Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

不死の人

2011-04-30 10:58:11 | 日記


★ あらゆるものには代償となるものが存在するという教義があって、その派生的命題の中に理論的にあまり重要でないものがひとつあった。その命題が原因で十世紀の終わりか初めに、われわれは地球上のあちこちに散らばることになった。その命題を要約すると、次のようになる。不死をもたらす川が存在するのであれば、どこかに不死性を消し去る水の流れる川があるはずである。川の数は無限ではない。不死の人間が旅に出て世界中を駆け巡り、すべての川の水を飲めば、いつか死ぬことができるだろう。そこでわれわれはその川を捜すことにした。

★ 死(あるいはその暗示さえも)が人間をかけがえのない、悲壮なものにする。人間は幻のような存在でしかない。だからこそ人の心を揺り動かすのだ。人間の行う一つ一つの行為が最終的なものになるかもしれないし、どのような顔も夢に出てくる顔のようにぼやけて消えてゆく。死すべき人間にとってあらゆることは二度と起こりえないものであり、偶然的なものでしかない。それにひきかえ、不死の人間にとっては、どのような行為(それに思考)も目に見えない過去においてすでに行われていた他の行為の反響、あるいは未来において目くるめくほどくり返される他の行為の忠実な予兆となる。倦むことなくすべてを映し出す鏡の間に置かれて消えうせてしまった物体のように、すべて消えてなくなるのだ。一度きりのもの、文字通り一時的なものというのは何一つ存在しない。悲歌的なもの、深刻なもの、儀礼的なもの、こういったものは不死の人間たちにとって何の意味ももたない。ホメロスと私はタンジールの門の前で別れた。別れの挨拶は交わさなかったように思う。

<ボルヘス“不死の人”―『エル・アレフ』(平凡社ライブラリー2005)>







見えるもの

2011-04-30 00:23:41 | 日記


★ 科学は物を巧みに操作するが、物に住みつくことは断念している。

★ 科学の思考――上空飛行的思考、対象一般の思考――は、それに先立つ「そこにある(イ・リ・ア)」ということのうちに、つまり、われわれの生活のなかで、われわれの身体にとってあるがままの感覚的世界や人工的世界の風景のうちに、またそうした世界の土壌の上に、連れもどされなくてはならないのだ。もっとも、ここで身体といっても、それは情報器械だと言っても差し支えないような<可能的身体>のことではなく、私が<私の身体>と呼ぶ現実の身体、私が話したり行為したりする際にいつも黙って立ち会っている見張り番のようなこの身体のことである。そして、この私の身体とともに、多くの共同的身体、つまり「他人」もまた甦ってくるにちがいない。

★ ところで芸術、とりわけ絵画は、[科学的思考の]あの活動主義[=操作主義]がおそらく知ろうとは望まないこの<生まな意味>の層から、すべてを汲みとるのだ。まさしくそれらだけが、まったく無邪気にそれをやってのける。

★ 画家は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、<精神>が絵を描くなどということは、考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体(けたい)を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり機能の束であったりするのではなく、視覚(ヴィジョン)と運動との縒り糸であるような身体を取りもどさなくてはならない。

★ 謎は、私の身体が<見るもの>であると同時に<見えるもの>だという点にある。すべてのものにまなざしを向ける私の身体は、自分にもまなざしを向けることができるし、またそのとき自分が見ているものを、おのれの見る能力の「裏面」なのだと認めることができる。私の身体は見ている自分を見、触っている自分に触る。私の身体は自身にとっても見えるものであり、感じうるものなのだ。それは一個の自己である。ただし、それは何であれその対象を同化し、構成し、思考[内容]に変えてしまうことによってしかものを考えようとしない<思考[作用]>のように、透明さによってひとつの自己となるのではない、――それは混在やナルチシズムによって、つまり<見るもの>の<見られるもの>への、<触わるもの>の<触わられるもの>への、<感ずるもの>の<感じられるもの>への内属によってひとつなのであり、――それゆえ、物のあいだに取り込まれ、表と裏、過去と未来……とをもつひとつの自己なのである。

★ 世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。

★ 人間の身体があるといえるのは、<見るもの>と<見られるもの>・<触わるもの>と<触わられるもの>・一方の眼と他方の眼・一方の手と他方の手のあいだに或る種の交差が起こり、<感じ―感じられる>という火花が飛び散って、そこに火がともり、そして――どんな偶発事によっても生じえなかったこの内的関係を、身体の或る突発事が解体してしまうまで――その火が絶え間なく燃え続けるときなのである。

<メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房メルロ=ポンティ・コレクション4“間接的言語と沈黙の声”2002)>






超自然

2011-04-29 13:38:55 | 日記


★ 日本人のように、自然のなかで生きていれば、プラトンのように超自然的原理を突如として思いつくということはありそうにも思えません。日本人には、どうしてもユダヤ/キリスト教的な一神教をほんとうのところで理解するとができないというのも、同じような事情によるのではないでしょうか。

★ イデア論は、なぜ西洋に大きな変化をもたらしたのでしょうか?イデアというのは、idein(見る)という動詞から生まれた言葉ですが、プラトンはこの言葉で、「魂の眼」でしか見ることができない、けっして変化することのない物事の真の姿を指します。たとえば、三角形のイデアがあるとしたら、純粋な二次元の平面に、幅のない直線で描かれた三角形でなければならないわけです。それは、肉眼では見ることができませんが、魂の眼によって直感できるはずだとプラトンは言うのです。

★ いわば、目の前にある物はイデアの模像にすぎず、人間が感じとれる世界は、真に存在する世界であるイデア界の似姿に過ぎない。なにが真に存在する本物かという価値判断の基準をまったく逆転させたところに、プラトンの独創があるわけです。

★ いずれにせよ、人には「魂の眼」が備わっていて、その眼でしか見えない真の存在に近づくことを目指して生きることこそ正しい生き方というのが、プラトンの考え方でした。

★ おそらくプラトンは、先生のソクラテスを断罪したアテナイの現実政治に絶望し、これまでのアテナイを支配してきたいわば「なりゆきまかせ」、「なる」にまかせる政治哲学、さらにそれを支えている「なる」論理を否定し、ポリスというものは一つの理想、つまり正義の理念を目指して「つくられる」べきものだという新しい政治哲学を構想しようとしたのでしょう。それは、『国家』という対話篇で具体的に展開されています。しかし、そうした政治哲学を説得的に主張するには、ポリスに限らずすべてのものが「つくられたもの」「つくられるべきもの」だとする一般的存在論によって基礎づける必要があります。そうした一般的存在論としてイデア論が構想されたにちがいありません。

★ プラトンは、そうしたギリシア本来の、そしてアリストテレスにも幾分うかがわれる自然的思考に反逆して、「制作」を「自然」に従属させるのではなく、「制作」に独自の権利を認めようとする、いや、それどころかそれを軸にして「自然」を規定しようとしたわけです。そうすると「自然」は、「超自然的原理」を形どっておこなわれる「制作」のための単なる「材料・質料(ヒューレー)」としかみなされなくなる。つまり「自然」はもはや生きておのずから生成するものではなく、「制作」のための死せる質料(マーテリア)、つまり無機的な物質(マテーリアル)になってしまうのです。「超自然的原理」を立て、それを参照にしながら自然を見ようとする「超自然的思考様式」や、それによって基礎づけられる「制作的存在論」と、自然を死せる物質と見る「物質的自然観」とは密接に連動しており、これが以後の西洋の文化形成の方向を決定していくのです。

<木田元『反哲学入門』(新潮文庫2010)>





★ 喜びとともに息を凝らした。やはり彼だ。短いようで、長い時間だった。人けの絶えようとする、周囲の目からも奇妙なほど隔絶されている庭の中央で、指先にしばし、大きな複眼と透き徹った四枚の翅を載せていた。
<平出隆:『猫の客』(河出文庫2009)>


★ ――「雨の木(レイン・ツリー)」というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。
<大江健三郎:“「雨の木」を聴く女たち”(新潮文庫1986)>


★ なにものももはや目をだますことはない。インディオの女たちの目は、黒い入り江のようだ。青銅色の顔のなかで静かにきらめきつつ、見つめている。目は《魂》にいたる扉として見開かれることなど決してない。
  わたしたちの目の残忍さと貪欲。
しかしここには、河のほとりに立って動かない若い女の、見つめている目だけがある。<見つめている目>。
<ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫2010)>


★ 社会について何か考えて言ったからといって、それでどうなるものではないことは知っている。しかし今はまだ、方向は見えるのだがその実現が困難、といった状態の手前にいると思う。少なくとも私はそうだ。こんな時にはまず考えられることを考えて言うことだ。考えずにすませられるならそれにこしたことはないとも思うが、どうしたものかよくわからないこと、仕方なくでも考えなければならないことがたくさんある。すぐに思いつく素朴な疑問があまり考えられてきたと思えない。だから子供のように考えてみることが必要だと思う。
<立岩真也『自由の平等-簡単で別な姿の世界』(岩波書店2004)>







四月が逝ってしまう……今年も、


いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ 
  
<宮沢賢治“春と修羅”の一部>



4月になれば彼女は来る
雨で流れの水かさが増すころ
5月、彼女はとどまる
ぼくの腕のなかで安らぐ

6月、彼女は気分を変える
落ち着かず夜をさまよう
7月、彼女は飛んでいく
なんの警告もなしに

8月、彼女は死ななければならない
秋風が冷たく吹きはじめて
9月、ぼくはおもいだす
新しかった恋が、古びてしまったと

<Simon & Garfunkel :”April Come She Will ”>






世界の断片

2011-04-25 17:02:15 | 日記


★ ある日、3時ごろに訪ねて行った。みんな畑に出ていた。彼は台所にはいったが、すぐはエマの姿に気がつかなかった。窓びさしがしめてあった。板の隙間をもれて陽の光が細長い線を石畳の上に引き、なおその光が家具の角にあたってくだけ、天井にふるえていた。蝿が食卓の上の飲んだあとのグラスをつたってのぼり、底にのこった林檎酒におちこんでブンブンいっていた。煙突から落ちてくる陽光は暖炉の蓋の煤をビロードのように見せ、冷えた灰を青みがかった色にしている。窓と暖炉のあいだにエマが縫いものをしていた。肩掛けをしていないので、あらわな肩の上に小さな汗の粒が見えた。

<フローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫1965)>



★ 夕方になるころ、ジェロームはわめきはじめた。それで私は、だれかがわたしたちの家へ登って来るのを見るために、グランド・テラスから道を監視しなければならなかった。そこから眺めたビュグは美しい。私たちの牧場は美しい。そのあたり一帯の巨大な影のかたまりになっている私たちの森も美しい。テラスから地平線まではっきりと見える。リソール川の谷間にはところどころに、野や森や白い丘に囲まれた小さな農家がある。訪問者が登ってきたらどうすればよいのか、私にはわからない。にもかかわらず、私は道をしっかりと監視していた。だれかが現れたら最後の瞬間に、きっとある考えが浮かぶだろうと、私は自分に言い聞かせていた。心の底では、自分が落ちついていることを感じていた。太陽は傾き、影が長ながと丘の中腹に伸びていた。テラスのそばに木蓮の木が2本ある。ふと一輪の花が、私が肘をついている手すりの縁に落ちた。落花は、あるにおいというよりも、とても甘くて、すでに腐りかけたある味を発散していた。まさしく8月であった。

<デュラス『静かな生活』(講談社文庫1971)>



★ それから、きみの眼は、入口の扉のそばのがらんとした戸棚の隅に置き捨てられ埃まみれになっている地球儀のほうへと移った、そしてきみは、波濤や、黄昏のなかをきみの想像のなかでは椰子の木の生い繁るフィリッピン群島の岸辺へと南下してゆく帆船団を思い浮かべようとした、
そして、ごうごうと唸りをたてはじめた太平洋の波濤、島々のあいだの磯波のかなたから、幾人かのきみの級友がつぎつぎと黒板の前で答えている声を、ぼんやりと耳にしていた、彼らは私に言われて、地中海やアメリカ大陸を示す略図を黒板の上に自信なげに描いたり、
トルコ人のコンスタンチノープル奪取(それが私の最初の質問だった)、イサベル女王によるグラナダの奪回、教皇アレクサンドル6世ボルジアの調停による新大陸再分割などについての私の質問に答えたりしていたのだった、
ルネッサンスと宗教改革という、その日の課に入る前のことだ。

<ビュトール『段階』(集英社版世界の文学25 1977)>







どうして同情してはいけないのか

2011-04-25 12:44:59 | 日記


いままで、ちらほらしか読んでこなかったニーチェを、すこしまとめて読んでみようかと思う。

なぜ、“いま”ニーチェが読みたくなったか、わからない。

かつてニーチェは、“大言壮語するひと”のように、ぼくには思われた。
翻訳で読んでいても、やたらに“!”が多いのも、目障りであった。

わりと、“そういうこと”で、ぼくたちは、ある作家や思想家を嫌いになったりするのだ。

たとえば、“時代”は、ますます大きな物語をきらい、身の丈に合った、“小さいが具体的な物語”を必要としているとされる。

“理念”や“理想”がなくても、実行可能な具体的な“希望”が必要だと。
ぼくはこういう考えに特段反対したいわけではない。

しかし、そもそも、“大きな物語”と“小さな物語”の、ちがいを、どう“分類できる”のだろうか?

ぼくの悪い癖で、ある思想家を読んでいると、その“解説書”も読んでしまう。
“オリジナル”にダイレクトに接すれば、よいものを。

ニーチェについては(ついても)、たくさんの解説書があり、ぼくもその数冊をすでに持っていて、ちょこちょこ読んできた。

ここに引用するのは、比較的最近の、しかもいちばん“薄い”、神崎繁『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』である。

その最初のほうからいくつか引用する;

★ その日、ダヴィデ・フィーノ(トリノにおけるニーチェの家主)がポー通りで二人の警官に挟まれ、騒がしい群集に取り巻かれた教授(ニーチェ)を目撃したときの逸話が一つの分水嶺をなしている。フリードリヒ・ニーチェは、その数分前、辻馬車の馬の首にすがりついて、それ以上動かさないようにせがんだのである。御者が馬の四肢を殴りつける様子を見て、その動物に対する親愛を示さなくてはならないと感ずるほど甚だしい痛みを感じたのである。フィーノ家の者たちは教授を引き取った後、この事件を深刻に受けとめて、一人の精神科医、トゥリーナ博士に診断を求めた。(ポーダッハ『ニーチェの精神破綻』1930からの引用)

★ ニーチェの作品をあげよと言われれば、まず哲学的劇詩とも言うべき主著『ツァラトゥストラはこう言った』の名前をあげなければならないだろう。あるいは、『善悪の彼岸』を、箴言の集成である彼のその他の著作のなかでも、とりわけ整ったその構成ゆえにあげる人もいるだろう。また、「ディオニソス的な」非合理性を強調して、従来の明るく合理的な「アポロン的な」ギリシア像を転換した彼の処女作『悲劇の誕生』をあげる人もいるかもしれない。けれど、私なら、ニーチェの作品は、まず第一に彼の人生そのものだと答えたい。

★ たしかに、作品は作者から独立した存在であり、作者の伝記は作品の理解の助けになるどころか妨げになるという考え方もありうる。実際、ニーチェ自身、作品が作者の名前で判断され、個人の人格の表出とみなされることは、開かれた知性の営みに反すると考えていた。けれども、ニーチェの場合、実生活の方が彼の書きものに依拠し、それに浸透されているのではないかと思える場面がある。もちろんだからといって、そのことは彼の人生が何か予め決められたシナリオ通りのものであったと言いたいのではない。

<神崎繁『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』(NHK出版2002)>






人間機械;官僚的生活支配の現状

2011-04-24 16:56:48 | 日記


最近はやっていないようだが、マックス・ウェーバーというひとがいた。

そのひとが言っていることを読んでみた、テーマは<官僚制(ビューロクラシー)>;

★ ピューリタンは自ら進んで職業人になろうとした。――われわれは否でも職業人にならざるをえない。なぜなら、禁欲が寺院の僧坊を出て職業生活の中へ移され、世俗的なしきたりを支配し始めるにつれて、それは機械的生産の技術的、経済的前提に縛られている近代経済秩序の、あの強力な世界組織を作り上げるのに手を貸すことになった。この強力な世界組織は今日、――直接に経済的営利活動にたずさわっている人だけではなく――この歯車装置の中へ巻き込まれているすべての人々の生き方を、圧倒的な力をもって規定しており、おそらくは将来も、固形燃料の最後の一片が燃え尽きるまで規定することであろう。

★ この世のどんな機械装置も、この人間機械(ビューロクラシー)ほど精密には動かない。技術的、ザッハリッヒな観点からすれば、これを凌駕するものはない。しかし技術的基準だけが唯一の基準ではないのだ。……知識と意志とを持ちながら、われわれが、秩序を、秩序のみを必要とし、この秩序が一瞬でもゆらぐと、びくびく、くよくよし、ちょっとでもそれからはずれると途方にくれるような人間にならなければならなかったというのか。……問題は、残された人間性を、精神のこの機械化から、官僚的生活理想の独占的支配から守るために、われわれはこの機械装置に対して、何を対置すべきか、ということである。

<徳永淳ほか『人間ウェーバー』(有斐閣双書1995)から引用>



ウェーバーは、1920年に死んでいるから、“戦前のひと”ですね。

だが、どうして、この言葉が、この極東のこの島国の“現状”にあてはまってしまうのでしょう。

どうしてこれを読んでいると、“原子力安全・保安院”の記者会見でいつもしゃべっている人の顔が浮かんでくるのでしょうか!(笑)

しかし“官僚制”は、システムのことであって、個人のせいではありません。


今日も東浩紀君は以下のようにツィートしてます;

《震災直後の「これで日本が変わる!」が、「やべえまじでこれでも変わらないのかよ……」に変わりつつある。(単なる感想です、むろん変わるべきだと思ってます)posted at 12:26:44》(引用)


たしかにぼくも、震災直後には、“いくらなんでも、これで日本は変わるだろー”と思いました。

でも、ぜんぜんそうではありませんね。

<官僚制>はこの国の隅々まで“貫徹”してます。

《この世のどんな機械装置も、この人間機械(ビューロクラシー)ほど精密には動かない》!

菅とかいうひとを、とっかえても、どーにもなりません。

なにしろ、この国の<機械装置>は、勝手にはたらいているんです。

言語矛盾ですが、“麻痺するまで精密に機能している”のです。

だから、もちろん、“問題は”;

《残された人間性を、精神のこの機械化から、官僚的生活理想の独占的支配から守るために、われわれはこの機械装置に対して、何を対置すべきか、ということである》

ということです。

なんども言っているように、このぼくに、答えがあるわけでは、ございません。


それにしても、この、

《官僚的生活理想の独占的支配》

のすさまじさ!






2011-04-24 00:03:54 | 日記


★ 今、鐘がそのすべての力をもって、正午の12の鐘の音をその者の耳に鳴り響かせるとき、急に目覚めて「今の鐘はいくつ鳴ったのか?」と自問するかのように、わたしたちもしばしばあとになって耳をこすって、戸惑い、狼狽しながら尋ねるのだ。「わたしたちはあそこでそもそも何を経験したのか?」と。あるいは「わたしたちはそもそも誰なのか?」と自問するのである。そしてすでに述べたように、あとになって、わたしたちの体験や生や存在を震わせる12の鐘の音のすべてを数え直すのである――そしてああ何と!わたしたちは数え違いをするのだ……。わたしたちにとって、自己こそ見知らぬ者であらざるをえない。わたしたちがみずからを理解することなどない。わたしたちには「誰もが自分からもっとも遠いものである」という命題が、永遠にあてはまるのだ。――わたしたちは自分については、「認識者」ではないのである……。

★ 必要なこと、それは「現代的な人間」であってはならず、ほとんど牛になること、すなわち反芻することなのだ……。

<ニーチェ『道徳の系譜学』序―オーバーエンガディンのジルス・マリアにて1887年7月(光文社古典新訳文庫2009)>







生きるのに必要な最小のもの

2011-04-23 09:52:34 | 日記


今度の“震災と事故”で、ぼくが信じられなくなったのは、“信じる”という言葉である。

たしかに、“信じる”という言葉が、“信じられない”というのは、とても不安なことであり、不快なことである。

つまり、ぼくだって、ネガティブなことよりも、ポジティブなことを“信じたい”。

ネガティブな認識に“覚醒して”も、あんまり気持ちよいということは、ない。

そこで、“生きるのに必要な最小のもの”のリストというようなことを考える。

ぼくが若かった頃、読んだ『調書』という本の最初で、海辺の別荘地の家にもぐりこんだ、“ヒッピー”のような主人公が、“必要なもの”を紙切れに記入した;

モク
ビール
チョコレート
食うもの

新聞 もし
できたら少し
見て歩く


まあこれは、フランス(たぶんニース)のことであった。

時代が変わって、たとえばぼくは、“このパソコン”を必要としている。

しかし、“このパソコン”は、本当に必要だろうか?と思うのだ。
このパソコンは必要でない、という“結論”が得られたのでは、ない。

もちろん、上記のような(ぼくの)記述を読んだ人が、“このひとは(悪い意味で)文学的なドリーマーなんだ”と思うのは、自由である(つまり“正しい”)

しかし、ぼくには“文庫本”が必要である。

戦後(すなわち日本の敗戦後に生まれ)、ある年月が経過して、“ぼくに”良かったことは、文庫本の活字が大きくなったことであるような気がする。

良くないことは、ぼくの好きな本が、“すべて”文庫本になってはいないことだ。
たとえば、上記引用のル・クレジオ『調書』が、新潮文庫に入っていない。

もし、ひとつのカバンだけを持って逃げるなら、本は、文庫本数冊だけしか持てない。
もちろん、“本”を選ばない(持たない)ひとも、(当然)、いる。

しかし、中上健次の『熊野集』と『紀州』、ビュトールの『時間割』、オンダーチェの『イギリス人の患者』なら、文庫本で持ち出せる。


もちろん、ここでも、ぼくは自分の選択を、主張していない。
選択するのは、あなたである。

(つまり“本以外”を選択するのは、“あなた”である)


さて、今日の引用、昨夜読み終わった短編連作集より;

★ 車の窓からその川を見た時、彼は思った。
古座川の水は、車に乗った彼の眼からでも、海の潮が逆流し、脹れているのが分った。それがいつの時なのか分らなかった。それが夢なのか現実なのか、それともよく人がやるように記憶を合成したのかも判別つかなかった。彼はまだ小さかった。彼の下の娘と同じくらいの齢だった。古座で生まれ、十五の齢まで育ったが、気の強い母は、よほどの事がないと古座には帰らなかった。だが、彼のその記憶の中で月明かりの夜、母は川につかっていた。その川は底がスリバチ型になっているため、誰も泳ぐ者はないと、後で彼は知ったのだった。船がすぐそばにあった。
母が川につかって彼の名を呼んだ。
「ここへ来てみいよ、きれいな魚おる」
その声を彼は記憶していた。

★ 男らの集まるところ、春をひさぐ女は必ずいた。
椿の花が咲いていた。その花よりも、潮風が崖の下から吹きあがり、島の斜面に沿って密生した灌木の枝や葉の揺れるのが、彼には、まばゆかった。枝や葉がふるえ、揺れるたびに、一本一本、一枚一枚に当たった日が、下にこぼれ落ちている。彼にはそう見えた。海はその茂みの下から、串本へも古座へも広がっていた。町並みの向こうに、山々が重なっているのが見えた。ぼうっと白く日にかすんで見えた。日はここも、あそこも万遍なく照らしていた。

<中上健次“神坐(かみくら)”―『化粧』(講談社文芸文庫1993)>



中上健次は、“土着”だろうか、“世界性”だろうか。

むしろ、川、海、山々、そして町並みがある。
草、花、木、枝々がある。
風がおこり、日が散乱する。

そして土地の名がある、たとえば“古座”。

以上のこのブログにおいても、“土地の名”は呼び交わしている。

“古座”-“ニース”-“マンチェスター”-“南カイロ”

“路地”

ここに引用されていない土地、“シャティーラ”を思い浮かべても、よい。

“土地”に着く人々がいる。
“土地”を追われる人々がいる。

ぼく自身は、この“人生=LIFE”で、多くの土地を転々としてきた。
ぼくの“家系”は、東北であり、ぼくは仙台に暮らしたことがあるが、記憶はない。
すでに、記憶なき時から、ぼくはさ迷った。

母との暮らし、そして自分の所帯となってからも、引越しを重ねた。
自分が生まれた土地、の記憶はない。

そして、生活の基盤ではなく、訪れた土地もあった、単身赴任した土地もあった。
現実でなく、映画で、読書で、音楽で、体験した土地があった(“ネヴァ川!カリフォルニア!ベルリン!ニューヨーク!パリ-テキサス!アラキス!ツバメの谷!”……)

そこでも、その街でも、その荒野でも、日差しは散乱していた。
あるいは、街路に雨が降り、木々の葉を濡らした。

テレビで、“私の家に帰りたい”と泣く老婆を見た。

誰も、彼女を責めることはできない。

しかし、ぼくたちは、自分の土地に固着するわけではない。

生きるのに必要な最小なもの。




* 画像はニューヨーク・タイムズによる






言葉の力

2011-04-20 07:52:05 | 日記


東浩紀の今朝(2011/04/20)のツィート

☆ 言葉の力を信じている言論人なんてのは、言葉の機能についていちども真剣に考えたことがない単なる詐欺師だと思うな。
posted at 01:53:02

☆これからの日本の復興に思想や哲学がなんの役に立つか、なんて、役に立たないに決まっているじゃないか。
posted at 01:54:38

☆震災後ぼくが変わった点があるとすれば、外見取り繕うのがますますどうでもよくなったという一点だけです。なんかもう、すべてがどうでもいい。でもこれは震災前から感じていたことでもある。ぼくは哲学とか思想しかできないけれど、それは同時にほとんどなにも動かせない。そんなものです。
posted at 01:59:46

☆ぼくって、いったいなんのためにいっぱい本読んだんだろうなあ、とか最近ますます思う。
posted at 02:01:38

☆どうせ死ぬのに、ぼくの実になってなにか意味があるのか?w RT @ri_0 自分の実になったという実感はないのですか?(´・ω・`)私は勉強不足でもっと読みたいと思ってしまいます。RT @hazuma: ぼくって、いった
posted at 02:03:50

(以上引用)



上記の今朝の東氏の“感想”は、現在のぼくの“気分”ととても近い。

しかし、これらのツイッターでの東浩紀の“言葉”と、ぼくの“言葉”が同じであるかどうかは、それぞれの“これからの言葉との関係”によってあきらかになるだろう。


もちろん、ぼくは東浩紀のような有名人ではない。

ぼくの言葉が、外に向かって発せられるのは、このブログのみである。

“このブログ”はせいぜい日に、200人程度の“訪問者”を持つだけだ。

ぼくは誰に対しても、影響力を行使していない(行使“できない”)

だから、<言葉の力>は、他人のためではなく、あくまで、“自分のため”にある。






*画像はニューヨーク・タイムズによる






わたしたちの怠惰

2011-04-17 10:05:24 | 日記



宮内勝典:“海亀日記”から引用

2011年4月16日
 列車を乗りつぎながら東欧を巡(めぐ)っているとき、東日本大震災のニュースにぶつかった。家々が燃えながら押し流されていく映像に目を瞠(みは)り、声を失っていた。格安航空券の都合でイスラエルにもどり、荒野に延々と連なる壁の内側、パレスチナを歩きつづけていた。

 難民キャンプで働いているドイツ人のパソコンを借りて、ネットで調べていくうちに茫然(ぼうぜん)となった。地震、津波だけでなかったのだ。原子炉建屋の天井が吹き飛んでしまった原発を冷やそうと、陸空から海水を放水しているではないか。放射性物質がどこまで拡散したのか想像もつかない。
「きみたちにとっては、ヒロシマ・ナガサキ以来だね」
 と、ドイツ人青年がつぶやいた。まったく、その通りだと思った。わたしたちは、ついに三回目の被曝をしてしまったのだ。

 日本への旅客機は、がら空きだった。夕暮れの東京はどことなく雰囲気がちがう。ぎらぎら輝いていた街も、駅も、妙に薄暗いのだ。人びとは口を結び、黙々と日々の務めを果たしている。そうしてわたしも、奇妙に静かな日常へもどっていった。少年時代の停電の夕闇を思いだしながら。

(略)

 原発事故が起こってから、東京電力の経営者たちがテレビに出て会見している姿を見ると、ごく普通のサラリーマン経営者にしか見えない。電力会社こそが巨悪の根源だという漠然とした思い込みは、見事に裏切られる。かれらは経営者として、ただひたすら会社の利潤を追求してきたのだろう。

 では、巨悪の根源はどこにあるのか。かつての通産省なのか。官僚なのか。利権に群らがる御用学者や、政治家たちなのか。いや、かれらの悪など凡庸なものだ。闇の奥にひそむ巨悪など、どこにも存在しない。

 すべてが金、経済優先という時代の空気こそが、この破局を生みだしたのだ。わたしたち自身が原発を許容してきたのだ。知らず知らず、戦争のムードになり、気がつくと太平洋戦争に突入していたように、利潤追求という資本主義の御旗のもと、わたしたち自身がなしくずしに原発を許容してきたのではないか。

 経済原理主義、欲望、快適さといった時代の空気にどっぷり浸かっていたわたしたちこそが元凶ではないか。原発だとか、核廃棄物だとか、そんな鬱陶しいことを考えるのは先送りにして、とりあえずいまの快適さや日々の快楽を最優先させてきた。この地震国に55基の原発を許容してきたのは、わたしたちの怠惰にほかならない。

 わたしたちは「欲望=機械」となって回りつづけ、ものごとを直視するのを先延ばしにしてきた、わたしたちの怠惰やゆるみの結果が、この無惨な原発事故だ。ふるさとの大地を放射能汚染させてしまったのは、わたしたちの怠惰こそが真犯人だ。そうしてヒロシマ・ナガサキ以来、ついに三回目の被曝をしてしまった。

 たかだか数千年の文明史の人類が、原子力をコントロールできるとは思えない。わたしはピラミッド建造の時代ぐらいまでしか歴史を想像できない。そこが自分の想像力の限界だ。

 わたしたちは産業革命から二百年かそこらの技術しか持っていない。ところが、プルトニウムの半減期は何万年もつづく。人類にとっては、ほとんど永遠に等しい時間ではないか。どう考えても管理できるはずがない。いつの間にか、太平洋戦争に突入していったように、時代の空気のまま原発を許容してきた。明らかに判断を誤ったのだ。

 茨城の洋上風力発電機は、未曾有の大津波にさらされながら、いまも海辺で稼働している。わたしには光りをともす灯台のように見える。日本の総発電力量で、原発が占めるのは三割ぐらいだという。すべての原発を、いますぐ止めるわけにはいかないかもしれないが、太陽光、風力、水力、潮力、地熱、バイオマスなど、自然エネルギーによって三割を生みだすべきときがきたのだ。十年、二十年という長い時間がかかるだろうが、次なるエネルギーを模索していくしかない。決して、できないはずはない。全知全能を傾けるしかない。

 それが為されたとき、わたしたちは人類史の曲がり角をクリアできる。そのとき、わたしたち日本人も誇りをもって人類史に参画できるだろう。

 この稿を書きかけている途中、また余震がやってきた。戦時中の空襲警報のようだと感じながら、日本各地の原発がどうなっているか必死に目をこらす。そして朝がくると、微量の放射能が含まれている水道の水を沸かして、コーヒー淹(い)れ、みそ汁をすする。

 すぐ近くの公園では、いま桜が満開である。いつもは花見の宴で地響きがするほど盛りあがっているが、今年は静かである。内省すべき日がやってきたのだ。原発だけでなく、わたしたち自身をも冷やそう。






一歩

2011-04-16 08:33:26 | 日記


<事実>が<想定>を上回る

<事実>は、実際に起こったこと・起こることである。

<想定>は、人間が考えたこと・考えること=<言葉>である。

ゆえに、<想定外>とは、事実によって、言葉が無意味(無効)になることだ。

現在進行しているのは、このような事態である。

すなわち、“言葉の力”が、“あらゆる”言葉が無効になるとき、このときこそ、言葉にはいったいどのような力があるかが、ぎりぎり、試されるだろう。

それが、たんなる実務的な、復興政策でないことだけは、明瞭である。

たしかに、現在の事態をどこまで、“天災のせいにする”かは、問題である。

なにが“天災”で、どこまでが“人災”なのか?

また、“すべてのコスト”が問われる。

<原発>は、安いのか?

この場合、<安い>とは、いかなることを意味するのか?

“消費の停滞”とか、“成長が止まる”と言い続けるひとびとの、“経済(経営)的”根拠はなにか?

“ある種の資本主義”という今あるものにしか根拠を置けない頑迷な彼らの<常識>こそ破綻したのだ。

想像力ゼロの、現実主義=経済効率主義こそが、破綻したのだ。

まさに、<言葉の使用>こそが、まちがっていた。

たしかに、<言葉>を発明したひとはなく、ぼくたちは“いままであった”言葉のシステムのなかで、言葉を使用し始める。

ゆえに、“言葉の使用”は、保守的である。

ただただ、<言葉>に対して、受身であるならば。

しかし、“あらゆる領域で”、この言葉の保守性に抵抗し、たたかってきた人々はいる。

ぼくたちは、“それ”を読むことが(聞くことが)できる。

“それ”は、いわゆる<言葉>だけではなかった、映像も音楽も<言葉>であった。

もちろん、“想像力を持った言葉”は、この現実的=実利的な言葉とのたたかいに、敗れた。

なぜなら、この<現実>とは、あらゆる人々を生き延びさせるために、保身=保守の過程を強要するからだ。

“想像力あることば”は、ドリーマーと侮蔑され、あなどられるだけでなく、まさに、その言葉を愛し、発するものの、“現実”における敗北をもたらしてきた。

この“敗北”は、その言葉を発するものの、外からも、内からも、来る。

この“現代史”において、たとえば日本の“戦後”60余年において変化したもの、変遷したものも、このような<歴史>であった。

ぼくはたまたま、この時間を生きた。

むかし吉本隆明という思想家は、《敗北の構造》という言葉を使用した。
現在のぼくには、この《敗北の構造》という言葉を、吉本がどのような<意味>で使用したかわからない。

しかし、“いま”、この言葉が甦る。

まさに、“戦後日本”が敗北するとき、“ぼくの人生”が敗北するのだ。

しかし、<敗北>と言い、<敗戦>と言うのなら、その“比喩”は、<戦争>である。

ある時代の変遷とその結果を、ある人生の変遷とその結果を、“戦争の比喩”で語るのはただしいか?

人間の営みも、あるひとの人生の“いきざま”も、“たたかい=戦争”の比喩で語られるべきか?

“ひとは、あらゆるひとにとって狼”にすぎないのか?

この<弱肉強食>を隠蔽するために、“たがいのささやかな助け合い”のヒューマン・メロドラマだけが、際限なく演じられるのか?

もちろん、“私だけが目覚めている”のではない。

<私>もまた、この“与えられた言葉”のシステムのなかで、“あがいている”だけだ。

ただ、この幾重にも自縛するシステムから、“一歩”出たい。

この“多数者の言葉”から一歩。





*画像はニューヨーク・タイムズによる








直視する

2011-04-14 23:29:36 | 日記


ダイアモンド・オンラインに今日(2011/04/14)づけで上杉隆の文章が載っていた、貼りつける;

<福島原発事故レベル7は日本の「敗戦」。我々はいまその現実を直視しなくてはならない >

発生直後から指摘されていた「レベル6」の可能性

 ようやく日本政府がレベル7を認めた。だが、残念ながら遅すぎた、あまりに遅すぎたのだ。その「敗戦」を認めるのが――。
 少なくとも今回の事故が、その発生直後から、レベル6の事故に発展する可能性のあることは一貫して指摘されてきた。
 筆者自身は原子炉に詳しくない。だが、原子炉の構造や過去の同種の事故を知っている者に直接取材をし、そのほとんど全員が、当初から口を揃えてそのように指摘していたことで、この事故が政府や東電、さらには大手マスコミなどの言うような軽い事象では済まされないことに気づいたのである。

 私はすぐに取材を開始した。と同時に日本人として、この事実を広めなくてはと決心したのだ。
 本コラムやラジオあるいはツイッターなどで私の発言を知っている方々はご理解いただけるだろうが、結果として私の役割は、「最悪の事態(レベル7)」にならないために、政府や東電に直接訴えかけること、さらには彼らの隠している情報を暴き、住民や国民に提供することにあった。

 ちなみに、3月16日の午後の取材メモにはこう記されている。
 【再臨界の可能性。1号機、3号機の建屋爆発は重大事態。原子炉、冷却できず、燃料棒のメルトダウン。格納容器? 絶対的に壊れないというのは嘘? 3号機、MOX燃料。ヨウ素、セシウムが検出されれば、普通にプルトニウムも放出されている? 作業員への健康チェック。最低30キロ圏外への住民避難。妊婦、赤ちゃん、思春期前のこども、緊急避難が不可欠。最悪の場合 チェルノブイリ化(石棺?)も】

 正直に告白すれば、この時点での私はまだ原子炉についての知識を持ち合わせていなかった。そのためか、このメモにも、原子力の専門用語に疎い部分が窺える。
しかしその後、朝から晩まで取材を続けたり資料を読み込むことで、徐々に理論武装ができてくる。
 そのうち、私は取材をしながらも、直接的にこうした危険性について、政府、東電に訴えかける必要のあることに気づいた。しかもそれは急務であるように思えた。
 一方で、それはひどく困難な仕事になることも容易に想像が付いた。
 なぜなら、3号機の建屋が吹き飛んだ15日、「米国とフランスの新聞がそれぞれメルトダウンの可能性に触れている」とラジオなどで発言しただけで、想像を超える大量の批判が私のツイッターに寄せられていたからだ。


異論は排除され、多様な言論が併存できない未熟な言論空間

 これを続けるとどうなるのか。不安がなかったといえば嘘になる。
 それでは、テレビや新聞に登場して安全地帯からものを言っている御用学者や御用評論家のように根拠の無い「安全デマ」を飛ばせばいいのだろうか。実は、日本において、それはとても簡単な選択だ。
 しかしながら、私はそうすることができなかった。なにしろ、自分自身に嘘をつくわけにはいかないのだ。では、仮に、私の指摘がすべて間違いになったらどうなるのか。
 それはそれで日本にとっては良いことである。作業員の安全が守られ、地域住民は再び自分たちの家に戻り、普通の生活ができる。その可能性は薄そうだったが、それでも日本人である私にとってもそれは最良のシナリオであった。
 そして私自身は、嘲笑の対象になり、世に晒され、想像を絶する非難を受けることになるだろう。なにしろ日本の言論社会ほど未熟な場所はない。記者クラブ制度によって異論は排除され、多様な言論が存在する場が完全に失われている。よって私は覚悟を決める必要があった。
その結果、ジャーナリストという肩書きは失われるであろうし、おそらく日本の言論界から永遠に追放されることにもなるだろう。
 だが、それだけで済むことだ。命まで奪われることはない。
 むしろ命を奪われそうなのは何も知らされず作業に当たっている現場の作業員や地域住民の方だ。私はすぐに覚悟を決めた。
 こうして政府、東電への取材を開始しながら情報を発信することを始めたのだ。


「最悪のシナリオ」を明らかにし、それをいかにして止めるか

 そうした中で、きわめて残念ながら、現実は大手メディアの言うような「最良のシナリオ」――(そもそも情報分析の前提が違っているので「最良」というものがなかったのだが)――にはならないことがわかった。たとえば、1号機、3号機の建屋の爆発時から、その危険性がなくなったことはただの一度もない。にもかかわらず、政府やテレビは「安全」と「安心」を繰り返していた。
 この一ヶ月間、私が訴え続けてきたのは「最悪のシナリオ」に進行する可能性を突き止め、それをいかにして止めるかという一点に尽きる。
 だから、メルトダウンが始まっている可能性、格納容器が破損している可能性、猛毒プルトニウムが放出されている可能性、海洋汚染の始まっている可能性、避難地域外にも放射性物質が飛来している可能性、東京にも飛んでくる可能性を指摘してきたのだ。

 これらの指摘は残念ながら、結果としてすべて正しかった。これは結果論で言っているのでもないし、また、自身の指摘の正しさを誇るつもりで書いているわけでもない。
 もはやレベル7を政府が認めた現在、私の役割は終わった。
その結果残ったのは、私自身の無力感と大手メディアによる「上杉隆」という存在の徹底した無視である。しかも、この結果が出ていても「いい加減なデマを飛ばした」「根拠無く煽っている」というレッテルを貼られている。
 耳を疑うような「安全デマ」を、繰り返しテレビや新聞、ネットなどで述べ続けた御用学者や御用評論家たちは健在であるのにもかかわらず、である。
 日本にフェアな言論空間が育つ可能性は薄いのだろう。国民は嘘に踊らされ、現実を直視できずに洗脳される方が楽なのだ。国民は仕方ない。問題は、大手メディアやそこに登場する発言者たちである。


取材の「現場」を踏まず、偽情報に踊らされる人々

 本来、真実を伝えるべき仕事をする者たちが、次々と政府・東電のプロパガンダに騙されたのには理由がある。
 ひとつは、記者クラブ制度に洗脳された日本の言論空間が、不幸なことに機能してしまったこと。
 もうひとつは、それと関係するのだが、テレビや新聞などで発言する評論家やコメンテーターやジャーナリストほど、現場に来ないために、東電や政府の偽情報に踊らされてしまう傾向が強いという現実だ。

 原子力事故の取材現場は二つある。
 ひとつはもちろん、事故現場である福島第一原子力発電所だ。だが、その取材には大きな制約がある。人間である以上、誰一人、原子炉の中を見ることはできないことからわかる通り、確実な死を覚悟しない限り、本当の現場にはいけないからだ。
 もうひとつは情報の集まる東京電力や原子力・保安院、そして政府への現場取材である。換言すれば記者会見など情報現場への取材である。
だが、東京の目と鼻の先で行なわれている記者会見ですら、ニュースキャスターや御用学者、御用評論家、ITジャーナリストたちは足を運ぶことはなかった。


「大本営発表」を終わらせて世界各国の力を借りるべき時

 レベル7になった現在、日本がすべきことは限られている。
 米国にいる私のもとには、日本から次々と情報が入ってくる。楽観的なものはひとつもない。それぞれの現場には相当の緊張が求められていることだろう。
 福島第一原発の原子炉設計者とは毎日電話をしている。この一ヶ月間、連絡を欠かさなかった東電協力会社の作業員とも話している。総務委員会、法務委員会所属の国会議員とも連絡を取り続けている。民主党幹部、大臣クラスの政治家とも可能な限り情報を交換するようにしている。
 その結果、いまできることは世界との情報の共有であり、本コラムでも提案した「国際緊急チーム」による事故対応に尽きる。
 菅首相や枝野官房長官を筆頭として、政府は結果として、東電の情報隠蔽に協力し、国民を欺いてきた。
 また、民放テレビを中心に大手メディアも、その「大本営発表」にまんまと乗っかり、誤った自説にこだわることで嘘をつき続けてきた。
 また、インターネットの世界でも、ITジャーナリストの佐々木俊尚氏を筆頭に、どの現場取材も行なわないネット有名人たちがいまなお同じ過ちを繰り返している。

 いまの未熟な日本の言論社会ではそうした人々に、ただちに、批判の矛先が突きつけられることはない。その代わり、将来、彼らは歴史に断罪されるだろう。
断罪は今ではない。いつか、この事故を、日本人が冷静に振り返ることができるようになったそのときに初めて行なわれるはずだ。
 あるいはそれはまた、70年ほどかかるのかもしれないし、もしかして永久にできないのかもしれない。
 だが、そんなことはもはやどうでもいい。レベル7は日本にとっての「敗戦」なのである。私たちは、いまその現実を直視しなくてはならない。

<ダイヤモンド・オンライン ”週刊・上杉隆”2011/4/14>






東京電力福島第一原子力発電所

2011-04-14 22:36:41 | 日記


(ウイキペディアによる、2011/04/14現在;脚注・出典はカットした)

年表
· 1960年(昭和35年)11月29日 :福島県から東京電力に対し、双葉郡への原子力発電所誘致の敷地提供をする旨を表明する。

· 1961年(昭和36年)9月19日 :大熊町議会にて原子力発電所誘致促進を議決する。
o 10月22日 :双葉町議会にて原子力発電所誘致を議決する。

· 1964年(昭和39年)12月1日 :東京電力が大熊町に福島調査所を設置する(65年福島原子力建設準備事務所、67年福島原子力建設所となる)。

· 1966年(昭和41年)1月5日 :公有水面埋立免許の許可を申請する。
o 7月1日 :1号機の原子炉設置許可申請を提出する。
o 12月1日 :1号機の原子炉設置許可を取得する。
o 12月23日 :漁業権損失補償協定を周辺10漁協と締結する。

· 1967年(昭和42年)9月18日 :2号機の原子炉設置許可申請を提出する。
o 9月29日 :1号機を着工する。

· 1968年(昭和43年)3月29日 :国が2号機の原子炉設置を許可する。

· 1969年(昭和44年)4月4日 :福島県と東京電力の間で「原子力発電所の安全確保に関する協定」が締結される。
o 7月1日 :3号機の原子炉設置許可申請を提出する。

· 1970年(昭和45年)1月23日 :国が3号機の原子炉設置を許可する。
o 1月26日 :1号機に最初に装荷する燃料がこの日と2月4日にGE社ウィルミントン工場より運び込まれた。
o 7月4日 :1号機において核燃料を初めて装荷する。
o 11月17日 :1号機の試運転を開始する(翌年5月11日に記念式典を実施する)。

· 1971年(昭和46年)2月22日 :5号機の原子炉設置許可申請を提出する。
o 3月26日 :1号機の営業運転を開始する。
o 8月5日 :4号機の原子炉設置許可申請を提出する。
o 9月23日 :国が5号機の原子炉設置を許可する。
o 12月21日 :6号機の原子炉設置許可申請を提出する。

· 1972年(昭和47年)1月13日 :国が4号機の原子炉設置を許可する。
o 12月12日 :国が6号機の原子炉設置を許可する。

· 1974年(昭和49年)7月18日 :2号機の営業運転を開始する。

· 1976年(昭和51年)3月22日 :「原子力発電所周辺地域の安全確保に関する協定」を「立地4町を加えた三者協定」へと改定する。
o 3月27日 :3号機の営業運転を開始する。

· 1978年(昭和53年)4月18日 :5号機の営業運転を開始する。
o 10月12日 :4号機の営業運転を開始する。

· 1979年(昭和54年)10月24日 :6号機の営業運転を開始する。

· 2000年(平成12年)1月7日 :3号機において実施予定であったMOX燃料の装荷について延期する旨を県知事に報告する。

· 2001年(平成13年)2月26日 :佐藤栄佐久福島県知事(当時)が3号機プルサーマル計画について、当面許可しない旨を表明する。

· 2002年(平成14年)8月29日 :東京電力、原子力安全・保安院が原子力発電所における点検・補修作業の不適切な取り扱いについて公表する。
o 10月25日 :東京電力が1号機の原子炉格納容器漏洩率試験における不正に関する報告書を経済産業省に提出する。また、1号機の1年間の運転停止処分を受ける。

· 2003年(平成15年)4月15日 :定期検査時期等も重なり、東京電力の運転する原子力発電所全号機が運転を停止する。
o 7月10日 :佐藤栄佐久福島県知事(当時)が6号機の運転再開を容認する。

· 2005年(平成17年)7月30日 :1号機の運転を再開する。

· 2006年(平成18年)12月5日 :1号機における復水器海水出入口温度測定データの改ざんについて報告する。

· 2007年(平成19年)7月24日 :新潟県中越沖地震による柏崎刈羽原発での事故を受け、日本共産党福島県委員会、同県議会議員団、原発の安全性を求める福島県連絡会が連名で東京電力に対して「福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ」を提出した。

· 2010年(平成22年)2月16日 :福島県知事は2月定例県議会で、東京電力が福島県に申し入れていた福島第1原発3号機でのプルサーマル計画実施について、条件付で受け入れることを表明した。同知事は、昨年から県エネルギー政策検討会を再開して検討してきたこと、核燃料サイクル推進という国の方針、玄海原発でのプルサーマル発電の開始などに言及、受け入れる考えを述べた
o 6月17日 :福島第一原発2号機で電源喪失・水位低下事故
o 9月18日 :3号機のプルサーマル発電、試運転開始。
o 10月26日 :3号機のプルサーマル発電、営業運転を開始。

· 2011年(平成23年)3月11日 :東北地方太平洋沖地震とその後の大津波で、外部からの電源と非常用ディーゼル発電機を失い、「全交流電源喪失」状態に陥ったことで、原子炉や使用済み核燃料貯蔵プールの冷却水を循環させる機能と非常用炉心冷却装置の機能を完全に喪失した。これにより、地震発生まで稼働中だった1、2、3号機についてはポンプ車などで緊急に燃料棒を冷却する必要が生じ、3号機と4号機の使用済み核燃料貯蔵プールについても注水して冷却する必要が生じた。この注水過程で建屋内での水素爆発や放射性物質の大気中への漏洩が発生し、日本社会や経済と国際社会に甚大な影響を与えている。1〜4号機は廃炉となる。

詳細は「福島第一原子力発電所事故」、「福島第一原子力発電所#主なトラブル」をそれぞれ参照





主なトラブル

下記は報告された大きなトラブルであり、小規模な事故は建造当初から発生している。
「原子力事故」も参照

1976年4月2日 2号機事故
構内で火災が発生したが外部には公表されなかった。しかし田原総一朗に宛てた内部告発により事故の発生が明らかになり、告発の一ヶ月後東京電力は事故の発生を認めた。東京電力は「溶接の火花が掃除用布に燃え移った」と説明したが、実際にはパワープラントのケーブルが発火し、偽装のため東京電力社員がダクトの傍でボロ布を燃やしたという噂が下請社員間で流れた。

1978年11月2日 3号機事故
日本初の臨界事故とされる。この事故が公表されたのは事故発生から29年後の2007年3月22日になってからであった。

1990年9月9日 3号機事故
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。INESレベル2。

1998年2月22日 4号機
定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。

2010年6月17日 2号機
電源喪失・水位低下事故。3号機をプルサーマル化する矢先、2号機で冷却機能不全になる事故が発生。

2011年3月11日 1・2・3号機
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とその後の大津波で、外部からの電源と非常用ディーゼル発電機を失い「全交流電源喪失」状態に陥った。事故の詳細と経緯については福島第一原子力発電所事故・福島第一原子力発電所事故の経緯の記事をそれぞれ参照。







わたしの身体

2011-04-14 13:59:52 | 日記



★ してみると、身体が比較され得るのは、物理的対象にたいしてではなく、むしろ芸術作品にたいしてだ、ということになる。一つの絵画、一つの楽曲において思想(画想または楽想)が伝達されるのは、色彩なり音なりの展開を通じて以外にはあり得ない。

★ 一篇の小説、一篇の詩、一幅の絵画、一曲の音楽は、それぞれ不可分の個体であり、そこで表現と表現されるものとを区別することのできないような存在、直接的な接触による以外にはその意味を手に入れることはできぬような存在、現に在るその時間的・空間的位置を離れないでその意味するところを放射するような存在である。われわれの身体が芸術作品と比較し得るというのは、そういう意味においてである。

★ われわれの身体は、いくつかの生きた意味の結び目であって、幾つかの共変項の法則といったものではない。腕の或る触覚経験は前腕と肩との或る触覚経験を意味(指示)し、さらに同じ腕の或る視覚的様相を意味(指示)するものだが、その理由は、その腕のそれぞれ違った触知覚、および触知覚と視知覚が、あたかも一つの立方体のさまざまな側面図がその立方体のイデアに与るように、すべて叡智家における同一の腕に与るからではなくて、むしろ、見られた腕と触れられた腕とが、腕のさまざまな部分として、すべて一緒になって同じ一つの所作をなすからなのである。

<メルロ=ポンティ“自己の身体の綜合”―『知覚の現象学 1』(みすず書房1967)>







“想定外”と“予知”

2011-04-14 10:05:29 | 日記


起きてパソコンをひらき、googleニュースを見たら、以下の見出し;

《大震災「想定できたはず」=東大教授、政府予測を批判-英科学誌に寄稿》

ぼくは、東大にも“良識的な学者がいたのか”と喜んだ。

しかし、なんとこの東大教授は、“日本人ではない”、ロバート・ゲラー東大大学院教授(地震学)というひとであった。

このニュースについて、二つの報道を貼り付けておく;


<大震災「想定できたはず」=東大教授、政府予測を批判-英科学誌に寄稿>

「世界の地震活動と東北地方の歴史が考慮されていれば、東日本大震災は想定できたはずだ」とするロバート・ゲラー東大大学院教授(地震学)の寄稿が14日、英科学誌ネイチャー電子版に掲載された。政府の地震調査研究推進本部が行ってきた地震予測などを批判する内容となっている。
 ゲラー教授は、日本で1979年以降に10人以上が死亡した地震が起きたのは、同本部の予測で発生確率が比較的低いとされる場所だったと指摘。予測が誤った理論に基づいていると主張した。
 一方、世界各地のプレート沈み込み部分でマグニチュード9以上の地震が起きていたことや、東北地方に大津波をもたらした貞観地震(869年)、明治三陸地震(1896年)を紹介した上で、「特定の時期、震源やマグニチュードを予測できなくても、3月11日の地震は『想定』できたはずだ」と訴えた

(時事ドットコム2011/04/14-04:01)


<「地震予知、即刻中止を」 東大教授、英誌に掲載>

 「日本政府は不毛な地震予知を即刻やめるべき」などとする、ロバート・ゲラー東京大教授(地震学)の論文が14日付の英科学誌ネイチャー電子版に掲載された。
 「(常に)日本全土が地震の危険にさらされており、特定の地域のリスクを評価できない」とし、国民や政府に「想定外」に備えるよう求めた。
 「今こそ(政府は)地震を予知できないことを国民に率直に伝えるとき」とも提言しており、世界的な学術誌への掲載は地震多発国・日本の予知政策に影響を与える可能性もある。
 論文では、予知の根拠とされる地震の前兆現象について「近代的な測定技術では見つかっていない」と指摘し、「国内で1979年以降10人以上の死者が出た地震は、予知では確率が低いとされていた地域で発生」と分析。マグニチュード8クラスの東海・東南海・南海地震を想定した地震予知は、方法論に欠陥がある、としている。
 教授は「地震研究は官僚主導ではなく、科学的根拠に基づいて研究者主導で進められるべきだ」として、政府の地震予知政策の根拠法令となっている大規模地震対策特別措置法の廃止を求めた。
また、福島第1原発事故についても「最大38メートルの津波が東北地方を襲ったとされる1896年の明治三陸地震は世界的によく知られている」とし、「当然、原発も対策されているべきで、『想定外』は論外だ」とした。

(2011/04/14 02:02 【共同通信】)





また、信濃毎日新聞には以下の主張がある;


<原発の監視 透明性の高い新体制を 4月14日(木) >

 発生から1カ月がたっても収束の見通しが立たない福島第1原発の事故は、日本の原子力行政の根深い問題点をあらためて国内外に示すことになった。

 日本の原発の安全性は、経済産業省の原子力安全・保安院と、それを監督する内閣府の原子力安全委員会が二重にチェックする体制になっている。

 お目付け役が二つもあるのに、今回の事故をめぐって、この体制が機能していない。2年前には大津波の被害に遭う危険性が指摘されたのに第1原発に「安全」のお墨付きを与えたほか、事故後の対応も後手後手である。

 国民の監視の目が行き届かない組織に原発の安全確保を委ねることはできない。役目の限界が見えた以上、政府は責任を持って透明性や中立性を保てる新しい体制の構築を急ぐべきだ。

 保安院は、2001年の省庁再編で経産省内に設けられた。東海村臨界事故を受け、旧通産省と旧科学技術庁に分散していた安全規制をほぼ一元化した。

 経産省は原子力政策を進める立場の役所である。その下に保安院が置かれたことで、原発の安全性にとって重要な中立性が疑わしいものとなった。内部で批判しにくくなった面がある。

 内閣府にある安全委は1978年、原子力船むつの事故をきっかけに設けられた。有識者5人で構成され、原発の安全にかかわる多くの専門家を擁している。

 本来の役割を考えれば、事故直後から活発に動くべきなのに、期待に応えていない。初めての記者会見を開いたのは事故発生から12日もたった3月23日だった。遅れを批判する声に、トップの班目春樹委員長は、「黒子役」に徹していた、などと語っている。

 今回、保安院が事故の深刻度を「レベル7」に引き上げたことをめぐっても対応がちぐはぐだ。委員の一人が先月23日の時点でレベル7の危険性を認識していた、と明かしている。

 一刻も早く放射性物質を閉じ込めなくてはならない時である。政府部内での足並みの乱れは、国民を混乱させるだけだ。

 菅直人首相はようやく経産省からの保安院分離を検討する姿勢を見せ始めているが、遅きに失した感は否めない。

 当然、安全委も見直すべきだ。政府からの独立性を強めるなど、事故の教訓を生かし、原発の安全性を厳しく審査できる機関にする必要がある。今の甘い体制のままでは国民の不安は消えない。

(信濃毎日新聞2011/04/14)