wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

韮山はすごい!江川・早雲・阿弥陀如来像 

2013-05-11 16:42:50 | 旅行記
 平成25年5月3日(金) 4連休の初日、ウォーキングには絶好の日和の中、2度目の韮山(伊豆半島の付け根あたりに位置する)行きを行った。

 以前、職場で一緒に働いていた友人が、仏像なら韮山の願成就院に安置してある運慶作で国宝の「阿弥陀如来像」だと、教えてくれた。運慶の力強さが分かり、鎌倉時代の仏像を間近に見ることができて、それはもう感動ものだと。

 いつかはこの仏像をじっくり見てみたいとずーと思っていた。

 実はこの韮山には、2年くらい前に行ったことがある。その時もブログに感動した様子を書いたが、願成就院には夕方になって入ることができなかった苦い思い出がある。
 韮山は源頼朝が流され、政子と知り合ったところであり、北条時政をはじめとする北条家が住んでいたところであり、江戸時代はこの相模原あたりを統治していたお代官様、江川太郎左衛門の館があり、後北条の初代北条早雲が死ぬまで住んでいた韮山城もあるところでもある。また、掘越公方(ほりごえくぼう)も鎌倉まで行けずにこの韮山に邸を構えていた。そう考えると、この韮山は歴史的にはすごいところなのだと、改めて感じる。

 また行こうという私たちの願望が今回の運びとなった。

 はたまた今回の歴史の旅も裏切ることなく、実りの多い旅となった。

 今回一番思い出に残っているのは、願成就院の「阿弥陀如来像」といいたいところだが、実は韮山の上に登って、お城のあとから見た韮山城下の景色である。それはもう田園地帯が広がって見事の景色であった。早雲が死ぬまでこの韮山を離れることがなかったことがわかったくらいである。
        

写真ではあまり伝わらない感じがするが、韮山には神社も作られていた。
 


では、順を追って、残しておこう。

まず、小田原で下りたら、ちょうど「小田原北条まつり」という大きな看板があって、その前に鎧を着て、武士の格好をしている人たちが並んでいた。そこで弁当を買う。
韮山には食べるところがないので、北条の館前の狩野川を見ながら食す。
     


熱海や三島で乗り換えて、やっと韮山に到着。スイカが使えないので、不便である。

韮山についたら、まずは仏像を見ようということで、韮山の西側を探索する。
最初にたどり着いたのは、「成福寺」。ここは北条家の墓がある菩提寺である。
     


道なりに歩いていくと、政子の産湯の井戸の碑があり、その近くに堀越公方の御所跡があった。室町幕府の8代将軍足利義政は、関東を治めるために、兄の政知を派遣したと書いてあったが、なぜ兄が・・・。それに、北条早雲は足利茶々丸公を攻め滅ぼしている。願成就院には茶々丸公のお墓があった。
    


次に、念願の「願成就院」に行く。果たして「阿弥陀如来坐像」「毘沙門天像」「不動明王像」等々の運慶の力作が鎮座していた。阿弥陀如来坐像は力強いというよりも、相撲の力士を思い浮かべるようなあんこ型の体つきをしていた。その点、毘沙門天や不動明王は鎌倉時代の武士を表す「動的」な力強さを表している仏像である。
やっと願望がかなった。満足である。

北条政子の七回忌に北条泰時が奉納したとされる、政子菩薩像も展示してあった。
       


今度は、韮山駅の東側を歩く。まずは、頼朝が流された「蛭が小島」。昔はこの辺は沼地で、蛭がたくさんいたとか。そこのお茶家さんで一服。鶴瓶と杏のサインが飾ってあった。
   


次に私が感激した、韮山城跡に行く。賢い子ども達が通っているという韮山高校のわきにこの韮山城はある。ほんと見晴らしがいいところだ。天気がいい日はこんなところで一日中ボーとしていたい気分になった。

北条早雲は伊豆進出にあたって23代の江川英住に土地を提供してもらって、韮山城を築城したという。
不思議にも28代の英長は家康に仕えて、伊豆は幕府の直かつ地となる。
それは家康が伊豆に来た折に、何かの縁で、お万の方という人を見初め、それでそのお万の方は江川邸から婚礼を出してもらい、側室になっているという。そのことがこの長い間、代官様になっていられたことの起因だという。へえ~感嘆した。でも、検索したらこのような事実は出てこなかったのだが・・・
      


このあと、江川邸に行くが、時間がなくて、じっくり見ることができなかったのが心残りである。説明の人が、顔つきが江川太郎左衛門の似顔絵とよく似ていたので、もしかしたら子孫かしらと思ったが、その時にはすでに遅し、別れたあとであった。
新しい知識としては、代官所は分所として江戸の方にも(品川方面か)あったらしく、烏山用水を申請したのはこの分所の方であったのではないかということである。また、江川塾として多くの有名人が江戸時代末には門弟がいたというが、それも多くは江戸分所の方であったという。
         


最後に、時間があったので、政子の許嫁であった山木判官平兼高館跡に行く。この山木判官兼高を破ってから、頼朝の源氏再興が始まったとされる。
     


今回も、充実した旅ができた。いろいろな再発見があった。
いつものようにこうやって歩き回れることに感謝して、筆をおこう。

今回は、26618歩で約15キロ位歩いたことになる。










コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする