白い家のある風景

モダニズム・アールデコ 趣味の(仕事の)建築デザイン周辺を逍遥します

復興小学校

2010-08-22 | 建築・住宅

 復興小学校という言葉をご存知だろうか。関東大震災後復興のために建てられた小学校の校舎のことで、ほとんどは戦争を生き延びたが、その後多くは建替えられてしまっている。この写真は、現存する復興小学校のひとつ常盤小学校の入り口だ。 変わった形の窓は、当時ヨーロッパで流行していた「表現派」の影響と言われる。表現派は文字どおり建築家個人の表現性をを重視したので、本来建築家ごとにデザインのスタイルは違うわけで、表現派のスタイルというのも少しおかしい気もするのだが。
 理屈はともかく、この部分を見てもこの建物のデザインに力が入っているのがわかるし、事実すばらしい建物なのだ。先日見学する機会が在り、その魅力を再認識した。

 

 ところが、この常盤小学校に勝るとも劣らない優れたデザインの復興小学校である明石小学校が取り壊しの危機に瀕している。耐震性も全く問題なく、地元住民、PTA、建築史研究者など多くの人が保存を望んでいるのに、中央区は税金を使ってこの世界遺産級の文化財を壊そうとしている。これは犯罪ではないのか。
 関心のある方は是非、保存を望む会のホームページをご覧になっていただきたい。


氷川丸3

2010-08-16 | アールデコ

 この扉も氷川丸。曲線的だけどアール・ヌーボーよりあっさりとして、やはりアール・デコ的デザイン。氷川丸のインテリアは主にマーク・シモンというフランスのデザイナーがてがけたそうだが、各部分がどれも魅力的だ。

 敗戦記念日も過ぎたが、氷川丸がこうして保存されてきたのも、戦争を生き残った数少ない日本商船の一隻で、戦後も引き揚げ事業に携わった後、北米航路に復帰して活躍した昭和のシンボル的な船だからだ。
 戦争中は、ほとんどの商船が沈められ、船員の死亡率は海軍の2倍、陸軍の1.5倍の40%以上だったとか。つまり二人にひとりが戦没している。中には乗っていた船が沈められ何日も漂流の末救助、また乗船して撃沈、漂流、救助を繰り返し、3度目にとうとう行方不明という悲惨な例もあったらしい。しかも、当時船員は軍人から牛馬以下に扱われたそうで、だから戦後になってから日本の商船乗りは海上で軍艦(自衛艦)に会っても挨拶もしない、と言われていた。
 観音崎に戦没船員の慰霊碑が建っている。今こうした船員達に思いをはせる人がどれだけ居るだろう。
 我々は戦争を知らない子供たちと言われたけど、逆に大人イコール戦争を知ってる人だったから、戦争の話は事あるごとに聞かされたし、戦争をテーマにした長崎源之助の著作など児童文学がたくさんあった。長崎源之助など今の子供にも読んでもらいたいな、と思っていたら、神奈川近代文学館でちょうど長崎源之助展を開催している。9月26日までだそうです。
 


氷川丸2

2010-08-13 | デザイン

 写真は氷川丸のプロムナードデッキと機関室。
プロムナードデッキ前部は、このように風除けのため囲われている。窓サッシは真鍮で、最近の客船のアルミサッシとは違う重量感がある。
リベット留めした鉄骨の梁のリズムと木製の床が心地よい空間をつくっている。
どちらも「第一機械時代」の美学に満ちて、公室のアール・デコ装飾を含め、正に1930年代デザインのエッセンスを感じることができる。

 

 


氷川丸

2010-08-11 | デザイン

 この昭和初期を思わせる子供のレリーフがある部屋は、横浜に保存されている氷川丸の子供室だ。氷川丸は前にも書いたが、アールデコのインテリアが残る貴重な文化産業遺産で、とても安い入場料で公開されているのは嬉しい。

氷川丸は1930年就航、日本-シアトル航路の比較的地味な貨客船だったが、太平洋戦争中は病院船になっていたので戦没を免れた。戦前はもっと豪華な客船も多数あったのだが、ことごとく戦争で「海の藻屑」になってしまった。氷川丸を見ると、逆に失ったものの大きさがわかる。
 とにかくせっかく郵船が買い取り公開をしたのだから、多くの人が見に来るといいなと思っています。