研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

「副大統領」ジョン・アダムズ

2005-10-29 04:12:39 | Weblog
パリ条約により独立を成し遂げたアメリカ諸邦の代表者たちは、ひそかにフィラデルフィアに集まり、「連邦憲法」の作成に取り掛かった。アメリカ憲法は民主的に作られたものではない。1787年の秘密会議であっというまに仕上げられたものである。この秘密会議の議長として祭り上げられたのが、ワシントンとフランクリンだった。秘密会議は、この二人のカリスマによって、正統性を持つことになった。もっともワシントンは、詳しい法律論は分からなかったし、フランクリンは年を取りすぎていた。会議そのものは、マディソンやハミルトンらの世代が主導した。秘密会議であるだけに正式な議事録は存在しないが、後世の我々は、マディソンが残した詳細なメモを通して議事内容を知ることができる。それを読むと、実に凄い議論がなされていたのに驚く。古典古代のギリシャ・ローマの歴史とその政治理論、ヨーロッパ諸国の国家論、イタリア・ドイツ・スイス・オランダの連邦制度の歴史などを参加者たちは参考文献なしで引用しぶつけ合っている。ちょっと異様な教養である。アメリカ革命史の面白さは、このへんに理由があるのだろう。ちなみに、この会議には、ジョン・アダムズとトマス・ジェファソンは参加していない。アダムズは駐英公使として、ジェファソンは駐仏公使としてともに外国にいた。

アメリカ合衆国の建国者たちを悩ませた最初の問題は、ヨーロッパにおける君主に相当する存在を共和制政府においてはどのように定めるかということであった。古典古代はいざ知らず、記憶に明らかな時代において、共和制政府というものを西欧社会はもっていなかったからである。否、イタリアには存在したが、あれは建国の父たちの認識では単なるアナキーであった。「イタリアみたいになってはいけない」というのが共通認識であった。行政権力はしっかりしていなくてはいけない。では、ワシントンを国王にしてはどうか。しかし、革命政権の性質上、これは政治的に難しかったし、ワシントンが強硬に拒絶した。そこで、さしあたりワシントンを初代大統領に据えることで、まずは連邦政府をスタートさせて、おいおい調整していくことにした。場合によっては、ワシントンに4年ごとに再選を続けてもらい、事実上の終身君主にしてもよい。選挙侯が君主を選ぶ慣例はヨーロッパにもある。

こうして連邦政府は、初代大統領をワシントンに、初代副大統領をジョン・アダムズにしてスタートした。これがそのままアメリカ革命政権の序列であった。ワシントンとアダムズという正副のトップが、アメリカ革命の最大の貢献者と見なされており、この二人の影響力に抗し得る者は、この時点のアメリカにはいなかったのである。

ところが、ジョン・アダムズの歴史における不振はここから始まる。それは、「副大統領」という不思議な職制にあった。副大統領は、今でも少し不思議な職である。非常な高位であり、ある種の「上がり」のポストであるが、影響力は時代によって様々で、革新主義の時代には「閑職」とみなされたり、またクリントン政権期のゴアのように、外交において重要な役割を担うこともあり、また現在のブッシュ政権におけるチェイニーのように、ある種の首相のような役割を担うこともある。面白いのは、内閣の一員でありながら、上院議長という立法府の長であるということである。ワシントンは、「権力分立」を額面どおりにまもり、なんと副大統領アダムズを重要閣議に参加させなかった。では、上院でなにをするかというと、「議長」なわけで、彼の本領である演説の機会はない。行政と弁舌という、アダムズを革命の第一人者に押し上げた本領が封じられてみると、彼のカリスマは急速に減退していった。残念ながら彼の風采はよくなかったのである。丸々とした禿げた五十男が不満げに議長席に座っている。アダムズは書簡で、「副大統領とは、人類が考えた中で最も無意味なポストだ」とこぼしている。

アダムズと反対に、副大統領がサマになっていたのはジェファソンであろう。彼の本領は、弁舌ではなく、「沈黙」であった。ジェファソンという人は、内気な人で、文筆においては雄弁だが、演説は好きではなかった。独立戦争前の大陸会議においても、彼はまるで何もしゃべらなかった。そのあまりの沈黙ぶりを見てアダムズは、「ジェファソン氏は、なぜあんなに何もしゃべらないのだ?」と心底不思議がっていた。彼は大統領になったときには、教書を議会で読むのも止めてしまった。教書は議会に郵送してそれきりにしてしまった。ただ、その彼の沈黙というのが、実になんとも凄いのである。深沈と沈黙する彼の姿はなんとも神々しかったらしい。アダムズ婦人のアビゲイルは、「彼は、神のように見えなくもない」と語っている。黙っているだけで、影響力がかってについてくるのである。議長席で沈黙する彼の姿は、まるで神のようだったらしい。

実は、連邦憲法制定会議の議事録を読んでも、この「副大統領」についての議論がよく分からないのである。すっと流されている。そして何事もなかったように憲法に記されている。これはどういうことであろうか。大統領については、非常に厳密な議論がなされているのに、副大統領についてはつっこんだ議論の形跡がない。ということは、当時の人々にとっては、何か議論するまでもないある種の常識があったのではないかと私は思っている。

建国者たちは、君主制における君主相当の職制として大統領を置いた。ということは、副大統領に相当する職制とは君主制においては何だろうかと考えればよい。それは国璽尚書である。国璽尚書とは、国王の代理人として貴族院を主催し、国王の意思と貴族たちの意思をつなぐ存在である。立法府に所属する大臣であり、危急の際には国王の代理を務める。まさに副大統領そのものではないか。イギリス連邦帝国に所属していた人々にとっては、大統領という大問題さえかたづけば、副大統領の設置は当然の付随事項だったのだろう。

副大統領アダムズは、実に気の毒な立場だった。国璽尚書相当職といっても、アメリカはやはり君主制の国ではないのである。そもそもワシントンが君主とみなされることを好まなかった。しかし、アダムズはワシントンの名を呼ばなければならない。さあ、なんと呼ぶかである。‶Mr. President″。現代ではこれで確立している。しかし、第一議会においては、まだなんと呼ぶかは決まってなかったのである。そもそも「プレジデント」という職名自体が、ある種の「革命精神」の表れで、当時は「議長さん」みたいな軽さだった。君主制と戦った彼らとしては、重々しい名前にするのは、政治的に難しかったのである。しかし、それは断じて君主相当職だった。アダムズはおもわず、大統領をなんと呼ぶかという動議を行った。これがいけなかった。アダムズの案は、‶His Highness″または‶His Majesty″だったのである。議場は騒然とした。

誰もこんなこと考えたことがなかったのである。しかし、‶His Majesty″はあんまりである。すると、アメリカ革命以前にはあまり有力ではなかった議員たちから、次のような野次が飛んだ。「アダムズ閣下!すると、あなたを呼ぶときには、Duke of Massachusettsとすべきですか?」。議場は笑いに包まれた。「いや、The Roundity(太鼓腹閣下)ではいかが?」収集がつかなくなった。

こうして、アナクロニックな革命をへて、非民主的な手続きで作られた憲法に基づいて始められたアメリカの政治体制は、民主的な風土によって民主的に運営されていくことになった。そして、革命家ジョン・アダムズは、時代遅れの貴族主義者として忘れられた人物として人々の記憶に残ることになった。

『フランクリン自伝』の私的メモ

2005-10-27 04:18:37 | Weblog
『フランクリン自伝』と言えば、岩波文庫の赤帯版がメジャーだと思うが、旺文社版でもあるのをご存知だろうか。翻訳が鶴見俊輔で、解説が小田実という面白すぎるヴァージョンである。解説の中で小田実が、フランクリンを批判している。彼の「13の徳」の戒律を指して、「こういうことをやること自体が、傲慢である。まるでベトナムに戦争を仕掛けたアメリカそのものだ」とか言っている。私が最初に『自伝』に出会ったのは、飯場時代で(私は大学に入る前に2年ほど下層労働をやっていた)、あのころは研究の対象ではなく、ある種の聖書に出会ったような気分だった。

「勤勉に働き倹約しなさい。そうすればお金がたまります」
「お金があれば、悪に手を染める危険がなくなります」
「正直に生きなさい。そうすれば人から信用されます」
「人から信用されると、仕事が増えます。だからもっとお金持ちになれます」

何か間違っているかな?私なんかは、ど田舎の出身で、貧乏も経験しているので、まともに感動してしまったのだが、金の心配をしたことのないインテリには、かえって鼻につくようなのである。「ナイーヴ」なんだそうだ。インテリは一般的に左翼傾向があるが、彼らは「資本主義の精神」の権化であるフランクリンがあまり好きではないみたいである。そういえば、小田実って東大の仏文科だったような。帝国大学に進学する時点で、基本的に権威主義的な精神を持っているわけで、その権威主義空間の中でフランス文学などをやっていた人には、フランクリンは分からないのだろう。「弱い人々」の「声なき声」は想像できるが、その処方箋はフランクリンの人生訓ではないらしい。

大学院に入って印象的だったのは、『フランクリン自伝』とかサミュエル・スマイルズの『自助論』とか新渡戸稲造の『自警録』などを読んでいたとは、ちょっと恥ずかしくて言えない雰囲気だったことである。渡部昇一氏の世界だからね(笑)。大学院に進学するような人には、いいところの子が多くて、彼らにとっては、いろいろ鼻につくんだろう。賢いのも気の毒な面がある。

もっとも『フランクリン自伝』は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のおかげで特別な地位を与えられた。おかげで、フランクリンをヴェーバーで解釈する変な慣行が続いている。アラン・ブルームは『アメリカンマインドの終焉』でヴェーバーとニーチェのアメリカでの影響を語るなかで、「ドイツ人がアメリカを解釈すると必ずおかしくなる」と繰り返していた。ちょっと今は詳しい議論をするには私のヴェーバーの知識は低すぎるのでできないが、フランクリンから入った私の目から見ても、ヴェーバーのフランクリンは変に見える。ただ、羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』という著書に対する扱いを見るかぎり、当面黙っていたほうがいいようなので、黙っていよう。

フランクリンの自伝の熱心な読者にデイヴィッド・ヒュームがいた。この懐疑主義者が、『自伝』を熱心に読んでいたのが不思議な感じがするが、ヒュームはフランクリンを尊敬していた。もっとも現代の我々から見るとピンとこないが、同時代のフランクリンは、科学者としてかなりのランクの人だった。アイザック・ニュートンと生きていた時代がかぶっていたが、電気の研究においては、フランクリンはニュートン級の扱いを受けていたのである。そういうわけで、ヒュームから見てフランクリンは見上げる存在だった。

ここで思い至るのは、アメリカ革命におけるスコットランド・コネクションである。以前のエントリーで、ニュー・イングランド社会は、イングランド社会をそのまま複写したような社会だった側面があることを述べたが、ここには別の窓口があって、それがスコットランドだった。南部のアリストクラットは、少年時代を家庭教育で過ごし、大学はオックス・ブリッジかパリに行くのが多かったが、ニュー・イングランドは、ハーヴァードかスコットランドへの留学がけっこう多かった。ペンシルヴァニア出身の建国の父の一人であるベンジャミン・ラッシュもスコットランドで医学を修めている。ここで起こっていたスコットランド啓蒙の風は、ロンドンよりも先にアメリカに入っていた。

世界史を公平に見たとき、1776年における最も重要な出来事は、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』とアダム・スミスの『国富論』の出版だろう。フランクリンの自伝は、プロテスタンティズムの文脈よりも、この時代の道徳哲学で読むほうが自然なのである。で、スコットランド啓蒙とプロテスタンティズムにはあまり関係はないと思う。というか、プロテスタンティズムの成果ではないと思う。

ベンジャミン・フランクリンという人は、「政治学」で扱うのが難しくて、日本ではあまり研究者がいないんじゃないかと思う(お一人くらいかな?)。どうもヴェーバーで読むからおかしくなるんだと思うが、戦略としては、批判戦略よりもハナからヴェーバーを無視してフランクリンを扱うともっとよくできると思われる。スコットランド啓蒙研究は、最近になって本当によい研究が出てきている。昔は、本当にひどくて、アダム・スミスの『国富論』とスターリンの経済政策が根本では矛盾しないということを大真面目に論じる研究が普通にあった。笑い事ではなくて、要するに、ソビエトやマルクス主義に対する思想的配慮を表明しないと、アダム・スミスを扱えなかったということである。だから、ちょっと今では真面目に読めないものが膨大にある。そういうわけで、今はマルクス主義から抜け出したばかりの特有の極端さがあるが、もうしばらくすればバランスが取れるだろう。そうなれば、これまで「自助論」的な道徳本と、ヴェーバーの「プロ倫」の中で生き残ってきた日本の『フランクリン自伝』は、本格的なアメリカ革命史の資料としての価値を持つことになるだろう。

私個人としては、『自伝』をだれにも読ませたくない。アメリカ革命史研究をする上で、これほど凄い種本はあまりないと思う。18世紀アメリカ社会の構造、宗教動向、イギリス連邦帝国の構造を理解するうえでのヒントが満ち満ちている。

勝利したアナクロニズム(2・完)

2005-10-24 00:29:03 | Weblog
バークに言わせると、「イギリス国王は、議会内の国王なんだよ」という話である。立憲君主なのであって、両国にまたがる超越的存在ではない。それじゃ専制君主だという話になる。それに、「イギリス議会の議員というのは、国民代表であって地域代表じゃない」という話にもなる。アメリカの主張だと、議会は帝国全体の利益を話し合う場所ではなく、各地域の利益の分捕り合戦の場所になってしまう。どっちにしろ、「じゃあ、北アメリカ植民地で何議席必要か?」という話になると、例えば「北米大陸代表2名」で満足するか?という話しなわけで、もうどう考えても無理なのである。また、ヒュームに言わせると「『古来の国制』なんて、あんなの歴史的事実じゃないよ」ということになる。「いわゆる『古来の国制』や『サクソン・デモクラシー』なんてなかった。それは革命のイデオロギーに過ぎない。昔はもっと酷くて野蛮だったけど、だんだんマシになっていったというのが本当なのだ」というわけで、「あるべき過去」「戻るべき理想状態」など存在しないというのである。ただし、「今の状態が続けば、アメリカ植民地は慢性的に搾取される構造になるし、イギリスがこれに常に対応し続けなければならないのも大変だ。だから、アメリカ人が独立を求めるのは当然の心理だろう」と考えた。バークは、「『古来の国制』という理想は重要だが、まさに今それを実現しようとしているわけで、アメリカの言うことは、その歴史過程を最初からやり直せというようなものである。なぜそうなったのかといえば、要するに大西洋両岸のイギリス人世界の政治的伝統が違ってきたからだろう」というわけで、「では、独立して今度は仲良くこれまで通り貿易をしよう」ということになる。両者が完全に一致していたのは、「帝国連合」は、これはもう中世の物語で、今はまじめに論じるような話ではないということである。アナクロニズムだというわけである。要するにイギリスは近代主権国家への脱皮を開始していたのである。『古来の国制』という思想は、本国ですっかり時代遅れになっていた一方で、それが植民地という特殊な隔離空間に生活していたイギリス人社会に残っていたのである。

ただし、以上のような言い方で、「独立してもいいよ」と言われた側の気持ちはどんなだっただろう。
① 植民地人の英国国制論解釈は間違っている。
② 植民地人の英国史解釈は間違っている。
③ 植民地人の英国政治理論理解は間違っている。
でも、政治とは理詰めで論理整合的なら正しいというものではない。納得がいかないのであれば、納得がいかないなりの歴史的経験があるのだから、政治はその経験にそって運営されるべきであるとバークとヒュームは言うのである。フランス革命を全面否定した保守主義の開祖と、トーリー史観の大哲学者の両方に自分たちの論拠を否定された上で、独立を認められてしまったら、まったくアメリカ側の立場がないのである。これでは要するにゴロツキ行為を事後承認されたようなものだからである。以前のエントリーでも触れたが、ジョン・アダムズとトマス・ジェファソンは、このアメリカに同情的な二人の巨人の言葉は容認できなかった。この反論の内容は、これまでにも触れたし、これからも書くことだろう。この議論の過程を分析する営みが、「帝国」「植民地」「国民」「主権」「国家」といった近代になって英語に登場した言葉の理念的基礎を明らかにする営みだからである。これらの言葉は、実にアメリカ革命のプロセスで英語世界で練り上げられたのである。

アダムズとジェファソンの二人は、以後自分たちがこの世を去るまで、自分たちの英国史理解・英国国制理解が正しかったのだといい続ける。それは大統領職を退いたあとも、延々と続いた。裏を返せば、それほど苦しかったのだろう。アダムズとジェファソンは同じ日に死んだのだが、アダムズの最後の言葉は、「ジェファソンはまだ生きているか?」だった。ジェファソンは、その3時間前にモンティチェロの自宅で死んでいた。

このように、自分たちの歴史理解を正当化する作業は一生続くわけだが、さしあたり直近の問題として、自分たちの独立を正統化しなければならない。そこで採用されたのが、ジョン・ロックなわけである。これは結局、英国史から分離・独立を正統化できなかったということである。ロックという、非歴史的な超越理論を使うことで初めて反逆を革命に転化せざるを得なかった。その証拠に、独立後のアメリカ社会では急速にロックが読まれなくなる。ロックに代わって、独立直後のアメリカ読書会を支配したのはモンテスキューである。アメリカの、政府構成はロックではなくモンテスキューがそのモデルである。すなわち、「権力分立論」とは、「行政」・「司法」・「立法」の三権分立ではない。彼らの考えていた権力分立論とは、「一者」(国王)・「少数者」(貴族)・「多数者」(庶民)である。なんと「混合政体論」だったのである。政治におけるゴシック様式だったのである。合衆国憲法の構成をみるとそれは明らかで、彼らが当初意図していた権力分立は、大統領・上院・下院の権力分立である。(たぶん、日本でこれを最初に指摘したのは娑婆での私の論文だと思う)。

こうした中世的な「混合政体論」という権力分立論が、近代的な政府機能(行政・司法・立法)の三権分立論に転化したのは、社会階級がなかったアメリカの民主的風土の帰結である。当初、混合政体論で政府をつくったが、結局国民を三種類にわける根拠がなかったので、現実過程の中で権力分立観が変化したのである。

3000マイルの海の向こうのヨーロッパで進行していた政治理論の変化から取り残されていたアメリカには、中世的ゴシック政体をもって善き政体と理解する教養が残っていた。「古来の国制」に基づいてイギリスに抵抗をした彼らは、ロックの社会契約論という「離れ業」を使って分離・独立したのち、再び「ゴシック政体」の実現に戻ったのである。ところが、皮肉なことに彼らの社会は、「最初から近代的」だった。彼らの頭の中は中世的だったが、彼らの社会には中世はなかったのである。こうしてアメリカ合衆国は、三権分立論を世界で最初に実現した国家となった。

中世的思考様式で抵抗をしながら、近代的手段で独立した。中世的思考様式で政府をつくったつもりが、近代的社会環境によって、近代的政府をつくってしまった。実はアメリカ革命は、勝利してしまったアナクロニズムだった。

勝利したアナクロニズム(1)

2005-10-23 23:41:08 | Weblog
1760年、イギリスにおいてジョージ3世が即位した。このときのアメリカ植民地の人々の熱狂は、ちょっと滑稽なほどだった。すべての植民地議会では即位を祝す決議がなされ、すべての法廷にはジョージ3世の肖像画がはられ、すべての新聞は「賢明なる君主ジョージ3世」を熱烈に讃えた。デイヴィッド・ヒュームは、「彼らは国王をみたことがないのにねえ」と笑っている。しかし、北アメリカ大陸のすべての場所で、ジョージ3世の即位を慶ぶお祭りが毎日催されていた。その5年後に印紙税法闘争が始まり、15年後には独立が宣言されるのだから、本当に政治とは恐ろしいものだし、歴史とは本当に不思議なものだと思う。アメリカ植民地の人々は、国王が大好きだったし、イギリス人であることを誇りにしていたのだ。

基本的に北アメリカ植民地の社会は、イギリス社会を模倣したつくりになっていた。彼ら自身の社会には、イギリスにおけるような隔絶した貴族階級は存在していなかったが、それでも人々は、ジェントルマンを擬似貴族としてその発言に服し、植民地社会での出世の階梯も、結婚などの姻戚関係などが重視されていた。以前のエントリーにおけるジョン・アダムズの事例が一つの典型である。ブレイントリーの名門スミス家のアビゲイルを妻にすることで、田舎弁護士のジョンは、マサチューセッツ社会の名士となるきっかけを得た。特にニュー・イングランド社会で顕著だったのは、本国イギリスにおける有力者とのつながりであった。イングランドにおける名士とのつながりがあるということが、ニュー・イングランド地方における影響力に直結していた。また、北アメリカ植民地の各邦議会では、イギリス本国に自分たちの立場を代弁する国会議員を奉じていて、例えばエドマンド・バークなんかは、ニュー・ヨーク邦の代弁者となっていた。バークに自分たちの保護者になってほしいと依頼する手紙の恭しさは、なんとも微笑ましいものがあった。

1763年から1774年くらいまでの彼らの鬱屈の根拠は、こうしたイギリス人としての自分たちのアイデンティティが揺らいできたことに対する錯乱もあったのだと思われる。しかし、この段階までの彼らはあくまでイギリス臣民として怒っていたのである。父親に猛然とくってかかる子供みたいなもので、どのみち両者は親子だった。こう考えると、フレンチ・アンド・インディアン戦争(7年戦争)終結後のイギリス本国の判断ミスが巨大な植民地を失うことにつながったといわざるを得ないのだと思われる。

エドマンド・バークは、そもそものきっかけであった印紙税法に猛烈に反対していた。「イギリス帝国のコモン・ローはすでに160年の慣行によって確立している。彼らは、帝国の権威に服することに十分に満足しているのである。しかるに印紙税法は、こうした慣行を無視するものである。こういうことはやってはいけないのだ」と再三議会で発言している。印紙税法に対する反対闘争が激化したことで、イギリス商人たちも議会に法律の廃止を求める運動をするようになり、とうとう内閣が倒壊すると、ロッキンガム公爵を首班とする内閣が成立し、ロッキンガムの懐刀のバークが事態の収集に乗り出した。バークの案は、「印紙税法は即座に廃止する。ただし、権威の所在はあくまで国王とイギリス本国にあるということのみは確認する」というもので、「印紙税法廃止」とセットで「宣言法」を1766年に出した。「宣言法」とは、「印紙税法は、廃止するよ。だけどこれは君たちの主張を受け入れたから廃止したんじゃない。あくまでも政策的理由から廃止したんだ。帝国の法を定める権威はあくまでイギリス本国にあるということは押さえておくんだよ」という「宣言」である。だからといって、実際にその権力は行使しないことは了解ずみなわけで、ただ、最終権威の所在のみを確認しただけで、要は1763年以前の状態に戻ろうという話である。

しかし、もう遅かったのである。アメリカで成長し始めていたエリート層が政治に目覚めてしまっていた。バークのこの事態収集案は、アメリカの民衆を安心させ喜ばせたが、ジョン・アダムズは、「おい。『宣言法』ってなんだ?これは聞き捨てならんな」と言い出した。たしかにアダムズが正しいわけで、「宣言法」の内容が本当なら、今印紙税法が廃止されたところで、これから第二第三の印紙税法がいつでも生まれる可能性があるではないか。そしてそれは事実で、ロッキンガム内閣が倒れると、次の内閣ではやはり課税立法が次々と通ってしまうのである。そのたびに反対闘争が起こり、それを受けてイギリス本国は課税立法に修正を加えていくということが繰り返された。こういうやり取りをした場合、イギリスはさすがであって、まずどかんと大きく課税する。植民地人が狼狽し抵抗運動をすると、「そうかそうか」と言って、減額したり、5つの品目への間接税を4つも廃止してくれたりする。そうすると人間の心理とは面白いもので、その「寛大さ」に感謝してしまうのである。しかし、よくよく考えてみれば、もともとなかったはずの課税が着々と増えていく。要するに嬲られているわけで、横暴極まりない夫がたまに見せる優しい笑顔に、いつも殴られて怒鳴られている妻が、従順に従ってしまうような感じである。しかし、世の中、愚かな女ばかりではないことは当然で、怒り心頭に達した人々が大陸会議に参集し、本当に取り返しがつかない事態に向かっていくことになるわけである。

ここで印象深いのは、イギリス本国において最終的にアメリカの独立を容認した人々と、当のアメリカの運動家との間の意見の相違である。イギリス本国でアメリカ独立を容認した代表的人物として、デイヴィッド・ヒュームとエドマンド・バークを挙げるのが面白いと思う。トーリー史観をもつ歴史家・経験哲学者と、新ホイッグ史観をもつ保守主義者は、そろってアメリカ独立を「仕方ないなあ。独立させてやれ」と考えていた。両者はそれぞれのイギリス史観と政治観から同じ結論に達していた。一方、アメリカの革命家たちがもともと望んでいたのは、「帝国連合論」だった。すなわち、「イギリス本国と北アメリカ植民地は、同じ君主(英国王)を頂く対等なリパブリックである」というもので、「ただし、通商規制においては植民地側の政策的判断でイギリス本国の立法に同意してきた。これは160年の慣行である。ただし、植民地の内政にはイギリス本国は口を出せないし、どうしても出したい場合には、植民地からウエストミンスターに議席が与えられるべきである」というものである。そして「それを無視して課税立法するならそれは『イギリスの古来の国制』に対する侵害行為である」と主張する。

Possessive Investment in Whiteness

2005-10-20 15:20:58 | Weblog
George LipsitzのPossessive Investment in Whiteness: How White People Profit from Identity Politics. という本を2年くらい前に読んだことがある。エスニック・スタディーズでは最高傑作の一つなんだそうだ。確かに面白かった。この手の研究書の特徴としてイントロと第1章で分析の方法論を確定して、あとはそれをいろんな事例に当てはめていくのが第2章以下なので、専門外の人は第2章までを読めばだいたいOKなんだろう。

内容を乱暴に要約すると、「白人性というのはそれ自体が実体なのではなく、白人であることに利益を見出す人々が歴史を通してその白人性にある種の文化的投資をしてきたことにより、時代の変化の中で今日までいろいろな姿をとりながら生き延びてきた」ということであろうか。なるほどそうなんだろう。例えば、フェミニズムなんかも、当初は白人女性を「白人」というカテゴリーの一体性の中にいれることによって、白人男性との平等性を主張するという側面があった。ジェンダーの問題を人種の問題をテコに克服するという方法論であり、「男と女」の差異を「白人と黒人」の差異に置き換えることで、解消するというやり方である。これなんかは、南北戦争以前の南部社会で存在した統治技術の一つであろう。南部の白人がみんなプランターであったわけではなく、非常にたくさんの貧乏な白人がいたわけであるが、その貧乏白人たちは、憎悪の視線をごく少数の裕福なプランターにむけるのではなく、自分たちが「白人」であるということで、黒人への差別感情にむけていたので南部社会は、ある種の均衡をたもっていた。これなども、プランターが「白人性」に利益を見出していた例であろう。つまり、政治的主張、経済的利益、社会問題の解決の手段として、人種差別は利用されてきたのであり、なかでも「白人」であるということには、多大な利益があったということである。こういう視点からアメリカ史を検討すると、労働問題、教育問題、エンターテイメント、ナショナリズム、外交といろんなことがこれで斬れるということになる。第2章以下は、手をかえ品をかえこのPossessive Investment in Whitenessの事例が論証されていく。ちなみに、カルチュラル・スタディーズの人々が論文を量産できる秘訣はたぶんこの辺なんだろう。そういえば、友人の医学博士が、医学論文の種を教えてくれたことがあって、ある一つの器官の循環を解明できると、あとは体内の臓器の数だけ論文が書けるんだそうだ。方法論は一つでも、対象がたくさんあるとその数だけ論文が書ける。私も真似したい。余談だが。

私なんかが面白いなあと思ったのは、人種差別を人種以外のロジックで運用する方法である。例えば、ある郊外の住宅地に黒人家族が住み着くのを拒否する論法として、「財産権の神聖性」を持ち出すものであった。要するに土地所有者が、「黒人だから拒絶しているのではない。ただあの家族が住み着くと地価が下がるから自分の資産を守るために拒絶するのである」というわけである。考えてみれば、土地などはたんなる地面なわけだが、それに付加価値がつくと、地価は上がるわけで、その地域には「白人しか住んでいない」とい「付加価値」がつけば、地価は高騰するわけである。よく「差別化をはかる」という言葉が使われるが、これなんか文字通りの差別化なわけである。人間が単なる人間であれば生まれない利益の差が、白人と黒人とに人間の種類が分かれることによって、土地の価格に差ができるのである。そして「白人」というのは儲かる価値なのである。だから、ここに利益を見出せると考える者は、この差別の解消よりも差別の存続を望むことになる。まさにPossessive Investment in Whitenessである。

言われてみれば、その通りで、例えばブランド物なんか、たかが布なのについている札が変わるだけで価格に数百倍の違いができるんだね。妙に社会主義的な義憤を覚えてしまう。「いや、実際に品物がいいもの」というのはたぶん本当なんだろうが、そういう話になれば実際に黒人よりも白人の方が、学歴も高いし犯罪率も低いし云々ということと同じになってしまう。学歴や犯罪率に差ができるのは、差別の構造があるからで、これを是正するにはアファーマティヴ・アクションがいるんだろう。それゆえ、このアファーマティヴ・アクションに反対する人は、「逆差別」とか言って、人種差別を維持しようとする。

それにしても、アメリカの事例を見ていくと、本当に人間とはやるせないものだと思う。というのは、人種差別の解消は、結局のところ別の格差を設定することでしか解消できないからである。例えば、名前は伏せるが、ハーヴァード大学でエスニック・スタディーズを研究している黒人の某有名教授がいる。この人を日本に呼ぼうとしたとき、彼は「ファースト・クラス」と「スィート・ルーム」を要求してきたらしい。理由は、エスニック・スタディーズの世界的権威であるハーヴァード大のプロフェッサーだからである。科研費では無理なので、結局日本招聘はあきらめることになった。彼なんかは、人種差別は許せないが、階級格差は当然だと思っていて、本人には十分いろいろな主張はあるのだろうが、結局は、人種差別の解消を、階級差別に置き換えることで解決しようという結論になるのであろう。やっぱりそういう方法にならざるを得ないのかもしれない。門閥支配を解決しようと思えば、学歴主義にならざるを得ないように。

こうみていくと、「アメリカも苦労しているなあ」と思う。で、日本まで同じ苦労を背負う必要があるのかなあともこっそり思ったりする。移民なんかを受け入れると、たぶん凄いことになることは目に見えていたりするんだが、これなんかどうしたらいいだろう。人類として克服すべき問題として、その苦労や苦難を引き受けるべきなんだろうか。いろいろな意見があろうが、移民を受け入れた国で混乱や悲劇を経験しなかった国はないし、実のところその混乱を克服した国も一つもない。今に至るまで。もっとも克服しているアメリカもこんな感じである。それでもいいと言うんなら仕方ないんだが。目に見えている苦労を背負い込むのは、正直シンドイなあと個人的には思う。