gooブログはじめました!富士山世界文化遺産の価値を確かめていこう!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。子どもの頃から一緒に生きてきた身近な富士山の価値を確かめていこう。

その9 富士山世界文化遺産西側地域、精進湖・本栖湖方面の散策

2017年08月21日 18時39分50秒 | 日記
その9 富士山世界文化遺産西側地域、精進湖・本栖湖方面の散策

       平成29年 7月29日、8月20日 探索実施      

①「富士山世界遺産センター」(9:00)
 富士山世界文化遺産学会のメンバーと9時に富士河口湖町船津6663-1①「富士山世界遺産センター」に集合した。(世界遺産富士山の顕著な普遍的価値に関する情報発信及び、その保存管理の中心的な役割を担うため、2016年6月22日に開館した。)
 私は、これまで、富士山が文化遺産に登録されて以来4年間、富士山周辺地域である山中・忍野・吉田・河口・大石・西浜等の御師を中心とする富士山の歴史と文化と自然について富士山の東側から北側、西側に向かって調べてきたが、今回は、富士山の西側地域の精進湖・本栖湖方面を訪ねてみた。
②諏訪神社(9:30)まずはじめに、精進湖北岸の旧中道往還沿いにある②諏訪神社を見学した。現在の本殿は一間社流造りで、天保14年(1843年)に再建されたもの。この建築の特徴は随所に施された装飾彫刻で、その素材も動植物から中国の故事にいたるまで多岐に渡る。
*中道往還(なかみちおうかん)は、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。駿州往還(河内路)と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれる(『甲斐国志』による)。山梨県甲府市の右左口宿(うばくち、姥口)を通過することから、右左口路とも呼ばれる。「中道往還」は甲州側からの呼称であり、静岡方面からは甲駿街道や甲州街道の呼称が使われる。
 ③千年杉(9:30頃)次に山梨県下一で国の天然記念物となっている③千年杉を見た。社有の大杉は山梨県下一で国の天然記念物。諏訪神社の入口にそびえる。別名「千年杉」。高さ45m、根回り13.6m。山梨県だけでなく全国的にも有数の大きさ。
 ④「子抱き冨士」(9:30頃)また、精進湖畔から富士山を眺めてみると子供を抱いたように見える④「子抱き冨士」が拝見できる。
 ⑤本栖湖の富士山写真撮影ポイント(10:50)(岡田紅葉が撮影した5千円札の図柄になった富士山。)
 ⑥本栖歴史館(11:30)古くから甲斐・駿河の国境地域として重要な役割を果してきた本栖の歴史を紹介する展示「本栖湖底遺跡」の出土品の展示をはじめ、本栖城、石塁、関所の模型、「本栖の公家行列」の模型により、本栖の特色を表現しています。
 ⑦レストラン松風(12:00)昼食 オーナーは、地域の歴史に造詣が深い。昼食をとりながら、主人を交えて歴史を振り返る予定であったが、他の店で昼食を済ませる。
⑧本栖の史跡散策(13時~)図1を参照。本栖の史跡を、担当の堀内が紹介。
その①江岸寺(こうがんじ)
曹洞宗の寺院で、甲府市上曽根町に所在する龍華院の末寺である。寺号の龍海山は竜ヶ岳に関係し、江岸寺は湖岸に創築された。
 中世・戦国時代に甲駿の国境防備のため、江岸寺を造営して武器を備え武将の詰め所としたといわれているが、慶応四年(一八六八)に書かれた『社記・寺記』によると、開基は現夢和尚で、慶長七年(一六〇二)に開山したとある。『甲斐国志』では、本寺の開基を渡辺囚獄佑としている。
かつては本栖湖岸に所在したが、寺域が民家より低い所にあるので、安永年間(1772~1788)に住民が協議して、湖岸よりも標高の高い現地に移築。
その②山神社(やまじんじゃ)
 山神社は本栖湖の東岸、本栖地区の集落の南端に位置する。古くから甲府盆地と駿河湾を最短距離で結ぶ歴史の道「中道往還」の沿道にあり、甲斐と駿河の国境地域に祀られた神社である。
「山神社本殿」は、一間社入母屋(いりもや)造り檜皮葺(ひわだぶき)の建物である。
現本殿は、宝暦5年(1755)に再建され、天明2年(1782)に彩色修復が行われたものである。江戸時代の18世紀の建築を留めており、本栖地区の歴史の奥深さを象徴し、境内地とともに歴史的な景観を醸し出す貴重な文化財である。
毎年5月17日には、本栖地区の代表的な祭典である「本栖の公家行列」が山神社から出発し、歴史絵巻のような優雅な行列に先導されて神輿が地区内を巡行する。
その③七社大明神(しちしゃだいみょうじん)     本栖湖入口と上九一色中学の間にある旧中道往還と358号線に囲まれたところに七社大明神というお社があります。 現在では、大明神というわりには、小さなお堂があるだけのこじんまりとしたお社です。 江戸時代になっても信玄を慕う地元の人は、七社大明神に信玄を祀り疫病退散の神様として信仰したそうです。信玄の碑だけでなく、道祖神や馬頭観音も残っていて、道行く人が、道中の安全祈願をしたことが分かります。
その④石塁
国道358号線上、上九一色中学校入口の反対側に石塁の案内板があります。かつて上九一色村は、駿河と甲斐の国境でした。石塁とは、敵の侵入を防ぐための壁で、武田信虎、信玄の時代に作られたという伝承があります。国道358号線の上九一色中学校入口の反対側というと、青木ヶ原の樹海なのですが、国道からどんどん離れて、長さ約2km、高さ約2mの溶岩石の石垣の壁が続いています。公園として整備されているのは、その半分(長さは不明)で、石塁の脇を歩けば道に迷うことはありません。青木ヶ原の中を歩いていて、国道を通る車の音も聞こえなくなると、少し不安にはなりますが、林道のゲートのところに出たら、林道を通って国道358号線に戻ることができます。磁石もきかないと言われる青木ヶ原の中を散策でスリルを味わってみてください。
信玄築石→本栖城近くの樹海の中に、信玄が駿河からの敵に備えて溶岩石を積み重ねて築いた『築石』があります。『石塁』と違う点は、『築石』は溶岩が段になっていることです。
その⑤渡辺氏屋敷跡(渡辺因獄佑の屋敷跡・墓・煙消屋敷跡(火薬庫)等の遺跡)

「渡辺因獄佑(実名・守)は武田氏に仕え、甲駿国境本栖の警固にあたったが、天正十年(1582)に武田氏が滅亡し、本能寺の変を経て、同年の七月徳川家康の甲斐入国に際し、九一色十七騎を率いて無事新府に案内し、ただちに本栖に引き返し北条勢とその手先の農民一揆を打ち破った。
家康は、その功により九一色郷に対し諸商売役免許の印書を与えた。
因獄佑の墓といわれる五輪塔は石垣積みの上にあり、地輪を欠くものなども含まれる。
この墓の近くには、因獄佑の屋敷跡(館跡)、煙消屋敷跡(火薬庫)等の遺跡もある。
 平成二十三年三月
  富士河口湖町教育委員会
  富士河口湖町文化財審議会
山神社と同様に富士河口湖町指定史跡になっている *追加資料有り→*
*渡辺因獄佑(わたなべ ひとやのすけ、生年不詳 - 天正19年(1591年)[1])は、戦国時代の土豪・御師・旗本。はじめ甲斐武田氏、後に徳川氏の家臣。甲斐国八代郡精進村(山梨県富士河口湖町本栖)に居住する土豪集団・九一色衆の一員[1]。
その⑥両替屋敷跡
両替坂(富士河口湖町上九一色村)上九一色中学門近くの緩やかな坂は、武田の時代、両替坂と呼ばれていました。甲斐の国は金山がたくさんあって、甲州金は品質が優良だったため他国への持ち出しは禁止されていました。それで、ここにある両替屋敷で両替して、
駿河などへ商売に行ったというわけです。しかし、徳川時代になって、ここでの両替制度は廃止されました。上九一色中学の正門付近から撮影出来る。

その⑦本栖城跡 図2を参照 資料有り→*
本栖城に行くには、上九一色中学へのアプローチの道(国道358号線を本栖湖に向かって右)に車を置かせてもらって、門の3mほど手前右側にある旧中道往還を歩くと、5分くらいで登り口に着きます。途中溶岩石を積んだ『信玄築石』もあるので、この旧道を往復するのがオススメです。本栖城は、武田軍が駿河の国境を守るための城であったこと、そして狼煙台の中継地点であったこと。狼煙は、本栖城→三方分山→左右口峠→躑躅崎館と中継したこと。狼煙は、日本狼の糞で作ったこと。本栖城は、かなり急な坂を登っていくと長い尾根があって、その尾根上に廓と空堀がいくつもあるという構成です。主廓まで行ったら、あと30mくらいで狼煙台があるから、見落とさないようにしてください。本栖城跡主郭は、烏帽子岳より青木ヶ原樹海にせり出した標高1056メートルの城山山頂の主郭を中心に、南北に狭く細長い稜線の尾根に堅堀を設け、自然の地形を利用して郭(くるわ。外側をへいや城壁でとりまいたもの)を築き、防備を固めた中世山城の形態が残っています。

その⑧*本栖関所(口留番所)
 本栖口留番所は、江戸時代の甲斐24口留番所のうちの一つであり、武田信虎・信玄治下の戦国時代には、古関口留番所と共に、この地の武士団西之海衆(西湖周辺に居住していた在地武士団)が警護にあたっていたという。江戸時代にも引き続き口留番所として利用された。口留番所とは関所のようなものである。本栖口留番所は国道139号線と国道300号線の本栖交差点から100mほど南に行った辺りに置かれていた。
 私は、これまで、富士山が文化遺産に登録されて以来4年間、富士山周辺地域である忍野・吉田・河口・大石・西湖等の御師について調べてきたが、この資料から、本栖にも御師がいたことが明確になり、新たな発見を喜んでいる。
 次回は、いよいよ静岡県側に入りたいと考えています。
 まずは、富士山信仰の御師の宿坊の原形となった、頼尊(らいそん)の村山大鏡坊(だいきょうぼう)という登山者を宿泊させる宿坊を探索したい。これが、私が調べてきた山梨県の御師の宿坊の原形と思われるからです。