東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

山下恒夫,『大黒屋光太夫』,岩波新書,2004

2010-05-12 19:05:38 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
『大黒屋光太夫史料集』全4巻の編纂など漂流史料一筋の著者による決定版。
全4巻もの史料におぼれることなく、あっさりと新書一冊にまとめてくれた。ありがたい。こういう伝記は、長くしようとすればはてしなく長くなるもので、著者にとってはライフ・ワークであっても、一般読者にとっては読む気がしないものになりがちである。

記述は論文調ではなく、小説に近いくらいの語り口である。1ページの記述に何日、何か月もの史料渉猟をして書かれたと思われる。

さらに読んでいて気持ちいいのは、著者があまり熱くなっていないこと。この種の伝記では、感動を強調されるとしらけてしまう。

読みどころはいろいろあるが、

江戸時代の家族、身分、流通制度の概略。たとえば、〈大黒屋光太夫〉というのは、本名ではなく、屋号のようなものなんですね。そのほか、婚姻、過去帳など、しろうとが間違いがちな史料を正しく読解してくれる。

江戸時代後期の造船技術、航海の実際。迫真にせまる漂流の描写。アリュート人、ロシア人との遭遇、越冬の記録など。

享保から寛永への幕府経済改革。蝦夷地開発の実態。『なまこの眼』で描かれたような日本列島からシベリア、カラフトの経済。ロシアの東方進出の実態。

『赤蝦夷風説書』にみられるような、幕府の外交対策。そしてロシアをはじめ各国の東アジア対策。ペテルブルグで、イギリスの情報収集活動があったなんて、当然といえば当然だが、こういう文脈で書かれるとおお!と思う。オランダ人も当然、ロシアにいる。

漂流民の語りと学者の記録のへだたり。光太郎ら漂流民の実感がほんとうに伝わっていたのか。あるいは、客観的な事実が記録されていたのか、という問題。あるいは、光太郎のホラ話的な部分もあるのじゃないか、という疑い。特にペテルブルグ滞在中の話など。

帰国後、光太郎は幕府に帰郷を禁じられ、幽閉状態のうちに死亡、というのが従来のみかた。
この帰国後の話も、著者の執念により、かなり修正されたようだ。けっこう自由な生活だったのだ。