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Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“もう希望することを止めた陽気さ”

2011-05-03 17:22:57 | 日記


★ 誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンが過ごしたヨルダンのジェラッシュとアジュルーン山中での6ヶ月が、わけても最初の数ヶ月がどのようなものだったか語ることはないだろう。数々の出来事を報告書にまとめること、年表を作成しPLOの成功と誤りを数え上げること、そういうことならした人々がある。季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。

★ 茂みの下、迷彩色のテントの下に、フェダイーンはあらかじめ戦闘員の小単位と軽火器、重火器を配備していた。いざ配置に着き、ヨルダン側の動きを読んで砲口の向きを定めると、若い兵士は武器の手入れに入った。分解して掃除をし油を塗り、また全速力で組み立て直していた。夜でも同じことができるように、目隠しをしたまま分解し組み立て直す離れ業をやってのける者もあった。一人一人の兵士と彼の武器の間には、恋のような、魔法のような関係が成立していた。少年期を過ぎて間もないフェダイーンには、武器としての銃が勝ち誇った男らしさのしるしであり、存在しているという確信をもたらしていた。攻撃性は消えていた。微笑が歯をのぞかせていた。

★ 10年が過ぎ、フェダイーンがレバノンにいることを除けば、私は彼らの現状を何も知らずにいた。ヨーロッパの新聞はパレスチナ人民のことをあれこれ言ってはいた。だがぞんざいに。軽侮さえ含んで。そして突然、西ベイルート。



★ 写真は二次元だ、テレビの画面もそうだ、どちらも隅々まで歩み通すわけにはいかない。通りの壁の両側の間に、弓形にねじ曲がったもの、踏んばったもの、壁の一方を足で押しつけもう一方には頭をもたれた黒くふくれた死体たち。私が跨いでゆかねばならなかった死体はすべてパレスチナ人とレバノン人だった。私にとって、また生き残った住民たちにとって、シャティーラとサブラの通行は馬跳びのようになってしまった。死んだ子供が一人で、時にはいくつもの通りを封鎖できた。道は非常に狭く、ほとんどか細いといってもよく、そして死体はあまりにも多かった。

★ 蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。

★ 愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。



★ キャンプにはまた別の、もう少し押し殺したような美しさが、女と子供の支配によって定着していた。戦闘基地からやってくる光のようなものをキャンプは受け取っていた。そして女たちはと言えば、その燦めきは、長く複雑な討論を経なければ説明がつかない類のものだった。

★ 女たちはすでに慣習に叛いていた。男の視線に耐えるまっ直ぐな眼差し、ヴェールの拒否、人目にさらした、時にはすっかり露な髪、つぶれたところのない声。

★ アジュルーンの森で、フェダイーンはきっと娘のことを考えていたのだろう。というよりも、ぴったりと身を寄せる娘の姿を、一人一人が自分の上に描き出し、あるいは自分の仕草で象っていたようだ。だからこそ武装したフェダイーンはあんなにも優美であんなにも力強く、そしてあんなにも嬉々としてはしゃいでいたのだ。


★  「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。

<ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』(インスクリプト2010)>






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