研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

教育論への誘惑(1)

2007-03-07 11:42:12 | Weblog
古典に属する思想家の作品などで、その人物が理想の教育について語り始めると、だいたい思考が行き詰まりに入ったなというのが分かる。理想とする国家論を実行にうつそうとしたり、現状の度し難さについての不満を解決しようと考えると、最後は「教育」という万能薬を必要とするようになる。

政治権力を持つ人々も基本的にはそうで、中曽根内閣の末期のように教育に手をつけ始めると、いよいよ手詰まりということである。ただ、政治的には教育改革というのは使いやすい手段で、要するに手っ取り早く業績を残せる割には、そのマイナス効果が具現化するのはずいぶん先のことになるので、責任を問われなくてすむのである。仕事をやったという証拠はのこせるのだが、その帰結がでるのは誰の責任か分からなくなるくらい先のことになるのだから。

もちろん教育を主体とした理想国家建設は上手く行かない。その理由はよく分からないが、たぶん万能薬というのはないのだろうとしか言いようがない。無いものを主題にし始めたら、とりあえずは失敗することになっている。

プラトンの『国家』とマキャベリ(ちなみにマキャヴェッリと表記するのは止めることにした)の『リヴィウス論』は、結局、リパブリックを確立・維持するのはその構成員の公共精神しかないという結論に至ってしまい、最後は教育論みたいな終わり方をする。マキャベリの有名な“virtue”という概念は、もともとはリパブリックの「市民たるべき人々」に必要なものだった。これを涵養するにはと考えると公民教育ということになる。ところが「公民教育なんて、結局何も言っていないのと同じなのでは・・・」と気づいた彼は『君主論』を書いた。ここで市民に求められる“virtue”を、庶民から君主に求めることで現実世界への力をもった。公民教育を前提に哲人王の理想を求めたプラトンの国家論は結局哲学上の概念に止まったが、公民教育を棚上げして、君主に期待したマキャベリは“virtue”という概念を政治思想の中に生き残らせた。

ちなみに“virtue”というのは日本語では「徳」と訳される。“virtue”とは神秘的な概念で、それは“fortune”を操る能力であるという。“fortune”とはもちろん「運、運命」である。マキャベリによると、「運命」をつかさどるのは「女神」なんだそうだ。女神はもちろん女であるので、気まぐれで交渉や説得の対象ではない。この女神を思い通りに動かすには、魅力と腕力でねじ伏せる必要があって、この力が“virtue”なわけである。塩野七生氏は、この“virtue”を「力量」と訳しているが、これは力みすぎだし“virtue”のもつ神秘性を表現できていない。私は「徳」がいいと思う。

教育から「公民」を取り除いた教育論ならば意味のある営みとなりうる場合もある。
実はジョン・ロックも『教育論』を書いている。特に印象的なのは彼が父親について触れた箇所で、なんでもロックの父親はとてつもなく厳しく恐ろしかったらしい。ところがロックが成人すると「本日から我々は対等である」と宣言し、以後息子を「完全に」友人として遇したそうだ。彼はこれを非常に感動的に描いている。しかし、彼の経験したプロテスタント式の教育方法は、万人には適さない。たまたまロックが人類最優秀だからうまくいっただけで、普通なら人格に破綻をきたすような教育内容であり、実際ロックも少し狂っている。どうもプロテスタント教育には根本的に人間性を欠いたものがあるように思う。

ジャン・ジャック・ルソーの場合は、なんといっても『エミール』であろう。そのあまりの面白さに、かのカントが時を忘れ、日課の散歩を忘れたほどの作品である。「カントが日課の散歩を忘れる」というのは大事件である。自分の人生と生理の何もかもを支配し、死の床で「これでよし」と言って死んだ男である。確かにとてつもなく面白い本で、ひとたび読み始めたら、しばらくは頭の中が『エミール』で一杯になることは間違いない。私もそうだった。あの書物は人間業ではない。神か悪魔かどっちかが宿って書かせたのだろう。

『エミール』の前提は、公民教育をルソーが完全に否定していることで、ルソーによれば、「人間は、祖国の存在によって人間になる」のだが、「しかし、もはや世界には祖国となるべき国家など存在していない。それゆえ、個人教育によって根本的に人間を作らなければならない」という動機から書いたという。ちなみに『ルソー自伝(ルソーはジャン・ジャックをこう語る)』を読むと、どうやら『エミール』とはルソー自身の育てられ方と反対のことを書いたものだというのが分かる。自伝を読むと、彼はよほど自分の周囲の環境を恨んでいて、だから『エミール』は、自分のような悲惨な人間をつくらない方法はこうなのだという内容になっている。

教育論というのはやるせない。問題なく成長した人間は教育論に興味を抱かないので、教育論を書こうと思わないか、自分のようにやれという話で終わってしまう。結局、教育論に興味を示すのは、通常の人間から見て、少しヘンな人たちばかりになる。彼らが教育それ自体を論じると、ルサンチマンとカタルシスの塊になるので、最後は人々を辟易とさせて終わる。

ところがこの根本的に人間を作るという個人的作業を国家レベルで推進しようという事業が起こった。フランス革命における公民教育である。