研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

アダムズとジェファソンは、ミルトン『失楽園』をどう読んだか

2013-08-16 19:56:24 | Weblog
本質的に詩人だったが、ピューリタン革命期の不穏極まりないイングランドの代表的知識人であったため、詩作以外にも多岐にわたる文筆活動を行った人。『失楽園(Paradis Lost)』で知られるジョン・ミルトン(John Milton, 1608-74)に対する私たちの認識は概ねこのていどのものだろう。ハリントン、シドニー、ロックといった17世紀の思想的巨人たちが巨人たり得たのは、彼らのテキストが18世紀の革命家たちの読書リストの中心を占めていたからだが、そのリストを眺めると、ミルトンは堂々とこれらの巨人たちの中に名を連ねている。名を連ねているどころではない。これらの巨人たちと比較しても燦然と鎮座している。

詩人ミルトンを共和主義思想家として後世に広めたのは、トマス・ホーリス(Thomas Hollis)という書籍蒐集家にして出版業者だった人物である。非国教徒であったためオックス・ブリッジで教育を受ける機会を得られなかった彼は、自学自習のテキストを通してミルトンに出会い、生涯に渡りミルトンに心酔した。彼は、明確な意図に基づいてテキストをセレクトし、ヨーロッパおよびアメリカ植民地中のあらゆる教育機関や個人に大量の書籍を執拗に徹底して寄贈し続けた。寄贈した書籍の特徴は明確である。それは彼が「コモンウェルスマン」の思想家と考えた人々のテキストであった。このセレクトの中に、ハリントン、シドニー、ロック等とともに、ミルトンのテキストが悉く入った。彼はこれら一群のテキストを"liberty books"と称し、狙いを定めた大学や個人を"patriotize"していった。こうしたホーリスの生涯をかけた事業は完全に報われた。ジョン・アダムズとトマス・ジェファソンという学生を得たのだから。

ジョン・アダムズが『失楽園』を読んだのは21歳頃である。ジェファソンはもっと若かった。若い二人が受けた衝撃と生涯に渡る影響は彼らが残した詳細なコメンタリーと往復書簡に示される。しかし、私たちにとって重要なのは、彼らの政治生活における『失楽園』の参照の仕方の違いである。

『失楽園』の導入部分を思い出していただきたい。神との戦いに惨敗したサタンと彼の配下の天使たちは、宇宙の一隅(天地創造の前なのでまだ地獄が創造されていない)の凄まじい業火の海で叫喚自失の体で漂っている。この永遠の絶望的苦痛の中で、首謀者であるサタンの意識が最初に回復する。彼は、茫然自失のまま漂っている周囲の天使たちを一人一人起こしていく。サタンを中心として、意識を回復した天使たちは、自らのおかれた苦境と今後の行く末を話し合う。そこでサタンが行った演説の最も有名な箇所がこれである。

What though the field be lost?
All is not lost; the unconquerable will,
And study of revenge, immortal hate,
And courage never to submit or yield.

ジェファソンはミルトンの描くサタンとその演説に魅了された。今の私たちであれば、『失楽園』に登場するサタンや個性的な悪魔たち(天使たち)に感情移入する感覚は良くわかるだろうが、17世紀の教養を身につけ18世紀に生きた彼の実存を思うと、この反応はまぎれもなくジェファソンの個性といえよう。彼は、19世紀的なロマン主義的感性で『失楽園』を読み、サタンと天使たちから個人主義的かつ自由民主主義的な息遣いを感じた。「一敗地に塗れたからといって、それが何だというのだ。我々はすべてを失ったわけではない」。何度も何度も戦い続けるまさにその中に楽園の奪還はあるのではないか。しかしそれは18世紀的共和主義とは異質なものである。それはもっと、ロマン主義的な、自由を求めるデモーニッシュな何かである。

ジェファソンがミルトンの描くサタンに魅了されたのに対して、アダムズはミルトンその人に魅了された。共和主義的政治体制は、キリスト教的敬虔と古典主義的合理性の融合によってこそ活力を持つと考える彼は、ミルトンその人を考察の対象にする。人間本生ゆえにこそ、自由な政治体制は必要であり、まったく同じ理由で、自由の暴走は抑制されなければならない。ミルトンの人生が示したのはそういうことだったのではないか。英国王制の枢密院や閣議の様子は、自由な政府を執念深く攻撃し続ける「地獄の会議(infernal council)」そのものだ。アダムズはあくまで神の側に立ち、サタン的なるものから共和制を守るというアナロジーを『失楽園』から読み取る。ジェファソンが、神の如く強大な権力とみた英国王制は、アダムズにとっては、サタンの如く屈っせざるしぶとい悪魔だった。悪魔とはtyrannyである。それを一人が行うか、少数が行うか、多数が行うかは重要な問題ではない。アメリカやフランスにおいては、多数者が行う。『失楽園』に描かれるサタンとデビルたちは、抑制なき自由を焚きつけるデマゴーグの姿そのものと思われた。シェイズの反乱、ウイスキー反乱、そしてフランス革命。いかなる悲惨な流血にも屈服しない姿は、ミルトンの描くサタンと天使たちのようだ。その帰結は、tyrannyである。英国枢密院とジャコバン派とダイエル・シェイズの違いを論じることには何の意味もない。共和主義者はtyrannyと闘う。アダムズにとっての、ミルトンの『失楽園』は、それを表現する言葉の宝庫だった。

ジェファソンは、まったく対象的な見解を持っていたことはすでに述べた。例えば、フランス革命の一連の経過を眺めた彼の言葉は、もはや凄みを帯びていると言ってよいだろう。

「私自身の情愛は、それが失敗に終わったこと以上に、いくらかの殉教者をだしてしまったことに深く傷ついています。まるで世界の半分が荒廃してしまったように感じます。しかし、アダムとイヴをすべての国々に残すことができたのなら、それは今よりはよくなったということでしょう」

「幸いなる罪よ(Felix culpa)」といったところか。「アダムの原罪は、神がキリストをこの世に送り、全人類の罪を贖う結果となったのでこう呼ばれる」(ウンベルト・エーコ)という。しかし、アダムズが詩人としてのミルトンに深い感銘を受けつつも、政治制度の設計において、ミルトンを参照することが少なかったのに対して、ジェファソンの場合はより本質的な影響を受けていただろうことは、彼のヴァージニアにおける宗教の非公定化の一貫した努力や、ジョージ・ワシントン政権の国務長官となってもぶれることのなかった信教の自由の制度化の貢献に明らかであろう。

さしあたりアダムズとジェファソンというアメリカ革命の南北の両極の、ランス革命およびその後の政治観における対立の契機は、彼らが若き日に耽読したミルトンの『失楽園』に対する解釈の違いに端的に現れていたことを確認して終えたい。上記のことをより学術的に確認したい方は、John S. Tanner and Justin Collings, How Adams and Jefferson Read Milton and Milton Read Them, Milton quarterly, Vol. 40, No. 3, 2006を確認されたい。

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再び代表について

2010-07-22 17:43:51 | Weblog
代表するとはいかなることであるのか。以前、このブログでは、国会議員についての二つの代表観を検討したことがある。国会議員は、「地域代表」であるかのか、それとも「国民代表」であるのか。議員の選出が各地選挙区で行われる以上、その議員は、あくまで選出地域の代弁者であるというのが「地域代表」という考え方である。それに対して、選挙区が分割されているのは利便性と多様な国民の意見を吸収するための手段なのであり、国会議員として選出されたからには、議員は全体の利益を自らの裁量と責任によって独自に判断し、国民全体の奉仕者となるべきとするのが「国民代表」という考え方である。おおよそ大学で学ばれる法学(スコラ法学)は、後者の立場、すなわち「国民代表」を通説としている・・・ような印象がある。

民主制とは、議決が自分の見解と違ったものであっても、多数意見に従うこと、その「本当は不同意」の多数意見がもたらす帰結を自己の責任として受け入れることにその肝がある。つまり、「一人ないし少数の専制」に代えて、「多数者の専制」を選択したものに過ぎないのだが、これに権力分立、代表者の任期制、思想・信条の自由、言論の自由等の諸権利を憲法で確認することによって、多数者の専制を抑制しようというのが、ジェイムズ・マディソンらによる『ザ・フェデラリスト』の精神である。本当は、代表者が一人であるか、少数者であるか、多数者であるかというのは、統治の効果としては実はそれほど違いがない。「世襲の君主と選挙で選ばれた君主との間に違いは存在しない」(ジョン・アダムズ)。ただ立憲的抑制があるかないかが自由な政府と専制を分ける。

当然、代表民主制の場合は、自分の選挙区以外から選出された議員の見解に従うことをも容認しなければならない。なぜなら、議員が国民全体の利益を考察し判断する存在である以上、その「よそ者」の議員は、抽象的・実質的(virtual)に全体を代表しているからだ。これを議員のvirtual representationと呼ぶ。抽象的・実質的に代表できるからこそ、彼らの統治する国家はひとつと言えるのだ。これは代表に関して、「国民代表」の立場を前提としている。

だから原理的に考えれば、議員はいったん選出された以上、(選挙民からも)独立した存在として、判断をすべきだということになる。この点は、実はルソーが非難した部分である。「選挙を民主的だというのは間違っている。市民が主人でいられるのは投票日までであり、いったん当選者が決まると市民は彼の奴隷になる」。しかし現実には代表に選ばれた者たちの熟議に任せてしまう方が良い結果になる場合が多い。いや、人間社会の歴史を見る限り、代表者の自立性がない議会がもたらす混乱ばかりが目に付く。議員を統制しようとするのは、衆愚政への道かもしれない。まして政党の幹事長が、統制しやすい者を議員とするなどということは簒奪行為そのものである。

思うに「代表」とは、どういう母体から選出された存在であっても選出後は独立していなくてはならない。例えば裁判官の「自由心証主義」にもこの精神がある。また、外交官、ことに大使という職務もそうだろう。広く国民の多数を選出母体とするか、一定の資格試験を選出母体とするか、あるいは行政組織の人事のめぐり合わせを選出母体とするかの違いはあるが、「代表」とは、いったん選出された以上、自分の理性をもって世界における共同体の運命を判断しなければならないという点で、変わるところはないのだ。もし仮にカントの前提が正しいなら、独立した代表者の熟議はルソーの「一般意志」らしきものを導く可能性がある。そうでないならば、代表を選出する意味そのものがないだろう。代表者に自立性を持たせないことが害悪である理由もここにある。もっとも代表者が自立的であることは常に困難なわけだが。

しかし、近年の「地域主権」の議論を聞いていると、その論者の多くは「地域代表」の観点に立っているように見受けられる。本来、地域代表の立場をとる者には、田舎の人間が多かったはずだ。少なくともそう思われてきた。ところが近年の面妖さは、東京、大阪、横浜などの大都市にこの立場をとる人々が多いことである。東京都や大阪府が「地方自治」を口にする異様さはなんなのだろう。こんな剥き出しの地域エゴがなぜ平気でまかり通るのか。自分たちの利益が代表されていないと考えているらしいが、欲が深すぎるのではないか。それとも代表とは直接代表(actual representation)でなければならないと考えているのだろうか。この剥き出しのエゴの帰結がどうなるかは、タイのバンコクの暴動を見ればわかるだろう。タイの都市富裕層は、いわゆる「コモン・ウエルス(国家)」に対する認識が無さ過ぎた。

例えば「一票の格差」は、現在の日本全体のあり方を表しているものであって、是正それ自体を目的にしてはいけない。票の格差が出る背景を是正すべきなのだ。それが政治なのではないか。例えば鳥取は一人当たり東京の4倍の票をもっているのだという。ということは鳥取の生活の豊かさが東京の4分の1以下ということだ。ここをなんとかすべきだ。そもそも本当に鳥取はオーバー・リプレゼンテーションなのか?もしそうなら、東京から鳥取に人口移動がなければおかしいではないか。人口移動が起こる様子が片鱗もないということは、この一票の格差は寸毫も問題ではないということだ。一票の格差に国民の多くが無関心なのはそういうことなのだ。それは「コモン・ウエルス」維持の必要経費みたいなものなのだろう。

それにしても、想像力を持ち続けること、さらには自分自身が倫理の主宰者であり続けることは、本当に困難なことなのだとつくづく思う。多くの人々に代表たる経験を積ませる効用を説いた故人、反対に衆愚に代表たることをそもそも期待しなかった故人の偉さがともにしみじみよく分かるような気がする。昔の人はなぜあんなに偉いのだろう・・・。
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北海道論(6)-札幌の成功と北海道の失敗

2010-07-15 20:07:17 | Weblog
マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)という言葉がある。「明白なる運命」という意味で、ジャーナリスト、J・L・オサリバンが、『デモクラティック・レビュー』(1845年7月号)に発表した論説「併合」で使用した言葉である。アメリカ合衆国の西部、さらには西半球全域への膨張を倫理的に正統化する機能をこの言葉は果たしたとされる。

まさにそれは「倫理的」な概念であり、必ずしも論理的でもなければ道徳的でもないというのが重要である。つまり大変難解である。この難解な概念をアルバート・K・ワインバーグ(Albert K. Weinberg)は、Manifest Destiny: A Study of Nationalist Expansionism in American History (The Johns Hopkins Press, 1935) によって、植民地時代からカナダ併合論が収束するあたりまでのアメリカ政治史のすべてを題材に政治思想史的な分析を施し、なんとかこの概念を明らかにしようとしている。最初は自然権(natural rights)の文脈から分析が試みられ、最後は「政治的重力(political gravitation)」という一種の中華思想が「丘の上の町」という自意識を基礎に政治思想として確立していく様子が描かれている。そしてウイルソンの宣教師外交の内的必然性をみごとに論証している。ただし結論は、Manifest Destiny have never been manifestというもので、残念ながらこれが今日に至る通説である。

この難解な概念は、大陸国家のすべてに当てはまる。中国やロシアはなぜあんなに広いのか。少数民族の権利について尋ねた時の彼らの尋常ではない怒り方は、単純な利益論を超えたものがあることを示している。もちろん、大陸国家にかぎらない。例えば、かつてH・キッシンジャーが、中国の台湾に対する執着について問われた際に、それを「日本と沖縄」で類比をして見せたことがある。もちろん、これはアジア政治をまったく知らないキッシンジャーが完全に的外れなことを言ったもので、論外すぎて話にもならないのだが、ポイントは我々のこの逆鱗にある。沖縄は「明白に」日本である。もし外国人が「そこ」にくちばしを突っ込んだ場合は、もう十分な戦争の理由になる。マニフェスト・デスティニーが倫理的である理由はここにある。それは理性よりも神聖であり、たぶん命よりも重い。

私には幼いころからずっと引っかかっている光景がある。私の育った北辺の土地は、港町なのに世界に開けていなかった。その港は北極を向いていて、まったく国際性というものがない。太平洋や日本海のように、どこかに向かって開けた海ではなく、閉じた海だった。そう、私が見てきた海は、オホーツク海だったのだ。日本人にとっての第三の大洋というか、たぶん日本人と海の関係史でいうと別のパラダイムの世界だったのではないか。とにかく、津軽海峡は本州と北海道をつなぐ海峡であるのに対して、宗谷海峡はどこにもつながっていなかった。

もう少し正確に言うと、冷戦中だったのだ。宗谷海峡の向こうは、本当に別宇宙の政治体制が存在していて、境目に住んでいる住民は海から閉め出されていた。冷戦は終焉するまでその終焉を予測した者はいなかった。冷戦終焉前のオホーツク海は、権力層と自衛隊のみがその存在を認識する海で、日本の庶民には存在していないも同然の海だった。稚内に住んでいても、漁師以外は、誰も海に関心を持たなかった。本当に不思議なのだが。漁師たちは、「オオマガキ」で何かを本当は見ていたのかもしれない。しかし、彼らの言葉は訛りがきつすぎて、市役所職員の息子である私には何を言っているのかさっぱり分からなかった。みんなそうだった。

しかし私は幼いころから海の向こうに島があることに気づいていた。稚内の海岸から樺太(サハリン島)は見えるのだ。天気の良い日ならば、樺太の近辺を巡るソ連の国境警備隊の船体に陽光が反射して銀色に輝くのが見えた。鉛色の海の向こうに見えるあの島には、確かに人間が住んでいるようだった。私は、どうにもそこに行ってみたかった。見れば見るほど、相当大きな空間であるように思われた。休日になるとしばしば父親に自動車で宗谷岬に連れて行ってもらった。何もない宗谷岬から、私は飽きることなく樺太を見ていた。何がそんなに引っかかっていたのか。実は私の感性は正しく機能していたのだ。

徳川幕府時代は、北海道を「蝦夷地」、樺太を「北蝦夷」とした。まずは蝦夷地を確保したうえで、北蝦夷はロシアとの状況次第といったところだったのだろう。しかし蝦夷地を北海道と改めるころには方針は固まっていたと思われる。小樽をもって北海道の都とせしめたことがそれを示している。日銀の支店を置き、倉庫(この時代、倉庫は銀行業務も兼務)を充実させた。ちなみに札幌はこの段階では想定外だったという。札幌は農学校を設置したことに示されるように、研究施設と食糧基地の位置づけだ。北の「帝都」は断然小樽だったのだ。そして小樽の位置を見れば中央政府の意図ははっきりする。次の停泊地は絶対に稚内であり、稚内の次は絶対にサハリン島のコルサコフだ。中央政府は樺太を日程表にはっきりと入れていたのだ。小樽が北海道の都であるということは、サハリン島は日本であると主張しているのと同じであり、もし小樽が北海道の都であるならば、確かにサハリン島が日本であることは明白なのだ。北海道と樺太はワンセットの企画だったのだ。

壮大な展望である。千島列島と樺太が日本だとしたら、オホーツク海は日本の内海となる。稚内からオホーツク海岸沿いの地域の地位は、まったく違ったものになっていただろう。宗谷海峡の重要性は、津軽海峡とは比較にならなかったはずだ。小樽と稚内がそれぞれ日本海とオホーツク海を代表する文化地域になっていたはずだった。つまり北北海道の設計工学は樺太を前提としていた。それが宙に浮いたのだ。樺太を失い、すぐに冷戦になった。そのため本件は考えてはいけないことになった。北方のマニフェスト・デスティニーは、とてつもない力で封印され、行き場を失った。そして想定外の札幌が肥大化した。

北海道開拓のすべては樺太と一対になった事業だったわけで明治以来の北海道開拓史の延長上に現在の北海道は無い。札幌の肥大化は、北海道開拓の失敗を象徴している。北海道が損なわれて、札幌が残った。

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北海道論(5)-移住にまつわる大きな文脈

2010-03-25 21:37:16 | Weblog
シベリアのロシア人と北海道移民の根本的な違いは、前者が徒刑囚や流刑囚であったのに対し、後者が徳川幕府時代末期の段階でまともな庶民だった人々であるということだ。嫌な言い方なのは承知している。ただ、こうでも言わなければ私の腹が収まらない。いや失言した。なぜ「まともな庶民」が北海道に入植したかの理由の一端を私は語りたいのだ。

1799年。帝政ロシアは、「東インド会社」にならって「露米会社」という国策会社に勅許状を与えた。その目的は、千島列島、樺太、アリューシャン列島、アラスカ、カリフォルニアに及ぶ北太平洋地域でのオットセイやラッコの毛皮である。当然関係地域の植民地化もその事業に含まれるので、社員の多くは海軍の軍人が兼務していた。総支配人は、日本史の教科書でもおなじみのニコライ・レザノフである。レザノフは、1792年(寛政4年)にシベリア総督使節アダム・ラクスマンが連れてきた日本人漂流民と引き換えに老中松平定信から受け取った許可証を手に長崎を訪れた。1804年のことである。しかし長崎奉行はこれを峻拒する。これに錯乱したレザノフは日本海からアリューシャン列島をさまよった挙句、皇帝に対する自身の名誉回復のために蝦夷地襲撃を決意した。1806年、彼はアラスカで軍艦二隻を手に入れ、当時カムチャッカでくすぶっていた海軍士官のフヴォストフとダヴィドフに与え、東蝦夷地襲撃を独断で命じた。

1799年。徳川幕府は、東蝦夷地を直轄地とした。すでに1798年より最上徳内、近藤重蔵らに千島探検をさせていた幕府は、択捉島の紗那に会所を設け、これをもって千島列島の拠点としていた。ここに幕府から派遣されていた技官の一人に、かの間宮林蔵がいた。彼は樺太が「島」だということを最初に発見することになる。

1806年。フヴォストフ等は樺太南端の久春古丹(クシュンコタン)をかわきりに、宗谷から択捉島にまたがる地域を蹂躙し始める。折悪しく宗谷は、天然痘が流行しほぼ壊滅状態にあった。「パラキオマナイ」というアイヌ語をご存知の方はまずいないだろう。津軽藩兵の宗谷駐屯地の当時の地名で、「ダニ多き沢」というのだそうだ。オホーツク海流が酷い湿気をもたらし、これが宗谷上空で反対側から吹き込むシベリア気団という凄まじい寒気とまじりあい、地上ではダンテも想像できないような地獄が展開される。湿気と寒気と猛吹雪とダニだ。生きる気力がなくなる。ここに世界の果てのカムチャッカでたっぷりと憎悪をため込んだロシア帝国辺境の海軍士官が、粗悪ウオッカで武装しつつ襲いかかるのである。悪夢などというレベルではない。

同年4月29日。彼らは紗那に現れた。これが紗那襲撃事件である。

「(間宮)林蔵は雇医師久保田見達と共に、徹底抗戦を主張するが、函館奉行調役下役戸田又太夫と下役関谷茂八郎には戦意がなく、ロシア側が3隻の短艇で上陸を始めると、会所の支配人川口陽助に命じて、ロシア人と交渉させようとした。しかしロシア側はこれを無視し、いきなり陽助の股を撃ち抜き、付き添いのアイヌ人をも撃ち殺してしまう。さらに海岸にある魚粕倉庫を占領し、そこから会所に向けて大砲、小銃を放った。交渉するつもりだった戸田又太夫と関谷茂八郎は激しく動揺し、津軽藩も恐怖のため、みずから陣屋に火を放ち、これを焼き払った。・・・その夜、戸田と関谷は、紗那からルベツ(留別)まで撤退することを決め、夜が明けないうちに紗那を後にした。この逃避行の途中、責任を感じた戸田又太夫は山中で自害している」(稚内市教育委員会編『天明の蝦夷地から幕末の宗谷』(株式会社国境))。

紗那襲撃事件の顛末は、江戸の知識階級を憤激させナショナリズムを喚起することとなる。幕府は、翌1807年、樺太・宗谷を含む西蝦夷地を松前藩の管轄から外し、津軽海峡より北側をすべて直轄地とし、ロシア帝国の「マニフェスト・デスティニー」と対峙すべく北方の国境紛争に本腰を入れ始める。ちなみに間宮林蔵の超人的業績と、それと比較したときにあまりに暗く感じる人物像は、ここから始まるのだろう。幕藩体制の世にあって、「国家」的使命を帯びた武士たちが北方に送り込まれる。蝦夷地に「日本」の前線基地が構築される。北海道だ。

北海道移民事業は、こうした国境防衛の文脈から始まった。入植団に罪人などが採用されるわけがない。北海道北部には北陸地方を中心に選りすぐりの「庶民」が入植する。敢えて言うと、シベリア人とはプライドが違うのだ。

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Interests概念の変遷からみたアメリカ政治思想史(3・完)

2010-03-24 18:28:45 | Weblog
5.The Disappearing Public

1922年、ウオルター・リップマンは『世論』を書いた。世論とは、ステレオタイプ化された頭の中の擬似環境なのだという。さらに1928年のエドワード・バーネイズの『プロパガンダ』では、そもそもpublic opinionなるものは広告活動によって形成されたものであることが示される。もはやルソーはおろかウイルソンからもかけ離れたものとなっていく。一般意志は本当に存在しない、そんなものはルソーの戯言だと言うのは歯切れが良いが、本当に「存在しない」のだと居直るのも学問としてはそれなりに困ったことである。

この危機意識は、圧力団体を研究する人々にこそむしろ感じられたかもしれない。活発な意志を打ち出す圧力団体と、無力感から投票に行かない有権者の存在が重なり、結局は私的目的によって世論が操作される懸念は深刻なものとなる。E・ペンドルトン・ヘリングによれば、議会が耳を傾ける意見は、個人として語る市民の声ではなく、一定の目的に向かって組織された団体のコーラスであるという。彼はすでに19世紀の段階で、政党は政策決定において有していた独占的な支配権を失っていたと考えた。

ではpublicは、どこに打ち建てられるのか?

デューイは、そもそも近代社会において「パブリック」なる概念は一つの力を持ちえないと考えていた。しかし彼は、intelligenceの組み合わせによって、巨大な社会を巨大なコミュニティーに再構成できるかもしれないと考えていた。これは凄い。具体的にはどんなものなのだろうか。具体的なことは分からなくてもその雰囲気を伝える断片だけでも分かれば、それは大きな発見だったであろう。

しかしこの問題に関する彼の独創性はここで終わる。ここで彼は多くの思想家の墓場となる「教育」を口にせざるを得なくなる。「教育論」という万能薬の味をいったんおぼえると、思想家の思索はそこで終わり、あとは退屈なカリキュラム論に終始する。

こうしてジェイムズ・マディソンの想定したSocial Wholeは、流産したまま今日に至る。

6.The Rhetoric of Realism

Publicが存在していないことと、popular politicsが存在していることの間の断層が、民主社会には重大な懸念材料である。その一方で、レトリックとしてのcommon goodが無くなったことはない。これがイデオロギーという怪物になったことはあるし、分断する社会の紐帯になる可能性もある。さしあたり、commonの範囲を国家とするか、地域とするか、世界とするか、宇宙とするかで議論は悪い意味で深まるらしいことは、近年の日本がよく示している。Commonという観念が必然的に排除を前提とするのだとしたら、次は「包摂」というのがテーマになってくるのもまあそうなんだろう。

ホーフスタッターは『改革の時代』の中で、「革新主義時代において高められた道徳的な言葉をニュー・ディール期に使用し続けたのは保守派であった」と指摘している。彼によれば、ニュー・ディーラーたちは、抽象的な政治概念に不信感を持った、pragmatic realistsだったのだという。この点で、ニュー・ディーラーというのは、革新主義時代の知識人とは真逆の人々だったのだろう。リベラルな知識人が理念に不信感をもち、「リアリスト」を自任し、interestsを語る。何か変な感じがするが、確かにアメリカ政治史ではそうなっている。理念的ではない彼らの「理念」を、ホーフスタッターは、the new opportunismと読んでいる。西洋政治思想史の伝統では、interests同様、opportunism(機会主義)は下品な意味で使われてきた。福田歓一の『政治学史』によれば、「マキャベリズム」(マキャベリその人の政治思想とはとはまた別の位相の)というのは、「機会主義の教説」になるのだという。マキャベリの主張が、当時のハイブローな言説に対する、ローブローかつ「リアル」な見解だったことを考えると、ホーフスタッターのthe new opportunismという特徴付けは、気味が悪いほど正しい。しかし同時にこの概念史は、ヨーロッパ政治思想史の延長上にアメリカ政治思想史を読むことの限界を示している。以上の理屈だけでアメリカ政治思想史を語るなら、アメリカのリベラルの歴史は失敗の物語にしかならないからだ。

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