。基地の日本語の通訳に聞いてこれを最後の「下げ」として引用したに違いない。
 これがアメリカの似たような諺、例えば"After a storm comes a calm."(嵐のあとに凪が来る)を引用しておけば、「いやアメリカではこう使う」という言い逃れが出来たのだが、日本語の場違いな諺を引用することで、逆に日本人を見下しているというメッセージを発することになってしまったのだ。この場合むしろ「沈黙は金 Silence is golden」の方針の方がましだった。

 米軍司令官は「一葉落ちて天下の秋を知る」という日本のことわざ(英語では"A straw will show which way the wind blows.")を知っているかどうか、とにかくこの「たった1件」の不祥事に気を使っていることは分かるが、逆効果になっているのは日本人の国民感情というものを理解していないからだ。

 情けないのは日本の政治家だ。冒頭に掲げた在日米軍の「徽章」(エンブレムというのか正式名称は知らないが。正確にはこれは在日米海軍のマーク))を見せられると、黄門様の印籠を見せられた「悪人」達のように「へへー!」となって、米軍に文句を言う場面で、クルリと国民の方に向き直って「お前たち、無理を言うものでない。日米関係は世界の中で最も重要な関係で・・・」とお説教。ええぃ!小賢しいわ!そのような台詞は学者に言わせておけばよい。政治家は心の問題、ハートだ、プライドということを考えぬか。

 実際在日米軍の「徽章」はあまりに象徴的だ。よく見て欲しい、アメリカを表すワシが日本列島を「鷲掴み」にしている。米軍の意識は明らかに「占領」軍なのだ。そして戦後60年経っても「それでいい」と考える「選良」が日本人の誇りを失わせている。
 個人でも国民でもそうだが、人間プライドを失うと、謙虚になるのでなく、逆に”弱い者イジメ”に走ってしまうのだ。血眼になって自分より弱い者を探して攻撃を始める。そのような情けない国民になるのを防ぐためにも、「占領軍」問題を解決するように政治家が真剣に動かないといけない。

 この事件は「たった一人」ではないのだ。日本のことわざに「蟻の一穴」というのがある。また間違って日本のことわざを引用してしまうといけないので、米軍司令官には"A small leak will sink a great ship."(小さな漏れでも空母さえ沈む)という英語の諺を教えておこう。


「ぶっ殺す」発言で検事辞職

2005-12-29 10:16:32 | 迷言・妄言
 検事が取調中に「ぶっ殺すぞ」と暴言を吐いたために、横浜地検が厳重注意処分。この検事は即日辞職というニュース(朝日新聞)を読むと、たいていの人は「やっぱ、検察って厳しいよな。オレなんか酒飲んでケンカすると”ぶっ殺すぞ”が口癖なのにさ。」と感想を持つ人が多いかもしれない。
 それは勘違いです。この「不適切」な取り調べがあったのが2001年なので、発言そのものは昔から知られていたのです。
 この”ヤーさん検事”は佐賀地検時代に、不正融資の疑いをかけられた元農協組合長を取り調べた。そして起訴したが一審二審共に検察の敗訴になったため上告を断念。元組合長の無罪は確定している。

 当初検察側がこの組合長の「自白調書」を有力証拠として提出していたが、裁判の中で、<検事の取り調べでは、意に沿わない供述をすると「ぶち殺すぞ」「ふざけるな」と怒声を浴びせられ、目の前の机を手刀で連打された。取り調べに疲れ果て「自白調書」に、署名押印したという。>(西日本新聞)事実が明らかになると、検察はこの「調書」を撤回してしまった。すでにこの時点で、裁判官の心証を損ねて検察の敗北は決まっていた。

 ちなみに検察官が「ぶっ殺す」と言ったか「ぶち殺す」と言ったか、報道が別れているが、
ぶち【打ち】(接頭)動詞に付いて、その意味を強める意を表す。〔音便の形をとって「ぶっ」「ぶん」となることもある〕(大辞林)
ということなので、意味に違いはない。それでは具体的に「ぶっ殺す」とはどういう意味なのか?検察官という職業柄、死刑を求刑すると解釈できるが、背任で死刑は無理だ。となると言外の意味は・・・「お前なぁ、それは明日築後川で浮かんでたいということか?検察はな、警察より偉いんだよ。酒に酔って川に落ちましたで済んじまうんだよぉ。えー!そんなに死にてぇのか!」。コワ~!

 背任罪は被疑者に犯意がないと成立しないため、どうしても自白が決定的になる。自白を得るためには、証拠固めという知的な作業よりも、どうしても”ヤーさん検事”の脅迫が効果がある。これは刑事の取り調べでも同じだが、日本の裁判の場合は自白偏重なため、どうしても”ヤーさん”が登場してきてしまう。
 今回の地検の対応でも、「自白」がそのまま通用していれば逆にこの検事は「落としの寛さん」とか呼ばれて「敏腕検事」ともてはやされただろう。今回の措置は敗訴の詰め腹を切らされただけのことで、検察自身が「検事として極めて不適切な行為」(佐賀地検次席検事)と思っているならもっと早く処分していたはずだ。

 検察であれ警察であれ、こういう「自白」の強要を避けるためには、取り調べのすべてをテープにとって裁判で証拠として資料提出が可能になるようにすればいいのだが、もちろん”ヤーさん”側は嫌がっている。
 今回一敗地にまみれた検察としては、改革案として、検察官を希望する司法修習生には、これから”極道修習”課程を追加しますか。「われ、なめんとんか!ドスン」。「あ-君それじゃダメ。”ワレー”と”レ”を強く伸ばして。それから”なめとんか”でなくて”なめとんかぁ~?”だからね。手刀も弱い。それじゃ被疑者に逆になめられるよ」。

「2600年の農民課税に終止符」:中国

2005-12-26 11:40:40 | 迷言・妄言
 「農民よ喜べ。君たちは2600年間の軛からついに解放される時が来たのだ」と中国政府。1958年に制定された農業税を来年1月1日から廃止する法案が可決されると新華社が伝えている。「春秋時代以来2600年間、大きな負担を強いてきた農民への課税の歴史に終止符が打たれる」と鳴り物入りの発表だ(毎日新聞)。
 しかし「中国4000年の歴史」ではないのか?<新華社などによると、中国の農民課税の歴史は「春秋左氏伝」に魯国(現在の山東省付近)が紀元前594年に税を始めた記載があるのが初めてという>(同上)。あくまでも文献上のことだ。

 それでは我が国の税の歴史はというと、「はい、大化の改新の後、租庸調の税制が整備されました」というのが学校で教える歴史だ。ただ、そこで初めて「税」という嬉しい制度(支配者にとっては)が導入されたのではなく、文献的にはすでにあの『魏史倭人伝』で邪馬台国の税制に言及されているという。
 古代日本の姿を凝縮したこのわずか2008文字を繙くと確かに「収租賦有邸閣(租賦を収む、邸閣あり)」という記述があり、これが日本の「税」に関する最古の記述だ(「邸閣」というのは「税」を収める蔵らしい)。卑弥呼たちは中国から学ぶことなしに独自の「税制」を編み出していたのか。文字を持たない彼らでも「取るべきもの」はちゃんと取るシステムを作っていたのは、人類の性(さが)というのか少し悲しい。

 その後もっと「ちゃんとした」税制を中国から導入したのは学校で教わるとおりだが、「税」がイヤなものであるのは中国も日本も変わらない。「」と言う漢字は、会意兼形声。兌は「八(はぎとる)+兄(頭の大きい人)」の会意文字で、人の着物をはがしてぬきとるさま。税は「禾(作物)+音符兌」で、収穫の一部をぬきとること(学研漢和大辞典)というから、ようするに強奪だ。「税」の字には合法的な追剥だという意識が込められている。

 だから「税」を進んで負担したがる人はいないわけで、これを「発明」した古代人のイデオローグはその理論化に相当苦心したに違いない。卑弥呼の時代のことは分からないが、中国の「王土王民」思想では最初から「土地も人民も”王”のもの」と決めてかかっているから、人民の負担は自明である。
 さすがに「民主的」な政治体制では「王」を持ち出すのは憚られるので、もう少し小難しい「理論」が学者によって編み出されているのだが、少なくとも子供には理解は無理だ。そこで編み出されたのが背理法というとまた難しくなるが、要するに「税金がなかったら」と仮定して矛盾を導くわけだ。

 その論法で税金の必要性を論証したのが、国税庁の小学生向け啓蒙ビデオ『惑星アトン』(1990年、文部省選定、30分)だ。「ある日、地球から未知の惑星アトンに連れ去られたカン太。そこは税金のない国であったが・・・」と、税金のない国が、学校も病院もない悲惨な状態であることを見せて(でもそんな貧乏なアトン政府がどうして拉致用の宇宙船を調達したのだ?というツッコミは勘弁して。「学校や病院だって別に民営のものがあるはずだ」というツッコミもやめて))、税金の「必要性」を理解させる。いわばネガティブなキャンペーン。もちろんこのビデオ税務署で無料で借りられるのは、国民の税金を投入しているから。

 実はこのパートII(1991年)もあり、さすがに「収奪者」の論理ばかりではまずいと思ったのか、そこでは、無事皆が税金を納めるようになって豊かになった「アトン国」だったが、悪い大臣が公害を隠すために不当な新税を発明して・・・とかなり?現実の日本に近づいている。つまり税金の使われ方を監視すべしという、お役所としては”危険思想”が表に出てしまった。広告代理店の「暴走」だったのか。パートIIIが作られなかった理由は・・・言うだけヤボだろう。

 話を中国に戻して、「2600年の軛」から解放された中国の農民はどれだけ楽になるのか?
「農民1人当たりの負担減は約62元(約930円)にすぎない。」(毎日)というから、政府の言うことを真に受けた人には完全なぬか喜びだ。
 昨日の読売新聞は<弱者の怒り・暴動多発、中国「調和社会」建設に限界>という記事で中国の農民の不満が急速に拡大していることを伝えている。「2600年間」の農業税の撤廃も目先を変えたいということだ。ちょうど日本の財務相が「第3のビール」課税を強化する代わりに、「みなさん来年からビールが減税になってお求めやすくなりますよ」と言っているのと同じだ。

 財政破綻した日本国は増税路線を進むことは間違いない。政府もありとあらゆる手段で「増税やむなし」の雰囲気作りに努めている。ただ、今の財務省などはまだ『惑星アトン』パートIの段階、つまり「増税しないと大変なことになります」というネガティブキャンペーンより先に進んでいない。税金の不適正な使用(「アトン2」)にはまだメスを入れようとしていないのだ。
 恐らくは政治的圧力で製作中止となった『惑星アトン』パートIIIの登場が待たれる。惑星アトンを訪れたカン太は、今や立派な「税金オンブズマン」。財政破綻を起こさせた役人や政治家を摘発していくが、ある日、アトンの公共建築物はすべて、構造設計データーが偽造されて地震で倒壊してしまうことを発見する。しかしその時、アトンを侵略しようとするソーケン星人と政治家、天下り役人のトライアイングルが、カン太を抹殺しようと・・・・

「ヒトラーのように」校長発言謝罪:地元教委

2005-12-24 10:47:34 | 迷言・妄言
 「ヒトラーのように」発言で物議を醸した高校校長について、新潟県の教育委員会が記者会見で謝罪した。新潟日報12月22日

 事の起こりは今年10月26日、新潟県小千谷市にある県立高校の職員会議での校長の発言。この日会議では「授業中に携帯電話をいじったり、スカート丈が極端に短かったりした生徒」への対応を論議していたが、この場で校長が「生徒は、繰り返し指導しなければならない。ヒトラーのようにやればいい」と発言していたことが報道された(朝日新聞)。これに対して県高等学校教職員組合は「ヒトラーを容認する発言だ。人権意識や国際感覚が欠如している」と、発言の撤回と謝罪を求めたという。

 「ヒトラーのように」問題。このセリフで日本近代史のあのエピソードを思い出す人もいたはず。
 1938年の衆議院本会議で、国家総動員体制について賛成の議論に立ったのが社会大衆党西尾末広代議士(戦後「民社党」初代委員長)。
 「日本は未曾有の変革を為さんとしております。 明治天皇の五ヶ条の御誓文の中にも『旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし』と記されております。 近衛首相はこの精神をしっかりと把握されまして、もっと大胆率直に日本の進むべき道はこれであると、 かのヒトラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべきであると思うのであります」
と演説したのである。
 内容的には政府の「改革」後押しであるし、ヒトラーやムッソリーニーは当時の日本の政界ではファシストとして英雄視されていたので、主旨は「問題ない」。最後の「スターリンの如く」が余計だった。社会大衆党がいち早く体制化と言うか、ファッショ化のバスに乗ってしまったのを妬む他の野党から、「共産主義の親玉のスターリンを賛美するとは何事か」と攻撃され、結局西尾は懲罰委員会にかけられ国会議員を除名された。

 さてこの校長発言。確かに現在の日本の常識ではヒトラー礼賛は「悪」である。しかし70年前はその正反対。例えば校長が「信長のようにやれ」と発言したらどうだったろう。これはOKだ。なぜなら現在の日本の首相も信長を尊敬しているからだ。しかしこれが延暦寺系の学校の校長ならクビが飛ぶでは済まない騒ぎになる。
 だからここでは「××のように」発言が穏当であるかはとりあえず問題にしない。また生徒たちが教師から学ぶものは、知識よりも教師の生き様なのだ。ヒトラーや信長が何をしたかの知識はすぐに忘れる。しかしどんな先生であったかの記憶は生涯残る。
 政治家も同じだ。「鬼畜米英」。上等じゃないか。それなら占領下でも(今のイラクのように)米軍と命がけで戦ったのかというと、一晩でコロッと変わって「皆さん、アメリカ民主主義を身につけましょう」と、「鬼畜」の命令をご神託扱い。この見事な転向ぶりがどれだけ日本の子供(後に戦後日本を作った)の精神に逆教育効果をもたらしたか。

 この「ヒトラー」校長、当初は「ヒトラーの例えは使ったが、『繰り返し繰り返し指導すれば、生徒は分かる』という趣旨。発言には何ら恥じる部分はなく、撤回する考えはない」(時事)と強気だった。また別のBlog情報では、この校長今年7月別の機会に「特攻隊のほうが君たちより幸せだったのかも知れない」と生徒の前で語っているという。まあそういうイデオロギーの持ち主ということだ。それならそれで堂々と「ヒトラーのごとく」演説を続けるのが教育者というものだ。
 ところがこの日の教育委員会の記者会見には当人は現れなかった。「冬休み前の最後の登校日でもあり、同席の必要はないと判断した」と教育委員会の説明(上記新潟日報)。「ぼくちゃんをかくまってください」と校長が教委に泣きついたことは明らかだ。

 教委によるとこの校長はこの問題で「全校生徒に謝罪」したという。何をどう謝ったのか不明だが、動機が自己保身であることは明らかだ。一連の発言は自己の信念でなく、右傾化という時流に単に乗っかっただけということか。「ヒトラーのごとく」勇猛に振る舞い、「特攻隊のように」命を捨てよと大声で弁じた校長が、自分の地位が危ういと感じるや泣き虫の子供のように振る舞う。このダブルスタンダードこそ、日本の教育不信の最大の原因なのだが、追求はヒトラー礼賛の是非というイデオロギー問題になっている。しかし周りの反応に応じてコロコロ言うことを変える人物と、「歴史認識」の議論などそもそも不可能だ。

教育とは信念を見せることではないのか。たとえそれが自分に不利であると承知でも、信念のために闘う姿を子供達に見せること。右であれ左であれ、その姿が人間への信頼を育てるのでないのか。と今日は熱血教育論で締めくくらせていただきます。

担任が小5生徒に「決闘」を強要

2005-12-22 09:53:38 | 迷言・妄言
 担任の杉崎は興奮していた。昼の掃除時間に生徒の太郎と良夫がつかみ合いのけんかをしているのを仲裁に入ったのだが、放課後教室に二人を残して言い分を聞いていると昨晩の学園ドラマが脳裏によみがえってきたのだ。杉崎はいつのまにか、ドラマの熱血教師と一体化して、普段と声も口調も変わっていた。

 「なんだ太郎、良夫の言ってるのと違うじゃないか。これはどちらかがウソを言ってるってことだ。いいか、確かに青春は傷つきやすいものだよ。」(この時目の前の生徒がまだ小5であり、「青春」と呼ぶにはいささか早すぎるということをすでに忘れていた)「しかしな、ウソは許さん。オレは絶対許さん貴様らこうなったら体で決着をつけろ。おれがレフリーをやってやる。決闘しろ!」

 太郎と良夫はビックリした。先生が仲裁してくれると思っていたのに、教室の中で暴力をけしかけるとは。そのためらいが杉崎をさらに興奮させた。「お前ら、決闘する勇気もないのか、それで青春と言えるか」と不必要に「青春」に拘泥し、罵声を浴びせて、二人の足首を蹴飛ばした。
 尋常でない担任の興奮ぶりに恐怖した二人はしょうことなしに組み合った。しかし恐怖のあまり硬直した足がもつれて、太郎が転び、太郎の服に手が絡まった良夫が腕から床に落ちた。
 良夫が学校中に響くような悲鳴を上げた。生徒や教師がこの教室に集まってきた。「決闘のレフリー」は我に返った。そこはドラマの熱血高校とは違う、川崎市立小学校の自分の職場であり、目の前には手首を骨折して泣いている自分の生徒がいた・・

 というのが読売新聞22日の記事に基づく実況中継ですが、この「決闘」をけしかけた先生の頭には「脚本」があったんでしょう。
 取っ組み合いをする太郎と良夫。いつまでたっても決着がつかず、ついに床の上で二人大の字になって倒れ込む。良夫、太郎を見遣ってニヤリと笑う。太郎、良夫に微笑み返す。杉崎「よーし、二人ともこれで納得したか」。窓から夕日が見える。3人並んで夕日を見つめる・・・

 学園ドラマで生徒のけんかがあると、先生は「暴力はやめろ」なんて野暮なことは言わずに好きなだけやらせるのがお約束で、たいていは上のようなベタな展開で締めくくっています。この学園ドラマ好きの先生もパプロフの犬のように反応しただけという言い訳も可能でしょう。

 しかし問題はこの事件が一年半経って明るみに出たときの校長のコメントです。
子供たちにぶつかっていくような姿勢で指導しようとするあまり、教育的な指導を超えた部分があった」
 そうですか校長先生、あなたは例えば猥褻教師をかばうときは、「子供たちとのふれあいを重視するあまり、教育的な指導を超えた部分があった」
 盗撮教師をかばうときは「生徒の健康状態を記録するあまり、教育的な指導を超えた部分があった」
とおっしゃるんでしょうね。でも、実際には管理職としての自分の立場を守るあまり、教育者としての視点を忘れているんじゃありませんか。日本では「決闘罪」(明治二十二年法律第三十四号)があるので、これは犯罪教育になります。
 そして教育委員会も「処分するほどでない」と事件のもみ消しを図っている。隠蔽と口裏合わせと言い逃れ。日本型犯罪の3点セットを教育現場の幹部が率先して「教えて」いるわけで、世間を騒がせている耐震偽装問題のルーツは案外こういうところにあるのでないかという気がします。いわゆる”グル”の構造と舌先三寸の責任逃れ。

(文中の人名は仮称ですが、ストーリーは報道に基づいています)


NHK受信料不払い者は「観覧」を拒否

2005-12-13 10:00:13 | 迷言・妄言
 あれはあれでいいのかねぇ~。
 受信料不払いに苦しむNHKが不払い者に対する”制裁措置”に乗り出した。
 「思い出のメロディー」や「紅白歌合戦」などの公開番組に、受信料を払っていない人は観覧できない措置を取るという。読売新聞など。たぶん、入場券を申し込んだときに住所と氏名を書く。その際にNHKのデーターベースと照合してあんたはダメですよと通知を出すのだろう。強引に見ようとしても警備員につまみ出されるだけだ。

 確かに現在の法律では、受信料不払いだけでは逮捕することも出来ないし、財産の差し押さえも出来ない。残る手段は選択的なイヤガラセで不払い者を精神的に追い込むしかないということだろう。いわば一種の「公民権停止」措置のようなものだ。
 ただ、テレビを持っていない人が「のど自慢」公開放送を見たいと思ったらどうだろう。この人にも「制裁」を課すのは正当性を欠くという気もする。
 
 現在のNHKは事業収入が約6800億円(2005年度)。在日米軍の日本側負担経費とほぼ等しいという。まさにNHK軍だ。もっと横綱相撲を期待したのだが、なにかずいぶんセコイやり方だ。もちろんこれはほんの手始めで、今後次々と新たなイヤガラセ策が登場するはずだが。

 この「制裁」の考え方は、いわゆる「受益者負担」理論だ。金を払わないやつには利益を与えるな。しかしあまりにも「受信者」ばかりに目を奪われすぎているのでないか。受信者でも自らブラウン管(古い)に登場することで「利益」を得ている人がいる。イヤガラセで訴えるならこういう人たちから「攻撃」をした方が効果的だろう。
 NHKに出演する歌手や俳優。まあこういう人たちは払っているに違いない。というかそうでない人の出演をNHKが許可することはない。

 アマやプロのスポーツ選手はどうだろう。「NHK杯」と付く選手権には不払い選手は出場権を奪われる。そうでない競技でもNHKが中継する場合は、不払い選手にはボカシをかけてまた名前も呼ばないというイヤガラセは可能だ。「おーっと”ピー音”選手トップに踊りでました。この選手は受信料不払いですのでモザイクで放送します。”ピー音”選手が受信料を払えばモザイクは解除されます。振込口座番号は・・です。家族の方急いでください」というように。一般視聴者に与える心理的効果(というか脅迫だ)は大きい。

 政治家でも「未納」の人間はいるはずだ。ニュース報道では「NHK受信料未納のXX大臣が今日の閣議で・・」と毎回「肩書き」をつけるというのも手だ。結果、頭を丸めて四国お遍路の旅に出る政治家がいてもそれは未納から出た錆、受信料から出た恥というものだ。

 一方一般受信者に対するイヤガラセとしては、デジタル放送になるのをきっかけにスクランブルをかけ、「ふっふふ、どうだ何も見えまい。受信料を払わなければお前のテレビは永久にNHKを見ることはできんのだ」とする案も検討されているそうだ。しかしこれでは公共放送として、例えば災害情報を得られなくなる人が出てくる。
 だからこの場合には「欠如」の不利益でなく、不払い者のテレビには不快な雑音が出るようにすればいい。「ハーハッハッハ、苦しいか。これもお前が受信料を払わないからだ。口座振替の手続きをすればすぐに楽になれるぞ」という具合に。

 あーイヤだイヤだ、どうも人間性悪説に立つととにかく「罰」を与えようという方向ばかりに走ってしまう。今後NHKもこの路線に進むに違いないが、もう一度NHKは放送局であるという原点に立ち返って、正面からの訴えは出来ないものか。
 連続ドラマ「受信料の幸せ」。NHK受信料を前払いして幸せに暮らす山田一家のとなりに引っ越してきた不払いの悪田一家。悪田一家には次々と不幸が訪れ家庭は崩壊していくが、山田一家ではお父さんがのど自慢で優勝し・・・・てな勧善懲悪ドラマはいかがですか。


有名占い師、TVで養鶏業攻撃発言:フジ謝罪へ

2005-12-10 12:14:00 | 迷言・妄言

 「あんた地獄に落ちるわよ」という決め台詞で有名な占い師HK氏の発言が養鶏業界の反発を呼び、結局テレビ局側が謝罪することになった。
 発端は11月11日放送のフジテレビのバラエティー番組「幸せって何だっけ」で、HK氏が「鶏卵の価格の安さを批判し、養鶏場では24時間明かりをつけ1日に2、3個も卵を産ませている▽ほとんどが薬でつくられている、などと発言した。」(毎日新聞

 これに対し、日本養鶏協会は抗議文と質問状を送り、HK氏の主張に反論。詳細は原文を見ていただきたいが、「(1)鶏を眠らせていないわけではなく、24時間という表現はおかしい(2)1日あたりの1羽の産卵数は1個で、3個も産卵することはない(3)飼料は薬事法で定められた基準を守っている」(同上)というものだ。

 このHK氏は最近よくテレビで見かける。なんでも占い本の売上部数でギネスに掲載されているそうだ。ただテレビで重用されているのは、そのあまり上品とはいいかねる挑発的な言葉にゲストの芸能人の表情が変わるのが面白く、視聴率が稼げるからのようだ。フジテレビはこの番組の紹介で彼女を「今や”視聴率の女王”」と持ち上げている。

 普段は芸能人をいじって視聴率を稼いでいるのだが、暴走して養鶏業という「素人さん」攻撃に走ってしまった。ただでさえ最近は鳥インフルエンザで苦しい状況にある養鶏業を、まさに”大殺界”に送り込むかのような発言に、「公共性が極めて高い電波を使用し、かつ影響力も大きい全国ネットワークを有する御社が何故に科学技術論的にもあり得ない内容で鶏卵への不信を誘発する報道を行ったことについて強く抗議する」と養鶏協会は抗議している。

 この番組でHK氏はゲストでなくメインキャラクター。しかしいずれにしても生放送でないのだから、不適切な発言や事実関係については放送前にチェックできるはず。個人名や猥褻表現には不必要なほど”ピー”を入れるテレビ局が、業界全体に打撃を与える発言をノーチェックで通したところに体質が現れている。

 この番組(「幸せって何だっけ~カズカズの宝話~」)のフジテレビのリリースによると、「“幸せってなんだろう?”をテーマに、いろいろな情報を提供していく番組」なので、面白可笑しければOKでなく、その「提供」される「情報」には念入りなチェックが必要なはずだ。ここでもプロフェッショナリズムの不在が明からだ。

 フジテレビは今後番組内で謝罪するという(毎日)。

 この「幸せって何だっけ」のスタッフにあなたの「幸せって何?」と聞けば、「視聴率を上げて給料が上がること」と答えるだろう。それはいいのだが、番組の「幸せ」が他人の「幸せ」と衝突したときにどうするか。例えばホリエモンの「幸せ」がフジテレビの「幸せ」と衝突しそうになったときにフジテレビは必死で抗議したはずだ。「心にしみいるお話をたくさん提供できるよう頑張っていきたい」と制作者は語っていたが、心が寒々とする弱い者イジメの「お話」を実演することになった。

レコード大賞欲しくない:竹中平蔵

2005-12-03 10:07:38 | 迷言・妄言
 知りませんでした竹中平蔵総務大臣・郵政民営化担当大臣が「歌手」だったとは。しかも、レコード大賞など欲しくない、「独自の音楽活動をしたい」という孤高の超大物。

 読売新聞によると、12月2日の記者会見でカミングアウトして、「多くの歌手はレコード大賞を取りたいかもしれないが、独自の音楽活動をしたい歌手もいる。私はその部類だ」と発言したというのです。
 「自民党の武部幹事長から「ポスト小泉」候補の一人に挙げられたことへの感想を聞かれ、こう答えた。経済の専門家として改革推進に徹し、次期首相には関心がないことを強調したかったようだ」と読売は余計なことを書いていますが、とにかくノミネートされる前に辞退を表明するのは大物だけができることです。

 竹中氏の「歌手活動」について調べたいと「竹中平蔵公式ウエブサイト」を見てみましたが、「平蔵がうごく」、「平蔵がかたる」というコーナはあるのですが、「平蔵がうたう」コーナは残念ながらありません。能ある鷹は爪を隠すというやつですね。

 それでも竹中大臣の持ち歌は知りたいですよね。ひょっとしたらあの「刺客」の歌、子連れ狼のテーマソング「ちゃ~んの仕事は刺客ぞ~な」というのはそれではないでしょうか?

 竹中大臣に対しては、「アメリカの意向を”ヘイヘイゾー”と実行しているだけの経済音痴だ」という一部の批判も確かに耳にします。しかしこれほどの"大物歌手”が「音痴」であるはずはありません。世間の中傷にめげずに「独自の音楽活動」を続けていってもらいたいものです。

Re:「星の位置が悪い」から記者会見しない:タイ首相

2005-12-01 23:13:47 | 迷言・妄言
こちらの記事の続報です)

 「星の位置が悪いから」記者会見お断りと言っていたタイのタクシン首相。先の読売新聞の報道では「水星の位置がよくない」といっていたのですが、新しい毎日新聞の記事では「火星の位置が悪いので年内はやらない」と言ったことになっています。
 何のことはないすべての星がタクシンに敵対しているということです。

 上の毎日新聞記事は「独裁色を強める首相に対し、知識層などを中心に嫌悪感が強まっていることは間違いない」というタイの政治学者の意見を紹介しています。

 「かつては60%台の支持率を誇っていたタクシン首相だがここ数カ月は40~50%台に低迷している。」不調時の小泉政権と同じ程度ですからそれほど悲観するような数字ではないような気がしますが、火星も水星も味方してくれないようでは確かに先行き不安です。

 ホントに政治の世界は一寸先は闇です。小泉首相だって今はたぶん火星も水星も味方しているのでしょうけど、「独裁色を強める首相に対し」不満層が爆発すると、一瞬にして運命が暗転して金星や冥王星、いや小惑星イトカワまでもいつ敵に回るかもしれない。ポジとネガは一瞬にして入れ替わる。

「アイちゃんが好きだ!」運転士奇声あげ緊急停車

2005-12-01 16:01:22 | 迷言・妄言
 ラモス瑠偉氏でなくても「冗談じゃないよ!」と叫びたくなるニュース。

 30日夜、東京の地下鉄(最近はメトロというのか)の運転士が運転中大声で「アイちゃんが好きだああぁ~などと叫び始めた。ビックリしたのは1両目でのこの奇声を聞いた乗客。次の駅で停車したときにホームに降りて非常停止ボタンを押したという。(朝日)

 これはファインプレーと言うか当然の行動です。運転中におかしくなってしまった。このままでは最悪の事態・・・と考えるのが常識です。特に最近は。

 しかし驚きは、東京メトロの対応。早速運転士のところに駆けつけたが、「うん、別にキレてないっすよ。運転士がキレたら大変だ。第一この駅には運転士がいないから」そのままこの「アイちゃん」運転士にもう5駅運転させた

 <東京メトロによると、運転士は「独り言が大きくなってしまった」と話しているという>(朝日)。会社によると「運転士は独り言が多いタイプ」(毎日)というが、この瞬間には「アイちゃん」のことを考えて運転がおろそかになっていたことだけは間違いない。乗客は「さらに5駅」も付き合わされてヒヤヒヤだっただろう。この運転士が今後どんな処分を受けるのか、記事は触れていない。

 ちなみにこの「アイちゃん」が、ゴルフか卓球かテニスかバレーか水泳かはたまたサルなのか、自分の恋人なのか、この点についても謎の解明が待たれる。

 もうひとつちなみに、もし運転士がマジでおかしくなってどんどんスピードを上げ始めたらだけど、東京メトロにはATC(Automatic Train Control)自動速度制御装置があるためブレーキがかかるはず。とは言え、何が起こるか分からない。この奇声を聞いた乗客の寿命は確実に縮まったのだから、今後の対応は必要だ。