明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

中国語の勉強(3)NHKは難しすぎる

2024-02-19 13:37:00 | 芸術・読書・外国語

今年もまた中国語を勉強する季節がやってきました。3度目の挑戦です。別に中国語がしゃべれるようになって何しようというわけじゃないのですがこれから本格的に中国の歴史を学び、出来れば多民族国家の思想的背景をも勉強出来たらいいな思っているので、中国語の基本的文法と四声音韻律ぐらいは覚えておいて損はないだろうと考えています。ところでこれはちょっと主題とはずれるのですが、最近また思うようになったことに「中国人の名前」を未だに日本語読みをしている、があります。もうそろそろ中国人の名前は中国語で発音できませんかね?、ということです。これが最近また気になって仕方がありません。

例えば日本では習近平主席のことを「シージンピン」と読まずに「シュウキンペイ」と読んでいます。ネットで調べたら1972年の日中国交正常化時にお互いの国の人名は「それぞれの読み方」で統一する、という取り決めがなされたとありました。しかし、「だから日本語読みで良い」というのは時代の変化に気が付かない人の古い考えだと私は思います。その他にも色々な言い訳があるようですが、それらを全部ひっくるめても「習近平氏に失礼」だとは思いませんか?。

もし貴方が習近平さんのお友達になりたいと思ったとして、習近平氏と挨拶する時に「習さん」と呼びかけるつもりでしょうか?、って話です。シュウキンペイと発音しては「そもそも通じない」し、そんな呼ばれ方をされて彼が喜ぶ筈はないからです。アメリカ人なら現地音に近い「バイデンさん、トランプさん」と呼ぶでしょう。人の名前は「ちゃんとした発音」で呼ぶ、それが友好の第一歩です。日本人でも例えば「舎利弗さん」を「シャリドルさん」と呼ぶのは無理ですよね?、当然「何とお読みするでしょうか?」と聞くじゃありませんか(ちなみに「とどろき」と読むそうです。

いくら過去に取り決めがあるからと言って、いつまでもシャリドルさんといった風の「日本読み」で通していい筈はありません。まあ中国には中国なりの事情があって、例えば新聞などで外国名を表記する場合に「使える文字」が漢字しかないという問題もあります。それに比べて日本語はカタカナという「超便利な文字」がある訳ですから、外国名をそのまま使うのに全く問題はない筈ですよね。何も無理して漢字を使いながら「有りもしない読み方」で日本読みする必要は「全く無い」と私は言いたいです。習近平さんはシュウキンペイじゃなくて、読み方も書き方も「シージンピンさん」に統一しましょうよ。ついでに言うと、外国人の名前は現地表記(英米人なら英語)は使わないでカタカナ表記が通例だから、中国人の場合も漢字は使わないでカタカナで表記したほうが良いと思う。漢字を現地発音でそのまま読めるのなら構わないが、漢字で書いて現地音で読む・・・がまだ慣れていない日本人にはカタカナの方が無難じゃないかな。とにかくまず「話し言葉から現地音で通そう、というのが私の考えです。世界中がSNSでつながっている時代に未だに中国人を日本語の発音のままニュースなどで報道しているのはもう「恥ずかしい」ことだと思いますよ。つまり日本人は変な民族だね、っていう感覚かな。

話を元に戻すと、中国の歴史や有名な詩などを読む時には、我々日本人は昔の漢字(繁体字)のまま今でも使っているので今の中国人とは逆に「すんなり読める」という利点があります。但し、それは「読む」だけであり、発音が日本語読みなので「実際には役立たず」なのですね。元々日本に漢字文化が入ってきた時に例えば鎌倉の禅宗寺などでは「中国語で会話」してたという話があります。まあ日常的に仏典を読むのが仕事だから有り得ない話ではないと思います。ただ、漢字が入ってきた時(多分卑弥呼の時代より前)ちょうど日本固有の文字がなくてどうしようかと悩んでいた時でもあったから、漢字の意味を利用して「漢字をそのまま使い、読み方だけ日本語にする」という「超裏技を編み出した」訳である。こんなこと、日本人以外には出来ない技術ではないだろうか?。それで「返点」などというヘンテコリンなテクニックも生まれた訳だ。何故こんな「世界に通用しない」日本土着のやり方を発明したのでしょう?(素直に日本語は日本独自の文字を作っていたら、多分漢字文化は廃れていたと思うけど)

真実は分からないがそれが今になって日本人の足を引張っていて、グローバルな表舞台に出ることを邪魔していると思っています。日本人ぐらい外国語が苦手な国民は世界でも珍しいらしい。とにかく「漢字の日本語読み」から脱却して「漢字は中国語読み」が当たり前になれば、気持ち的に外国語を受け入れる素地が普通に誰でも身について来る、というものですね。幸い、中国の方で「簡体字」という新しい文字を作って使用してくれているのだから、この際元々の漢字は「もう日本語として扱って」(日本語にも現代文と古文があるように)、簡体字の中国語を全て中国読みで扱えばどうでしょう?。それで私の悩みであった「日本語読み」の問題も無くなると思う。つまり今後日本では簡体字は漢字じゃなくて「中国字」として扱う、と法律で決めるのである(すでに国名も漢ではなくて中国人民共和国ですからね)。そうすりゃだいぶ中国語も「英語並みに日本に定着する」かもね。

で、私の中国語の勉強は一体どうなるかと言うと、中国の書籍を日本語に翻訳して出版する場合はせめて、個人名と地名及び有名建造物や行事などの「固有名詞には、必ず現地音のルビを入れる」と決めてはどうでしょう。そうすれば固有名詞を目にするたびに「カタカナの中国読み」が一緒に頭に入って来て、私の中国語ももっと上達が加速すると思います。凄い良い案だと思うんだけど、文科省も統一教会なんかサッサとケリつけて「こっちのほう」に力を入れて貰えないかな?。まあ、私が一向に上手くならないのは「飽きっぽい性格」のせいなのだけどそれはいいとしよう。

一般的な問題として考えるなら、外国語にカタカナを使うという点については使う人によってバラバラに取り込まれて、色々と弊害が起きているようです。本来日本語とは異なる言語である英語を「カタカナ」にすることで「英語が日本語のように扱える」という利便性がありますが、それによって逆に日本語として「本家にない使い方」をしがちという弊害が出て来ます。つまりカタカナにした為に「英米人に通用しない」言葉、要するに「中途半端な日本語」なってしまうのです。例えばアメリカ人に現地で「この近くにスーパーはありますか?」と英語で聞いても「はぁ?(勿論英語で)」と言われて全く通じません(ネット情報)。・・・これが和製英語の悲しさです。

ネットで調べると英米人に通用しないカタカナ語は「何百」って出てきます。皆が日常的に使っているカタカナ語が実は和製英語、つまり英語風の「日本語」ってことが山程あるわけです。これを何とかして正常な状態にしようじゃないか!、というのが私の提案です。しかし一旦覚えてしまった和製英語は、今更正しい英語にしようとしても「中々治らない」ので困っちゃうわけですね(だって話してる相手が日本人で、同じようにカタカナ語を使って生活している訳ですから何の違和感もありません)。

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というわけで、結論は「私一人で頑張る」しか無い、でした(オーマイガッ!!!)。だから英語についてはベストセラー・ミステリー本を「原書で読む」に挑戦しています。そして今度は「中国語」にも挑戦してみようかな?という訳です。しかし、しかしですね、あの大NHKの中国語講座は難し過ぎて「とてもじゃないが私には無理!」なのでした(なんで幼児教育のカリキュラムが無いんだろう?)。私は外国語を習得するには「まず単語から丸暗記」という口なんです。文法とかは後から自分で気付けばいいんであって、まず片言でいいから「何とか通じる中国語の断片」をちょっとずつ覚える・・・から始めたいのです(大体、親から文法を教わった子供って、いる?)。時制や仮定法や二重三重の形容詞なんて「どうでもいい」のです。しかしNHKはその手の説明が大好きで、その上「くだらない寸劇」などを番組に入れるから、肝心の単語「が頭に入らない」じゃあありませんか、何とかなりませんかねぇ!

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もうこの際「カタカナをやめる」というのも手である。日本語の中に英語を入れたけりゃ「英字できちんと書くべき」だと言う意見も正しいと思う。今の日本語は横書きで左から右下へと書いているから何の問題もなく変更出来る筈です。それで英語を普通に日本語の文章の中に入れるようにしておけば、スーパーを文字にする場合は super と書くと、今度は英語としての本来の使い方になって「どういう意味?」ってなるから、日本人にも正しい言葉の使い方が身について来る、という段取りです、どうでしょう?。

という訳で、今度の4月で私の中国語の勉強も3年目に突入します。今まで全部1か月もしないうち諦めました。今年こそ何とかものにしたいと思ってますが、果たしてどうなることやら。・・・このブログでは勉強の進捗状況をチョットずつ書いていくことにします。期待しないで読んでください。



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