Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ぼくの好きなひと

2010-07-20 12:20:32 | 日記

たとえば、“ぼくはミシェル・フーコーが好きだ”というのと、“ミシェル・フーコーは偉大な現代思想家である”と言うことは、ちがう。

“ぼくはビートルズが好きだ”ということと、“ビートルズは最高の音楽を生み出した”ということは、ちがう。

すでに勘のよい“読者”は、ぼくが言いたいことが、“わかる”。

なに、わからない?!

ここから、“言葉”は、はじまる(爆)

ついでに言っておくと、フーコーというひとは、ぼくにとって、好きか嫌いか、わからないひとである。
こういうこともある。


まあ、あるブログ(このブログの“名”を出してもいいのだが、なんとなく、やめておく)で中学校の国語の先生が書いている;

《まず教材がよかった。まど・みちおの「イナゴ」。教育出版の6年生の教材だそうだが、さすがにまど・みちおといった感じの素晴らしい詩。平易な表現で哲学的。構造主義的な分析にも、実存主義的な鑑賞にも堪えうる、見事な言葉の芸術。戦後の詩人としてはまさしくナンバーワンである。ぼくは「谷川俊太郎よりも5万倍すごい詩人」とよく言う(笑)》(引用)


上記の“ような文章”をどのように“読めば”よいのだろうか?

いちばん“正常な”反応は、“ふ~ん”と思うことである(笑)

ひとの書いた文章に、“いちいち反応して”いては、身がもたない(つまり、疲れる)

しかも<いちいちひとの文章に反応しているひとの文章を読まされるのは、もっと疲れるかもしれない>(この“文章”は自分でも満足がゆく“表現”である;笑)

ぼくは(前のブログ)Doblogのとき、谷川俊太郎の詩をしばしば引用した。
谷川の詩集を何人かのひとに、プレゼントしたこともある。

数年前、辺見庸の講演会で、辺見は谷川を激しく非難した。
当時、谷川の詩が使われていた生命保険会社のCMを非難したのだ。
それ以来、ぼくは谷川俊太郎の詩を“引用”していない。

しかし、“それ”は、辺見の怒りに深く共感したというわけではない(つまり辺見の言っていることは“ただしい”と思ったけれど)

“なんとなく”引用しなくなったのである。
しかし、谷川の“いくつかの詩”が好きであることは、まったく変わらない。

反対に、ぼくは“まど・みちお”の名を知っていても、その詩を“読んだことがない”。

だから、《戦後の詩人としてはまさしくナンバーワンである。ぼくは「谷川俊太郎よりも5万倍すごい詩人」とよく言う》と言われても、わからない。

しかも、谷川より‘まど’が、《5万倍すごい詩人》かどうかを“検証する”ために、‘まど’を読んでみようとも思わない。

まったく、困ったこと、である(笑)

そもそもこの“中学先生”のブログとは、Doblogの時に係わりがあった、このgooになってからも、一度コメントをもらったと思う。
それで、ときどき、彼のブログを見るのである。

そして、“ぼくの偏見”によると、このひとは“まじめで熱心な先生”ではあるが、このひとの<趣味>(おもに“音楽”)というのは、ぼくにはまったく“感傷的”に思えるのである。

“だから”ぼくには、彼の“詩の評価”も信頼できない。

けれども‘まど・みちお’の詩が、‘谷川俊太郎’の詩より“感傷的でない”可能性もあるのである。

けっきょく、自分が好きなものは、たんに好きなのである。

だれがなんと言おうと、好きなのである(笑)

ただこの場合、“問題”なのは、まず、そのことを知っているか(自覚しているか)である。

つぎに、“多くの人が好なものを、私は好きである”という“好き方”である(笑)

つぎに、“私が好きなものは、多くの人が好きになるはずだ”という予断である。

さて、“ひさしぶりに”、谷川の詩を引用しようではないか!;

あなたは二匹の
うずくまる猫を憶えていて
私はすり減った石の
階段を憶えている

もう決して戻ってこないという
その事でその日は永遠へ近づき
それが私たちを傷つける
夢よりももっととらえ難い一日

その日と同じように今日
雲が動き陽がかげる
どんなに愛しても
足りなかった

<谷川俊太郎 “時”― 『手紙』(集英社1984)の最初にある)




さて、Amazonから今、昨日注文した本が届く。

はじめてよむひと、細見和之『「戦後」の思想』(白水社2009)である。

谷川を読まずに、この本を読む(笑)





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