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その8 信仰の山 「富士山」 と 御師 について

2017年03月06日 23時24分55秒 | 日記
その8信仰の山「富士山」と御師について

信仰の山「富士山」と御師について知りたい調べたい。
2013年06月09日 23時45分55秒 (私の日記より)
 今日、南都留郡富士河口湖町の河口地区の「河口浅間神社」に行った。歴史の重みをずしんと感じた。平安時代の公式の歴史書『日本三大実録』に「貞観6年(864年)」に富士山が大噴火し、富士山北麓に大きな被害をもたらしたので貞観7年(865年)に甲斐国八代郡に浅間神社が造られた」記されている。富士山の噴火を鎮めるために最初に置かれた浅間神社は、この「河口浅間神社」の可能性が高いようである。確かに昔から、吉田の浅間神社よりも、この地域では、「河口御師」の歴史が古いと言われている。
 特に、河口12坊の一つ、「富士山御師」梅谷(本庄)を見学してきたが、そこの資料に貴重な史実が詳しく記されていた。それによると、現在残る建物は安永5年(1776年)にたてられた。門は、寛政12年(1800)年に建立と書いてあった。(かわぐちあさまじんじゃ)と読むことも記されていた。さらに詳しいことを調べてみたい。そのためには、再度「河口浅間神社」(かわぐちあさまじんじゃ)の責任者の方を尋ねご指導ご教授をいただきたいと考えている。これは、富士山文化遺産としての価値が高いと思われる。明治に入ってから、富士河口湖町の大石地区に「やじべえ」という加持祈祷を司った方(御師)がいたと河口湖町史に掲載されていたのを思い出した。又、富士吉田登山道の大石茶屋は、大石地区の方が所有していたとも記されていた。現在も「中村館」と言われる坊が民家として存在している。確かなことは、私の現在の力量では確認が出来ないが、専門家の方を尋ね今後の課題として個人的に調べながら明確にしていきたいと考えている。

 その後興味の赴くままに史跡見学や文献に当たってみると、『御(祈祷)師のルーツは、修験道にある。』との考えが強くなった。
2015年09月22日 12時20分51秒 日記  

修験道の成立は、                   
 ①修験道は、奈良時代にA役小角(えんのおづぬ)(役行者)が創始したとされる。(役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。)
農耕社会成立とともに、山を水分神(みくもりのかみ)のこもるところとして仰ぐならいがあった。大和平野の吉野山はその典型であった。山の神は春平地におり田の神となり、農事が終わる秋山に帰るとの信仰もあったといわれる。
*奈良時代701~793
大和の葛城山(かつらぎさん)における一言主神(ひとことぬしのかみ)はその代表例である。このような山岳信仰を基盤として奈良時代の初め頃葛城山にこもる役小角(えんのおずぬ)が有力な呪術者として崇拝された。奈良時代の天皇を中心とする律令国家から衆を惑わせる怪しい人として逮捕され、伊豆に島流しにされた。(呪術で空を飛んで夜に富士山で修行して、朝には島に帰っている等のうわさ話が全国に広まる。)
大宝元年(701年)に役小角(えんのおづぬ)が、伊豆の山々や御坂山塊や十二が岳や鳴沢村の山野を駆けめぐり、富士に登ったと思われる。このような空想やら妄想やら目に浮かぶが、真相も見えているかもしれない。そう考えるとわくわくして来てしまう。
奈良時代の末に桓武天皇等に最澄(767~822)天台宗開祖(台密)・空海(774~835)真言宗開祖の弘法大師(東密)の2名が任用された。この2人の僧侶が始めた中国から入ってきた新しい宗教を密教という。
 この密教と古くから日本にあった山岳宗教が結びついて修験道として発展していった。
そして更に、修験道から富士山信仰の高度な信仰形態として富士講が生み出されてきたと思われる。



 ②修験道は、平安時代ごろから盛んに信仰されるようになった。平安時代(西暦794年)初期に伝来した密教との結びつきが強くなった。

*平安時代794~1191*鎌倉時代1192~1333*南北朝1334~139
この時代の密教の様子は、
『(密教とは、元来、釈迦が説く教えである仏教(顕教けんきょう)に対して、法身の仏(本来の仏)が説いたより深い教えという意味。)』
 この密教の伝来とともに、平安時代には理論的にも進歩し、修験道として完成度を増してさらに全国に流行していった。貴族社会にまで及んだ。
その後の行者の一人であるB末代上人(まつだいしょうにん)が富士山頂に数百回も登り、修行した。その場所にお堂を建てて中に神棚を作りそこにこの「水晶ケ岳」を安置し、浅間大菩薩(あさまだいぼさつ)として祈った。今もこの地を「水精ケ岳」とよぶ。久安5年(1149年)にこの末代上人(まつだいしょうにん)が富士山頂に大日堂を建てた。役行者が1300年ほど前に建てたと言われる村山浅間神社のとなりにある。末代上人は、村山(冨士宮市村山)の地を本拠地として富士山中に分け入りさらにきびしくて苦しい修行の日々を重ねた。この末代上人を見習い多くの修験者や山伏とよばれる修行者が集まってきた。富士山での修験道を極めた末代上人を山伏などの修験者は、大棟梁権現(だいとうりょうごんげん)といってあがめ、富士山の守護神とした。肉身仏(ミイラ)として興法寺に納められた後も、修行を志す人々が続々とたくさん富士山での修行を目指して村山の地に盛んに集まってきた。


                                        ③鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。修験道は、密教との関係が強かったことから、仏教の一派とされることもある。
 鎌倉時代に入るとC頼尊(らいそん)が、末代上人のおこした富士山での修験道を富士行(ふじぎょう)というものにして、さかんにした。頼尊(らいそん)は、村山に大鏡坊(だいきょうぼう)という登山者を宿泊させる宿坊をつくり、日本の各地から富士登山にやってくる山伏や修験者の指導や世話を熱心に行った。
室町時代1393~1467(戦国時代)~1573(室町幕府滅亡)
安土桃山時代1575~1600
室町時代には、東密系・台密系2派。
◎真言宗最澄 東密系は、醍醐寺の吉野山で修行→当山派
◎天台宗空海 台密系は、園城寺の紀州熊野で修行→本山派
 このような役の行者の流れをくんだ人達の中にD長谷川角行がいた。角行は、1541年(天分十年)に生まれた。角行は、全国を駆けめぐり血のにじむような修行の日々を送り、1579年(天正七年)に富士山の人穴にこもり修行を重ね「富士山に登ることが浄土に至る最高の道である。」と確信し、冨士講の基をおこした。 (戦国時代を生きた人)
 


④江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
江戸時代1603~1867大政奉還(15代徳川慶喜)
江戸幕府は、当山派にあつかった。地方は、本山派が強かった。
近世になると山伏(修験者)が村々に定住し、巫女(みこ)と結婚し、神社に使えるものもいた。知的指導者となるものが多かった。
*吉田の御師は、食行身禄・村上光清・吉田北口本宮とともに栄えた。
 この角行の弟子のE食行身禄(じきぎょうみろく)は、角行の教えを忠実に守り、自ら富士山八合目の石むろで断食修行をして生き仏となった。その時食行身禄は、1733年(享保十八年)四月二八日に富士山八合目に入り、六月十三日には、八合目の石むろを出て山頂の釈迦の割石という所で修行を重ねていた。そこに大宮浅間神社の使いが来て山頂で死ぬと山頂が汚れるから降りてほしいと懇願された。それで七合目まで降りて烏帽子岩で断食修行に入り生き仏となった。このとき同行したF田辺十郎右衛門がその教えを書き留めた「三十一日の巻」は、冨士講の聖典となった。角行がこの信仰を統一(1579年頃)して、富士講としてまとめ、江戸中期に食行身禄(1733年頃に生き仏となった)、G村上光清二派が、江戸八百八講の繁栄を誇った。江戸末期に、新興俗教として、弾圧された事もあった。



 ⑤明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、1872年明治5年、明治政府によって修験禁止令が出され、修験道は禁止された。
 しかし、明治・大正初期と登山参拝の風潮は盛んを極め、白衣、金剛杖、腰に鈴をつけて、六根清浄を唱えながら行く、導者の群は、吉田登山道を白一筋に染めたものである。
 今なお民族慣行的に信仰されている。第二次世界大戦、観光登山の風潮が流行し、自動車が五合目まで通うようになって、信仰としての富士山は、その尊厳を失い、親しまれる観光の山として、一夏、昭和四一年九月頃は数十万を数える登山者が、銀座街頭さながらの賑わいを呈している現状であった。
 富士山が世界文化遺産と認定された平成二五年度は、一夏、310,721人(八合目付近の環境省赤外線カウンター調べによる)の賑わいを呈している。
河口御師については、更に、河口湖町史によると、富士信仰が残されている物に、戦国時代の妙法寺記があると記されている。妙法寺紀によると「明応五年(1496年)に、富士導者が吉田口又は須走口から多数登拝したと」記してある。

『信仰の山「富士山」と御師について』御師のルーツを振り返
りまとめると、、、役小角から・・・
・1、役小角から・・・
・2、末代上人(まつだいしょうにん)
・3、頼尊(らいそん)文保年間(1317年-1319年)には存命の人物
・4、長谷川角行がいた。角行は、1541年(天分十年)に生まれた。
・5、角行の弟子の食行身禄(じきぎょうみろく)1733年
・6、村上光清・食行身禄(じきぎょうみろく)二派が、江戸八百八講の繁栄を誇った。

①御師のルーツが、奈良時代の役小角(えんのおづぬ) →

②末代上人(まつだいしょうにん)が富士山頂に数百回も登り、修行した。その場所にお堂を建てて中に神棚を作りそこにこの「水晶ケ岳」を安置し、浅間大菩薩(あさまだいぼさつ)として祈った。                               久安5年(1149年)にこの末代上人(まつだいしょうにん)が富士山頂に大日堂を建てた。修験者は、大棟梁権現(だいとうりょうごんげん)といってあがめ、富士山の守護神とした。
 肉身仏(ミイラ)として興法寺に納められた後も、修行を志す人々が続々とたくさん富士山での修行を目指して村山の地に盛んに集まってきた。→ 

③鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。修験道は、密教との関係が強かったことから、仏教の一派とされることもある。
 鎌倉時代に入ると頼尊(らいそん)文保年間(1317年-1319年)には存命の人物とされている。が、末代上人のおこした富士山での修験道を富士行(ふじぎょう)というものにして、さかんにした。頼尊(らいそん)は、村山に大鏡坊(だいきょうぼう)という登山者を宿泊させる宿坊をつくり、日本の各地から富士登山にやってくる山伏や修験者の指導や世話を熱心に行った。→ 
 
④役の行者の流れをくんだ末代上人(まつだいしょうにん)・頼尊(らいそん)等の人達の中に長谷川角行がいた。角行は、1541年(天分十年)に生まれた。角行は、全国を駆けめぐり血のにじむような修行の日々を送り、1579年(天正七年)に富士山の人穴にこもり修行を重ね「富士山に登ることが浄土に至る最高の道である。」と確信し、冨士講の基をおこした。 (戦国時代を生きた人)→ 

⑤江戸中期に食行身禄(1733年頃に生き仏となった)、村上光清二派が、江戸八百八講の繁栄を誇った。

 この富士山信仰への情熱が絶えなえなかったのは、富士山の百年ごとの大噴火であったと私には思えてならない。今、三百年の沈黙を守っている。
 このような歴史的な起源を持つことがおぼろげながら分かった。更に学びを深めていきたい。
 河口の御師は、富士吉田の御師同様に、「この角行のおこした冨士溝と深い関係があった。」といえる。相違点といえば、河口の御師は、江戸時代初期にお楽の方の父親が、河口の御師の檀家であったため、将軍家の祈願所となり、将軍家の加護を受けて繁栄した点と長野県以北の檀家が多い点である。吉田の御師は、檀家が東京、千葉方面以南が多いのも相違点であるといえる。
 富士山文化遺産としての御師(冨士溝)の歴史的な流れを整理したい。この地で生まれ育った者として地域の歴史を知り、後世に語り継ぎ、さらに富士山文化遺産を守り育てて、更に素晴らしいものへと高めて世界に発信していかなければならないと思う。それは地域に暮らす者の使命であると感じている。富士山地域に住む一住民としての純粋な気持ちからこのような取り組みを日記に示している。非公開ブログではあるが、富士山にまつわる史実、自然文化をみんなが知り共有化できることが、富士山をめぐる文化を高める道と考える。広く皆様方に教えをいただきたい。

















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