★ あらゆるものには代償となるものが存在するという教義があって、その派生的命題の中に理論的にあまり重要でないものがひとつあった。その命題が原因で十世紀の終わりか初めに、われわれは地球上のあちこちに散らばることになった。その命題を要約すると、次のようになる。不死をもたらす川が存在するのであれば、どこかに不死性を消し去る水の流れる川があるはずである。川の数は無限ではない。不死の人間が旅に出て世界中を駆け巡り、すべての川の水を飲めば、いつか死ぬことができるだろう。そこでわれわれはその川を捜すことにした。
★ 死(あるいはその暗示さえも)が人間をかけがえのない、悲壮なものにする。人間は幻のような存在でしかない。だからこそ人の心を揺り動かすのだ。人間の行う一つ一つの行為が最終的なものになるかもしれないし、どのような顔も夢に出てくる顔のようにぼやけて消えてゆく。死すべき人間にとってあらゆることは二度と起こりえないものであり、偶然的なものでしかない。それにひきかえ、不死の人間にとっては、どのような行為(それに思考)も目に見えない過去においてすでに行われていた他の行為の反響、あるいは未来において目くるめくほどくり返される他の行為の忠実な予兆となる。倦むことなくすべてを映し出す鏡の間に置かれて消えうせてしまった物体のように、すべて消えてなくなるのだ。一度きりのもの、文字通り一時的なものというのは何一つ存在しない。悲歌的なもの、深刻なもの、儀礼的なもの、こういったものは不死の人間たちにとって何の意味ももたない。ホメロスと私はタンジールの門の前で別れた。別れの挨拶は交わさなかったように思う。
<ボルヘス“不死の人”―『エル・アレフ』(平凡社ライブラリー2005)>