MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



おいらが東京に住み始めたのは1990年の3月末。

 

高校1年生が終わるタイミングで親の転勤で転校させられた。禄に受験もしたことのない、正確に言えば二親とも私立の一貫校でエスカレーター式で上に上がっただけなので、受験が何たるか、知りもしないので、あれだけ苦労して高校受験を経た結果をいとも簡単に1年も経たないうちに瓦解させ、再び倍率が20倍以上の転校試験を受けさせられ、東京に移住させられるハメに。。ハッキリ言って、一生恨む。そう思いながら東京に住み始めた。今でも変わらない。恨みは続いている。30年経っても、である。あの当時の愛知県の公立高校の受験がどれだけ大変だったか。。。団塊ジュニア世代の我々は何をするにしても競争。いや、戦争であった。受験戦争と言う言葉があったくらいである。

 

何度でも言うが、そんな今の少子化とは全く異なる時代に、2年連続して受験戦争をさせられ、東京に。

 

突然の移住に際して、7校×2人と言う狭き門しか転校希望学生を受け入れず。。だが、受験日程が重なる為、5校しか受けられない。転校試験受験機会はたったの5回。そんな小さな枠に250人から300人くらいが挑んで争うのだからまぁ大変なこと。。結果的にはそれぞれの高校が5人から6人程度合格させたらしいが、一番偏差値の高かった所はホントに2人のみだった。選ぶ余地もなく、当時は都立も学区があったが、越境前提。だから、自宅のある三鷹から通うしかなく。結果、おいらは3つの高校に合格をした為に、他の人の枠を奪ったんだな、と後から思った。

 

然し、必死。

 

落ちたら何処にも行きようがない。。。かなり人生狂わされていたが、これで行き場が無くなったら何の為に生きてきたのか、高校1年生で人生の修羅場を潜らされていて、他人の人生の行く末迄考えられ無かったと今頃反省している。あの時落ちた200数十人はどうしたのだろうか、、、

 

そして都立の高校に行ったのだが、渋谷と恵比寿の間くらいの場所に通うことに。

 

今だと遠いな、と思うが、当時は高校生。制服もない気ままな高校だったからスニーカーとか何履いても当然自由。だから原宿なんぞ余裕の徒歩圏内。一月に一度くらい行ってたかな。タレントショップの全盛期。ねるとんのショップだとか、梅宮辰夫のショップ。のりピーとかね。片岡鶴太郎とかもあった気がする。竹下通りはそんなお店で溢れ返っていたが、おいらはそんなものには目もくれず、当時F1に参戦していたレイトンハウスと言うteamのショップにはよく行っていた。バイトなどしてはいけないと言うのが当たり前の時代で、小遣いを貯めてただけだから、F1のグッズなど高くて買えなかったなぁ。

 

見てるだけ、と言う当時あったCMのまんまで見るだけで原宿駅から山手線を乗って帰宅していた。

 

なんか、原宿には嫌な思い出が、高校時代には多かった。。

 

 

そんな駅舎が2020年の東京オリンピックに併せて解体されるのだとか。現在の駅舎は調べたら1924年に建てられたそうな。古いものを残すと言う発想が乏しい日本人の典型と言えばそれまでだが、さりとて1日7万人の平均の乗降客数に耐えられるか、と言う事もあろうか。いや、70万人を超える新宿や40万人の渋谷に比べたら大したことは無いとも言える。現在のホームは島式で、内回りと外回りが対面式だが、単独で使うらしい。原宿駅の改築はそこがメインなのではないかとも、思う。つまり、駅舎は関係ないのでは?と。然し、理由を付けて取り壊してゼネコンにお金を流したがるのが公務員やら公共交通機関。。。

 

ノスタルジックに感傷に浸るような国民性はもう無いのだろう。

 

それを機に、転校させられたことも忘れるか...。いや、忘れないな。原宿駅は人生にあまり関係ないが、自分の人生を狂わされたことは一生続くからな。。。

 



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