¢$..$ぶごる

書きたいこと書くの。コメント・トラバは不可設定です。

タワーレコードで三点ほどお買い物ー

2006年04月27日 21時59分17秒 | 音楽(ゆず)
1:雑誌luckyraccoon(ゆずが表紙)
2:SABOTEN「ISLAND」
3:チキンリトルのDVD

もちろん1が目的で行ったわけですが。

2は知らない人だけどーまんまとタワレコにやられてー
視聴したらうっかり買っちゃってー
これがいかにも衝動買い系のサービス精神満点パンクでさー
キャッチャーでなおかつちょっと郷愁混じり、みたいな

あ、パンクといえばZEBRAHEADのアルバムは結局買っていないわ。
やっぱりボーカルが変わると違和感が・・・

3はハイ、買う気満々で!もう買う気満々で!
トコトコ歩くチキンリトルのおまけつき!!
「特典入れときますんで」
とそのトコトコチキンリトルを見せられた瞬間、


にや。


ってしちゃったv
お店の人はきっとむっちゃ怖かったね☆


って違うんだよ、本題ははいはい、ラッキーラクーン♪


↓ここから先はバレですよ(多分)↓
















いやぁ、読んだら後悔、やっぱ追加公演買っておけばよかった~

ゆずがいかに客を大事にしてるのか、いかに一つ一つのライブに全力投球なのかってのがひしひしと伝わってくるんだわ~

見えづらい端っこの客を気にして、精一杯フォローして、親子席で疲れちゃったお母さんが座ってるのが見えると楽しそうに話す、先輩(小田さん)にMC気合入れろと言われたら真面目に受け止めてすぐ実行する、リハビデオは毎度家でチェック、ツアー中は打ち上げも行かず地味な自己管理生活、そんな二人組みなわけですよ。

そしてツアー後のことはあまり考えてない、考えられない。
とにかく今のツアーをやり遂げることしか考えられない。

目の前にある全てのことに汗をかけ・・・・!

もうプロの鑑ですよね、素晴らしいミュージッシャンですよね、ゆずって最高ですよね天才ですよね神ですよね
ライブ動員数多いのは納得納得
私も友達にライブに連れてってもらったのが、本格的にファンになるきっかけだったしなぁ

その他個人的にツボだったポイント
(※ひつじ超訳につき実際と異なる場合があります)

・小田さんのことは最初びびってました
・イベントで佐野さんの本来の姿見たらすごい人でした、フリル着せたりして本当すみません
・キヨシローとコイバナ
・向かい合うのはやらされてますから。
・演出ですから。
・まだこの話するんですか?
・二人はしゃべりませんよ。
・そこ触れないで下さい。
・ていうかしゃべりませんから
・この質問はもう終わりにしてくれませんか?
・しゃべりません
・だからしゃべりません
・あと向かい合うのは演出ですから

・北・岩の区別ついてないで声かけてくる人けっこういます
・ゆずはゆずなんでしょうね



感想:
この二人はいま、最高に良いテンションで「ゆず」やってんだなぁーって
だからゆずのライブはこんなに楽しいんだね!

陰口に加害者意識ゼロであること

2006年04月22日 23時45分24秒 | その他
「もしもその人が私の一言によって方向を変えるとしたら
私は今までどれだけの人を動かして来たことになるんだろう?」
(from Bonnie Pink「Do you Crash?」)


陰口について語りたい。
ここで使う「いじめ」とは暴力的な激しいものではなく、陰口や無視のような、陰湿なもののことです。

「いじめられた」記憶は残るけれど、「いじめた」記憶はすぐに消えてしまう。
「いじめられている」という認識は強いけれど、「いじめている」という認識は非常に薄い。
だから世の中からいじめはなくならない。

と思っております。


知り合いに、明らかにいじめっこ側の人がいました。
気に食わない人は陰口を言いまくり、「みんなで」その人を嫌うように仕向ける、
ターゲットと仲良くする人は、逆鱗に触れてまたターゲットにされる、という恐ろしさ。


そんな彼女はこう言っていました

「私、昔いじめられてたんだ」

と。
その言葉に嘘はなさそうです。
確かに彼女はいじめられていたのだろうと思います。

だがしかし、じゃなんで今はいじめっこ側なのかしら。
近頃人格が変わったのかしら。

多分、そうじゃないと思うんだなぁ。
きっと、いじめられた経験と同じくらい、誰かをいじめた経験もあったはず。
人間性ってそう簡単には変わりませんもの。

で思ったこと。


ああ、人は、いじめられた記憶は残るけど、いじめた記憶は残らないんだ。


「いじめはよくない」と言う人は、きっと自分をいじめられっこ側に同化させ、いじめられっこ側に感情移入しているんだろう。
それだったら、よくないって思って当然だよね。

でもそれじゃ駄目なんだ。

自分が加害者であったことは本当にないのか?

それを自問しないと。


記憶だけじゃなくて、現在進行形でいじめている人の多くが、自分がいじめている、という自覚はないような気がする。

「こんなムカツクことを言われた」
「性格悪いくせに美人で彼氏がいて男や上司には好かれてるから許せない」
「空気読めない奴」
「無口だから、いると場が暗くなって困る」
「怠け者で非協力的でみんな迷惑している」

だからどうした、である。

そういった「怒り」や「嫉妬」や「迷惑」は、いじめのなんらの免罪符にならない

そこを勘違いしている場合が多い気がする。
相手に対する怒りや嫉妬や迷惑感情が、いじめることの罪悪感を、心理的に中和してしまっているのだ。

「いじめっこ」が「いじめられっこ」に対してどれだけ怒っていようが、どれだけ迷惑していようが、そんなことは問題ではない。

問題は、相手に対する怒りの解消の仕方なのだ。


ムカツクことを言われたなら、たった一人で相手に対峙し

「そういう言い方はないんじゃない?」

と言わねばならない。
それがやり方ってものだ。

それを、陰で友達に"相談"と称して

「あの子にこんなこと言われたの~」

なんて言えば、それを聞いた人が、"あの子"に悪い印象を抱くようになるかもしれない。

「ひっどーい、そんな風に見えないけど、あの子って性格悪いんだね」

"あの子"は実は、悪い意味でその言葉を言ったわけではないかもしれない。
まったくの誤解であるかもしれない。

面と向かって「そんな言い方すんなよ」と言われれば、誤解を解くこともできる。

けれど陰口の場合、"あの子"に言い訳する機会は与えられていない。
それが嘘でも誤解でも、訂正する余地はまったくない。

そうして、その人の手の届かないところで、その人を貶める噂が広がっていく。
その人が動かなくても噂は動く。
その人が知らない間に、その人が何者であるか決められていく。
たとえば「性格の悪い人」「仕事をしない人」など。
その人の全く手出しできない場所で、その人のパーソナリティが決定される。

陰口とは、被告人不在で行われる、まったく一方的で不当な裁判である。
それ自体が許されざる暴力だ。

何一つ罪を犯さなくても、その人はいずれ、いつの間にか、周囲からまるで罪人であるかのように扱われていることだろう。

何一つ罪を犯さず、人としての尊厳を剥奪される。

そして誰一人、その人の尊厳を奪ったのだということにも気づいていない。


それが陰口というものであり、いじめというもの。

一番の問題は、加害者が己の加害の事実にまったく気づいていないことだろう。


●陰口を言うことは加害である。

そしてこの先は特に忘れがちなのだが、

●陰口に動かされるのも加害である。

これは、嘘かもしれない情報を確かめもせず信じてはならない、ということも勿論あるが、それだけではない。

「悪意に満ちた解釈」が厄介なのだ。

たとえばいつもニコニコしてる人がいたとする。
それまでは「笑顔が感じいいなぁ」と思っていた。
けれどある人にこう言われたら、どうだろう。

「あの笑顔って胡散臭いと思わない?
腹のそこじゃ何考えてるかわかんない
裏表激しそう」

人の心は非常に不安定なもの。
たったこれだけの言葉に揺れ動く場合がある
たったこれだけの言葉で、急に、いままで感じがいいと思っていた笑顔が、不気味なものに思えてくる場合が。

会話は怖い
特に悪感情を伴う会話は

会話に対する耐性を身につけること。
情報に対する耐性を身につけること。
言葉に対する耐性を身につけること。


誰かを傷つけないために。

ひとりごと癖

2006年04月20日 19時52分09秒 | 日常
今日、てかさっき、会社帰りに本屋でファッション誌を立ち読みしていたら、隣で同じく立ち読みしていたおねーさんが・・・・

素敵なアイテムを見つけでもしたんでしょうね。
思わず出ちゃったんでしょうね。

「かわいー」

と、ひとりごとをおっしゃいました。


それを聞いた瞬間、ワタクシ無性に恥ずかしくなってしまいました。

なぜなら私にもひとりごと癖があるからです。
道すがらびしばし呟いてる。

他人のひとりごとを聞いてしまうと、それがいかに恥ずかしいことなのか良く分かりますね。


 ああ、私はいつも他人からこんな風(『え?この人ひとりよね?一緒に友達はいないわよね?じゃ今誰に言ったの?え?ひとりごと?え?やだこのおねーさんちょっとヘンね?』)に見られているんだ・・・・。


そう思ったらもう、いてもたってもいられなくなり、慌てて本屋を出てしまいました。
そうしてわけもなく足早に家に舞い戻ってまいりました。


道すがら

「ああハズカシ、ハズカシ」

とつぶやきながら・・・・・・。





オチだよオチっっ。
(ほんとだけどなぁー)

the pillows MY FOOT ツアー追加公演行って来たぁぁぁぁ

2006年04月20日 00時28分51秒 | 音楽(ゆず以外)
良かった!!!
ピロウズライブは三度目で、前二回(一度目は三年くらい前だったか・・・)は

「うん。いいね。」

てなまぁそんなノリだったんですが、今回はわたくし感激が違う、なんせ目が潤みましたもん、今までで一番最高でした!!

ラスのハイブリット・レインボウすげぇぇぇぇぇ
ハイトーンボイスシャウトが会場満たしてもう痺れるのなんの。
(↑ノリノリの外人さんが一緒に歌ってるのがおもろかった)

こういうベテランバンドが、十六年目?十七年目?にして上昇気流のテンションを持つとこんなことになるんですね。

でかい会場で大勢の客相手に歌うっていう場数をじゃんじゃん踏んで欲しい、と思いました。

今後が本当に楽しみです。

あと実はピロウズの第一印象は「ドラムかっこいいなぁ」だったんですが、今回もそれ思った。
ZEPPも行きたかったなー

その他記憶ポイント

・ベースギタースティック 四本立てて かっちょいい

・二階席 子どもがやたら 上機嫌

・"i love you"ちゃんと答える "me too"と

・O-East ロッカーいっぱい ありがたい

電車が止まっていた。

2006年04月19日 00時07分16秒 | 日常
復旧まで三十分ほどかかるという。


・・・・待つか?

否!!!!!!!!!!!!!

待つことは負けである。
これは突きつけられた挑戦状だ。
ゴールは我が家、意地でも他のルートを探し出してやろう!!!!!




あのね。

ぐるーーーーって。

乗り継いで遠回りしてもう、ぐるーーーーーーーーーーーーって回ってね。


一時間くらいかかった。
あと運賃四百円。

三十分後に復旧してたら、そこから十分なのにね。
つまり四十分で帰れるのにね。

被差別部落について考える~「無知層」の立場から

2006年04月16日 11時21分18秒 | その他
 *はじめに*
現代の差別を知らずに育った「無知層」の視点から同和教育を考えたいと思います
以下の文はあくまで私の立場から考えた主張に過ぎません。
ここで「」という言葉は、一般的な意味(村とか地区)のほうではなく、「被差別」の略語として使っています





私は去年あたりまでこの日本に現在進行形で差別が存在することを知りませんでした。
その言葉くらいは知っていましたが、大昔の話だろうと思っていました。
(よく思い起こせば小学校で一度だけ関連のアニメを見せられたことがあるのですが、実感がわかずあまり記憶に残らずにいました)

しかし去年、友人の旦那さんの親戚が、差別的発言をよくするという話を聞き、カルチャーショックを受けました。

なんと指をさして「あそこがだよ☆」って教えられたらしいのです。

ひと様の家を指差してなんじゃそりゃ。
いい大人のすることか?
明らかに秘密にすべき情報、知っていたとしても口にしてはならない情報じゃないかそれは?

のみならず、その町の広報に、隣町との合併反対理由として「隣町にはがある」と書いてあったそうです。
しかも地区の位置を示す地図付きで。


「情報は節操もなく氾濫し客観性ばかりを身に付け
乾いた瞳の行く先には一体何が待っているんでしょうか」
(fromゆず「何処」)


差別を知らずにいた私に突然知らされた、「日本に出自差別が現存する」という事実。
以来、私なりに色々と考えてきました。


私はこの問題に関しては「無知」を広めるべきだと考えます。


埼玉や東京でも、昔は差別があったそうですが、今現在は知らない人がたくさんいます。
私は××事件を知らない埼玉人でした。(具体的な地名が含まれるので事件名は伏せます)
しかも××市のすぐそばの市で育ちました。
おそらく私の市にも地区があったかもしれません。
どこだかは分かりませんが、どこかに。

しかし小中の同窓生とそういった話をした記憶はありません。
私は六歳の頃に引っ越してきましたが、同窓生の半分は、埼玉で生まれた子でした。
彼らの親や祖父世代は××事件を知り、近隣の被差別の存在も知っていたかもしれません。

けれど子どもたちは、無知であった。
そして差別意識など欠片も持たないまま、大人になった。

なぜそんな事件が起こった県なのに、いま私のように被差別の存在すら知らない人がたくさんいる、すなわち「差別が激減した」のでしょうか。

上京核家族が多く、人の入れ替わりが激しいというのが最大の利点だったとは思います。
けれど同和教育に熱心でないことに代表される、

「徹底して知らせないスタンス」

「情報を広めないという方向性」

が差別撤廃の一助となっていたのではないか、と考えます。
親は子の、先生は生徒の、「無知」を守る。


●知らない人が差別する可能性は、ゼロである。
●知っている人が差別する可能性は、ゼロではない。
(残忍な人間は必ずいるから・・・)

知らない人が多ければ多いほど、差別は軽減されるものではないでしょうか。

被差別というものをまったく知らなければ

「え?君ブラク出身?ふーん(どこの地名かな)そんなことより今日お昼どこ行く?」

こうなるわけです。

たとえば外国人が、被差別出身者を他の日本人と「違うもの」として差別するだろうか?


しかし中には

「同和教育を受けなかった人は、知らない時は差別しなくても、知った場合には差別主義者の側につくに違いない」

という恐ろしい偏見があります。


意外にねぇ、私もそうですが、同和教育というものを受けず、被差別の存在を知らずに育った人間が、差別に対してものすごい嫌悪感を抱いてるんですよ。


たとえば。
○○市の掲示板でこんなやりとりを見たことがあります。

「○○市ってだよねw」

と書き込みがあって○○市の住人が

「え?何それ?」

と疑問を抱き(この時点で既にその市で差別が風化してることが分かる)

被差別について色々調べ、いまだ差別が現存してるという事実にショックを受け、

「調べました!差別最低っ。○○市は今は誰も差別なんかしてないよ!」


ここで重要ポイント

○○市の人は「○○市ってだよねw」って言われたことに怒ってるのですが、
決して「=恥」と思ってるから怒ってるわけじゃない。
    ↑非常に驚くべき下種な価値観ですが、そもそもこの「○○市ってだよねw」は、上記の理由により「怒らせたい」発言であると思います。


この○○市の人は「差別の地」と言われたことに憤っている。


 ここに大きな価値観のズレがあることを見逃してはならない。


ではなく差別が恥なのである。

同和教育を受けていないにも関わらず、非常に強くこの価値観を持つ「無知層」は多いです。

私と友人も無知でした。
しかしその親戚の話を聞いたとき、ではなく「差別」に対して強い嫌悪感を抱きました。


あとこんなやりとりも見たことがあります。


「東京に移住する民は多いよ♪東京は民ばっか♪」

「だから何ですか?あなたの言ってることは本当に『どうでもいいこと』ですが」


万一知った場合でも、これが普通の常識的な反応です。

その地がであろうが、その人がであろうが、問題ではない。
問題は、その地に、その人に、差別があるかどうかなのです。

「の有無ではなく、差別の有無が問題である」ということを、上記に挙げた人は知らない。
ここにも恐るべき価値観のズレがあることを見逃してはなりません。


ただ人間の一部は残忍ですから、無知層のうちの残忍な者が、被差別という情報を知った場合は、この限りではないでしょう。
それは結局、残忍な人間が同和教育によって余計な知識を得た場合の行動と同じことです

差別の風化している地域で、「万一知った場合」を危惧するあまり、過剰な同和教育を施し、
「知っている人」を増やすことは、かえって差別の可能性を広めるのではないでしょうか?

人間の一部はどうしようもなく残忍です。

単純に計算して、「被差別」という情報(その存在や歴史)を知る人数が増えれば増えるほど、残忍な人間がその情報を得る可能性も増えるのではないでしょうか。
特に子どもの場合、精神的に未発達で、無邪気ゆえの残忍さを持つ割合が高いかもしれません。


問題について調べる途中、ネット上で「B」という、被差別を意味する隠語が、頻繁に使われているという事実を見つけました。
しかも問題を語る場所ではないところで、
「この事件はBの仕業に違いない」
という風に頻繁に使われている。

問題を語る場所でないのに使う、つまり「日常的に」「頻繁に」使う人々がいるのです。

心底ぞっとしました。
ネットをしている多くは若い人でしょう。
これはつまり、若い人が差別意識を濃厚に持っている地域が存在するということです。

差別の根強い地域で同和教育をやっていないわけがありません。
差別発言をしている若い人たちも、教育を受けているはずなのです。

やはり教育だけでは、一部の残忍な人間を改心させることはできない、という一つの証拠ではないでしょうか。

一方で、同和教育に熱心でない地域で、ほんの数十年の間に差別が激減している。

無知である私は、××事件の名前となっている××市まですぐ行けるような近隣で育っています。
また上で挙げた○○市も、都内ですが近隣です。
○○市在住の友人とそんな話をしたこともありません。

肌の色が違う、というような明確な差異があるわけでもなし。
無知層から見ると、何故なくならないのか不思議でならない。

これは全国的になくならないわけがない差別です。

無知な地域でも差別はあるかもしれない。
しかし、その差別は間違いなく、「知っている」人間によって行われたものです。




差別する側とされる側の例のこれ↓

「グレてるから怖いから差別するんだー」
「差別されてりゃグレる奴だって出るだろー」

この、永遠に溝が埋まらないだろう水掛け論なのですが・・・明らかに後者のほうが正論ですが・・・この議論の前に目を向けて欲しいことが・・・

この混乱した問題を考えるとき、どうか「無知層」の存在を無視しないでほしい。
つまり差別が激減している地域があるということ、まずここに目を向けねばならないと思うのね。

風化してる地域とそうでない地域、違いはなんなのか、冷静に分析してほしいです。




いや、差別拡大縮小とは別の部分で、「無知層」に複雑な思いを抱き同和教育は必要だ、と思う気持ちも分かります。

これはそもそも何が解決なのか、という問題に突き当たります。
すなわち


  差別がなくなればそれでいいのか?


いままで差別されていた、という怒りを語り継ぎたい、憤りを誰かに訴えたい、という感情もあるはずです。
それは当然のことです。「差別された者の言うことは全て正しい」という言葉を聞いたことがありますが、これほど鋭い真理はないと思います。

けれどその、人として当然の切なる望みは、「差別撤廃」という目標とは、やはり矛盾すると思うのです。

 これがこの問題の根幹なのかもしれません。

いま私はとても残酷なことを言っているのかもしれません。逆の立場なら、「私はこんな差別を受けた」と泣きながら生きてる限り訴え続けたいと思うでしょう。

おそらく差別された人、傷つけられた人には、それをする権利がある。
気が済むまで怒り続ける権利が。

傷つけたことを忘れてはならない。
傷つけられたほうは絶対に忘れないから。

差別された記憶は失われてはならない。
被差別は知られなければならない。

しかし人間の一部はどうしようもなく残忍です。

「被差別」という情報(その存在や歴史)を知る人数が増えれば増えるほど、残忍な人間がその情報を得る可能性も増えるのです。


ここの矛盾に、根深い難しさと哀しさがあるのでしょう。

だから
「被差別の人たちの苦しみをよく理解し、差別を憎む『非差別層』のほうを、『無知層』よりずっと歓迎する」
という被差別層はいて当然です。
理解できます。
重々、理解できます。
それこそが理想ですし、実際、同和教育の成果として、そんな「非差別層」のほうが「差別層」よりずっと多いでしょう。


これを理解したうえで、「それでも差別層が根強く存在する」という現実を見て、「無知」を広めるべき、というのが私の主張です。


あともう一つ蛇足かもしれませんが、
無知層に複雑な感情を抱く被差別出身者の中には、被差別出身であることがアイデンティティになっている人もいるかもしれません。
いわば一種の単一民族のように、日本国民と対峙しているという感覚です。

逆説的ですが、無知層はそういった人々の、民族的自意識を傷つける可能性があります。

海外で「日本?どこそれ?中国なら知ってるよ♪」と言われたら消沈するような感じ。

けれどその感覚は、無知である私には分かりません。
無知である私は、日本で生まれ育ち日本語を話す人を、異民族とは思えない。

まして差別する側によって形成された「民族」なのならば、それはもともと幻の民族であり、解体すべきでしかないように思います。

もし差別への憤りとは別にして、「解体されたくない」という感情があるなら、それは個々の自由ですが。
あくまで個々の自由という見方しかできませんし、異民族とみなせない無知層に憤るのはおかしいのではないでしょうか。



  ただ人としての常識として、差別=悪いこと、と思う。


  ネット上で差別発言を見るたびに悪寒が走るし、吐き気がする。


  あの差別主義者たちこそ私と「異なる」と感じる。



差別主義者たちは、知らない人から見れば自分たちこそが軽蔑される存在であることを、知っているのだろうか?
「またBとか言ってる。こいつら気持ち悪いなぁ」と思われてることを、知っているのだろうか?


私は日本から完全に差別を消失させることが、最優先であると思います。


そして風化させるための方法の一つとして、「無知」を広めることは、相応の成果の見込まれることであると思います。

指をさして「あそこがだよ☆」
なんて言語道断。

私は人間を信じていません。
人間の一部はどうしようもなく残忍なのです。
残忍な人間に渡ったらまずいような情報を、あえて広めてはなりません。


まずは風化させることに全力を注ぎ、
全て風化した後、悲しい歴史として語りつぐべきではないでしょうか。

「おじいちゃんは昔、差別されて苦労したんだってさ」
「へぇ~」

と、あくまで歴史として、過去として語れるように。







 *おわりに*

最後に、なぜ最初に「以下の文はあくまで私の立場から考えた主張」と書いたのか、説明します。
私の本当の本音を言いますと、「色々な視点があるべきだ」です。
「層」は多いほうがよいのです。
被差別が身近な人間の声は多くとも、無知層の声は少ないように思ったので。
無知なのだから当然ですが。
私のように大人になってそれを知っても
「知らないくせに語るな」
と言われて無言になってしまうのかもしれない。
また、直感的に
「この情報は広めたらいけない情報だ、差別が広がってしまう」
と考えるから、ネットでは語らないのかもしれない。
(無知を広げるべきと思う私が被差別問題を語るのは矛盾した行動なのです) 

 でも無知層にしか見えないものもあるはず。

無知層について不安のある人が参考にしてくれれば、との思いも含めて、無知層の立場を強調しつつ書きました。

あと実は関連書籍を三冊ほど読み途中なのですが、どれもまだざっとしか読んでいません。
真面目に読破したら私の意識がゆがんでしまうかもしれないので、ゆがむ前にこれを書きたかった。
ちなみに以下の三冊です。

「はじめての問題」(文春新書)
被差別出身の方が書いた本です

「食肉の帝王」(講談社α文庫)
利権を追求した本です

「中世のと遊女」(講談社学術文庫)
被差別民の起源を江戸ではなく中世にたどる歴史本です

子どもたちが空気を読まねばならぬ時代らしいぞ

2006年04月13日 01時32分15秒 | その他
AERAの記事によると最近の子どもは「おまえ空気読めよ~」っていじめられるそうです。
もちろんテレビの影響だろうけど、よくないよくない、そいうのよくない!
どうせ「空気を読む」の本当の意味を知らないに違いない。

綺麗な空気なら汚さない方向で。
汚い空気なら浄化する方向、つまり「空気を変える」方向で。

それが本当の「空気読める人」
汚い空気にまみれちゃ駄目なんだぞ!?
子どもたちそれ分かってるのかしら大丈夫かしら心配だったらもう。

 無条件で多勢に迎合する=空気読む


だと思っちゃいませんか?

もしそうならば、つまり「何も考えずただ多勢に迎合せよ」、という「空気」が今、子どもたちの間に流れているのだとしたら、それはいわゆる集団ヒステリーなんかに繋がっちまうとても「危険な空気」です。

日本の将来を担う子どもたちにそんな危険思想が蔓延してるとしたら一大事。


 そんな空気は換気が必要$ ̄- ̄$


てことで。
おこがましくはありますが、私なりの換気のつもりでこんな文を書いております。
分かったかい、子どもたち!?
(子ども絶対これ読んでねー!!!!!!!)

文系のくせにって言うな文系のくせにって!!!!!!!!!!!!!!!!!

2006年04月11日 20時11分53秒 | その他
ちょっと思ったんだけどさぁ

科学法則に理由はないのよね?
宇宙の仕組みがたまたまそうであることを発見して記述したに過ぎないのよね?


じゃあさて

時計を与えられた人が、時計を分解しその仕組みを解析して、もう一つ時計を作ったとする。

この人は時計を発明したと言えるだろうか?


言えますまい!

人間のやってる科学というものは、これと同じじゃないか?

宇宙という精巧な時計を与えられて、一所懸命、仕組みを解明し、断片的な構造図(科学法則)をもとに道具を作り出す。

文明の利器なんて全て、宇宙のレプリカに過ぎないじゃないかっ!

なんだか、裸で大地に立って自然の恵みで生きていた原始時代と、今、それほど変わりないなぁ


現代人は宇宙の恵みで生きているー♪

この世代というもの

2006年04月09日 13時14分11秒 | 音楽(ゆず)
ナミエちゃんやゆずやコブクロは私と同じ世代です。

「真摯」が彼らのキーワードだと思います。

明るく楽しくノリがいい
社会や大人と戦う
奇抜な個性で勝負
のんびりゆったりほのぼの

なんか全部違う気がする。

みんなとにかく「真摯」だと思うの。
彼らのライブは熱く真剣で見るものを引き付ける迫力があります。

それは外部への主張という形ではなく、むしろ内省的で孤独な自己解放であるように思えます。

北川さんは「自分はネクラだ」と言います。
ネクラ=生真面目だったり真剣だったりすることを肯定する、それがこの世代共通の意識じゃないでしょうか。

決してファッションとして(アングラ気どりで)「私はネクラだから~」って主張するんじゃなくて、もう変えようのないありのままの自分がネクラなのだ、という自己認識。

思春期に子どもの視点からバブル時代(ネアカ至上主義の時代)を眺め、学生時代が終わり社会に出たときは不況のど真ん中だった。

それが私たちの世代です。

私が十四歳のとき、ジュリアナ東京はオープンしました。
大学生の賢いはずのおねーさんたちが、お立ち台でアホみたいに踊ってるのを、不思議な気持ちでテレビで見ていました。
でもこれはきっとカッコイイことなのだろうな、と自分に言い聞かせながら。

でいつの間にか経済は転落の一途。
なんだよ、なんだったんだよ、あのネアカな時代は。
そう思ったのじゃないかな、この世代は。

ネアカの無意味さ、馬鹿馬鹿しさをよく知ってる。
だから不況で不安だけどバブルをうらやましいとはあまり思わない。

不況で不安だけど、就職難をお上のせいにすることもなんだかできない。
親たちが反抗するほど厳しくも抑圧的でもなかったし、それなりに恵まれて育ってきたから、目上に対して牙をむくということができないんでしょう。

攻撃する対象もなければ、憧れる対象もない。

これはとても虚無的な状態であり、刹那主義に陥る危険をはらみ、だからこそこの世代から援交コギャルやニートが生じたのでしょう。

けれどこの世代の一部が目を向けたのが、真面目なもの、真剣なもの、真摯なもの。

つまり、子どもの頃かっこ悪いとされていた「ネクラ」な自分だったのではないでしょうか。

彼らの原動力は、ネクラな自分への積極的で肯定的なまなざしであると思います。
それは思春期という一番ネクラな時期に、ネクラであることを禁じられていた世代だからこその、強い肯定意識ではないでしょうか。




http://loonieparty.com/release.html
 北川悠仁(ゆず)
 さわやかな歌声と詩で、老若男女を問わず幅広い層から支持を得ているゆずのリーダー。2006年1月18日に 7thフルアルバム「リボン」をリリース。RYOとは中学からの友人。
 ゆず OFFICIAL HP:http://www.senha.jp/yuzu/

 『「LOONIE」のRYO君とは中2の時同じクラスだった。
  RYO君はスポーツ万能のイケメンだった。僕は肥満児のお調子者だった。
  でも僕らは気が合った。
  なんで気が合ったかというと2人とも根暗だったからだ。(笑)
  大人になっていまだに音楽をやっているというのはどこか根暗だと思う。
  RYO君、デビューおめでとう。
  困った時はまたデニーズで相談乗るよ。(先輩面)
  先日はメンバーを紹介してもらいましたが、根暗のニオイがして嬉しかったです。』

安室奈美恵のライブDVD購入

2006年04月09日 12時44分25秒 | 音楽(ゆず以外)
「SPACE OF HIP POP」買いました~!
ナミエちゃんも、私にとってはゆずと同じく「客観的に見られない=激烈らぶ」なアーティスト様でございます。

もうなんでこんなかわいいんでしょうか?
ミニスカートふりふりv

かーぁーイーーーーーーーーーーーーーー!!!!!


ナミエちゃんは女性アーティストなのに女性人気が高いですよね。
同性に人気があるのってすごいなーって思います。
なんで女の子に人気なんだろう?って考えてみました。

きっと

少年的な清潔感(=スレンダーな体系・ハスキーな声・パワフルなダンス・クールな表情)

    +

女の子らしいキュートさ(=ハニカむ笑顔・長い髪・ミニスカート)があるからかな、と。

完璧なキャラクターです。
女性は女の子的なかわいさが大好きです。
もう生理的に大好きです。
でも単に「大好き」って言ってられない事情がある。
そう、自分もまた女性だっていう事情が。
「女の子」に対して「客体」あり続けることができない。

こんな悲しい矛盾てないですよ。
「女の子」大好きなのに、自分もまた鑑賞される側でなければならない。

(キャンディキャンディなど少女漫画の歴代の主人公が設定では「コンプレックスを持った十人並みの顔」でも、絵柄的には十二分に美少女である、という、少女漫画最大の矛盾の理由もここにあると思われます)

女ってのは愛でるものであって、自分でなるものではない。

てのが私の信条なわけですが。

まとめると、女性が「女の子」の内に「女」を見出したとき、「女の子」はその女性と同列に「堕ち」、女性は拒絶反応を起こす。

でもナミエちゃんの「女の子」の内に「女」はない。あるのは「少年」である。
冷たく鋭く近寄りがたい、「少年性」
だからナミエちゃんは、女性に自分と同列と思わせないことができるのね。

女性は安心してナミエちゃんの「女の子」を鑑賞できる。
消費者として消費できる。
男性アイドルを見るようなうっとりハート目線で、ナミエちゃんを見ることができる。

あともう一つのポイントは、ナミエちゃんの真摯さだと思う。
ステージから迸る真摯さ。

ナミエちゃんはゆずやコブクロや私と同じ世代です。

「真摯」がこの世代のキーワードだと思います。




以下さらに長くなっちゃいますので、この話については、「ゆず」カテゴリーの中で語りたいと思います。

>>「この世代というもの」

the pillowsとうつみようこのライブ参加

2006年04月09日 12時19分40秒 | 音楽(ゆず以外)
** 2006-03-09に別ブログで起こした文ですがこちらに移動させます**


新宿ロフト行ってきました
コマ劇裏のライブハウスです<ロフト

ピロウズライブは二度目、うつみようこさんは初体験でした

目当てはピロウズのほうです。
ピロウズファンの友達がいまして、その子に布教された感じで。
最近出た「My Foot」ってアルバムはかなり気に入ってます。
ピロウズってシンプルさ・軽さがいいですね。
重くはないけれど薄くはない、安定感のある音。
歪みのない
嫌味のない
だっさいことはしない
体に優しく耳に心地よい、バンドサウンド。
そして全体的にほのかに切ない

ああなんかピロウズって、小洒落た女の子が店の軒下で雨宿りしてる感じ

彼女はあるいは軒下から雨の中に飛び出さなきゃいけないのかもしれない。
でも今のあの佇まいが好きなファンがたくさんいるのだろう。

カフェですましてるわけじゃない
どしゃぶりの雨に濡れてシャウトしてるわけでもない

嫌いになれないっすね
そんな女の子を町の片隅で見つけてさ、嫌いになれないでしょ
下手したらきっと恋しちゃうでしょ

客「ZEPP完売おめでとー」
さわお「ZEPP完売なんてピロウズらしくないよな」

↑素敵


聴いたことあるアルバム:
「Fool on the Planet」「WHITE INCARNATION」「TURN BACK」「ペナルティーライフ」
「My Foot」(順不同)

THE PREDATORSの「Hunting!!!」もかなり好き


あと、うつみようこさんもかっこよかった
ぶっちゃけババァなんですが、こう、敬意を表して「ババァ」と呼びたくなる、
いやむしろ「ババァ」という言葉の響きすらかっこよく思えてしまう、
とにかくかっこいいババァでした

ゆずの詞について

2006年04月09日 12時07分10秒 | 音楽(ゆず)
** 2006-03-30に別ブログで起こした文ですがこちらに移動させます**


ゆずにはまってしまうと
カッコ良いものがカッコ悪く思えてくる、という不思議な価値転倒が起きるなぁ、と前から思っていました。
だからリアルの詞は納得というかなんというか。

ゆずの詞をかっこいいとは思わない。うまいとは思わない。

でもむちゃくちゃ心を揺さぶられる。

気取り過ぎな詞がいっぱいある。
それらはなんだか臆病なんだ。
ゆずは怖いもの知らずの表現者だと思います。
二人とも痛いほど正直で。
でもだから信じられる。

いつか別の場所でも書いたのですが、YO-KINGの「ハリボテROCK」の詞にこんなのがあります。

「英語みたいな日本語で 日本語みたいな英語で
難しいこと 言ってるようで
本当は何にも中身はない
芸術家気どりで自己満足」

「なんで思ってることを歌わない
本当に思ってることを歌わない
ウー ベイビィ きかせてよ
君が本当に思ってることを」


もちろん、音楽はそれだけじゃないってのは分かってます。
詞の無意味化を極めて、音楽性だけに特化した歌にだって名曲はいっぱいある。
そういうのばかり聴いていたこともあります。

でも今は、ゆずタイプのミュージシャンが、私にはとても魅力的に思えます。

ゆずっぽい

2006年04月09日 12時05分52秒 | 音楽(ゆず)
** 2006-03-06に別ブログで起こした文ですがこちらに移動させます**


デビュー当時誰もに「新しい」と思わせたゆず。

いまだ「ゆずっぽい」って言葉は使われるんですよね。
もちろんよくゆずを知る人から見ればそれは決して本来のゆずの姿を言い表したものではないのですが、もうこの単語は一人歩きしてしまっている。

つまり望もうと望むまいと、「ゆずっぽい」はもはや一ジャンルなのです。

一つのジャンルを創造したアーティストが、日本にどれだけいるんだろう?

カラオケで「陽はまた昇る」

2006年04月09日 12時03分01秒 | 音楽(ゆず)
** 2006-03-06に別ブログで起こした文ですがこちらに移動させます**


滅多に行かないのですがひさしぶりにカラオケに行き、陽はまた昇るを歌いました
これがむちゃくちゃ気持ちよかった!
この歌は聴いていてもひっじょーに気持ちがいい歌なのですが、歌うとさらに気持ちいいですね。

歌わないと気づかないことってあるなぁ

「暗闇の~」から最後の「陽はまた昇る~」まで、同じフレーズの歌い上げが20回出てきます

20回ですよ20回

このクドさが最高
気分高揚しないわけがないっていう。