*「魁!!女塾」*

京都でギターを弾いています。

ダサい奴にならんといてくれや

2024年04月29日 | blog

きのう、テツという友だちのライブに行きました
10代の頃のバンドメンバーです。

18からハタチくらいまで一緒にやっていて
(お互いギター)
そこからは、ずっと会っていなかったのです。


当時はふたりとも ド下手くそだったけど
テツは、ほんまええギター弾きになってた。

ステージの上でサウンドがうねって
波動みたいなものが渦巻くのを感じた。
そういうのは全てのバンドにあるわけではないし
あまり見ることはできない。
プロのバンドにだって、ないときはない。
そういうものを見たくて、ライブに行ったり自分もバンドをしてるのだと思った。


昔、テツに言われたことで
すごく印象に残っている出来事があります。


わたしは22歳の頃
いちどバンドをすっぱりやめようと思ったことがあります。

いま思うと、若くて考えが幼く、精神的に弱かっただけなのだけど
ひとり暮らしで、アルバイトで生きていく生活に疲れたのだと思います。

(「いちご白書をもういちど」の歌詞のような感じ?
とにかく、いま思うと、何も白黒つけてやめる必要なんて全くなかったのです。)


若くてアホなわたしは、
もういらなくなるギターとエフェクターボードを
手放そうと思った時
大事だったギター、中古屋さんに売るくらいなら、アイツもらってくれないかと思い
ギターと機材を全部持ってテツの住むアパートに行きました。


もうバンドやめる。
迷惑じゃなかったら、全部、あんたにもらってほしい
と言いました。

ふだんよくしゃべるテツは黙ったあと
そうか、、ほな俺が使わせてもらう

とうなづきました。


わたしはその後、就職し会社員になりましたが
カッコ悪いことに、バンドで自分らの曲を作る生活に戻りたい気持ちが日に日におおきくなりました。


最悪にカッコ悪いこと承知の上で
意を決して、再びテツのアパートに行きました。


やっぱりやめきれん。
最悪にカッコ悪いけど、ギターもういちど私に戻して欲しい
と頭を下げると
テツが激ギレしました。



こんなようなことを言っていました
↓↓



おまえなぁ!!!
俺があの時どんな気持ちやったかおまえにわかるんか

俺はギターなんも弾けんかった頃
おまえが弾くのを見て、ギター弾けるようになったんやぞ

だからこそ、そのお前がギターやめる言うてきた時
お前がそう言うんならよほどの決心なんやと思って黙ってうなづいたのに
それをなんやお前、
かんたんにくつがえすんちゃうぞ
お前はそんなダサい奴に頼むからならんといてくれや



テツはひとしきり激ギレしたあと黙り
感情的になってすまんかったなと
玄関にそのまま置いてあったギターと機材を返してくれました。


それ以来、一度もやめようとか思ったことはありません。



それから数年後、地元に帰ったのでテツとは20年以上会っていませんでした。
久しぶりにあったテツは、ずっとバンドをやっていて
わたしもずっとやっていて、
昨日はライブ後
「おまえのバンドと今度対バンしよーや!」
「うん、絶対な!」
と言い合って、手を振って帰った。

いまでも最高のダチやと思っている。


 

 


誰でもぜったいできる

2024年04月28日 | blog


会いたかった人に再会した話です。


わたしが大人になってからルービックキューブができるようになったのは
ある京大生の影響です。

当時、京都大学のそばに住んでいて
一般の人も利用できる京大の学生食堂をたまに利用していました。


すると、食堂の一角に
土曜日の夕方にはいつも
ルービックキューブ全面を10秒ほどで揃えてしまう人々がいました。
目隠しをして全面揃えることができる人もおり
すっかり見入ってしまいました。

京大のキューブサークルの人でした。



当時7歳くらいだったむすこが
「俺もなかまに入りたい!」と100均でキューブをねだり

「突然にすみません
お邪魔でなかったら、そばに座っていっしょにキューブを回してもいいでしょうか」
という内容のおねがいをしました。


わたしと息子もそばに座らせてもらい
キューブを回すようになりました。

お兄さんたちのスゴ技に感嘆しつつ
ただ、黙ってキューブを回す土曜日をいくつも重ねました。


でも、いつまでたっても
わたしたち親子はキューブを揃えることができません。

「ダメだ、いっこうに出来ません…」

と愚痴ったわたしに京大生は

「そんなことはない。絶対に誰にでもできます」
と言いました。


それなのにわたしは

「いやいや、それは京大生という日本最高レベルの天才だからではないでしょーか
我々になんて出来る日は来るのでしょうか」

などと、自虐的なダサい発言をさらに重ねてしまいました。


京大生は
「それは違います。絶対に誰でもできます」と再度断言しました。



その日帰って
ああ、自分、超ダサいな
「京大生だから」なんて言って
出来ない言い訳を探してるだけやんか

と思いました。


そんな自分、キライだ、
わたし、かっこわるい
と思いました。


その日は土曜だったので
翌日、日曜日。
午前中からずっとキューブを研究しました。
8時間かけて、夜には、はじめて全面が揃いました。



そして息子に教えました。


あの頃の京大生はもう京大を卒業し、
二度とあうことはできません。

キューブサークルも
今は存続しているのか不明で
彼らのあとを継いだ後輩に会えないかと思い、
去年、息子は何度も京大の食堂に探しに行きましたが
キューブをしている人はどこにもいなかったそうです。

 

 





あれから7年、
息子はそこそこ腕を上げ、
ルービックキューブの日本大会に出場することになりました。

そこには、日本屈指のキューバーが集まります


わたしは、つきそいで一緒に行っていたのですが
実のところ、そんなにキューブに興味はないので
試合を見ずにキョロキョロ、ぶらぶらしていました。


すると会場でたまたま
古株の人と話す機会が訪れました


すみませんが、この方々の中で
京都大学のキューブサークルご出身の方はおられないでしょうか
とダメ元で聞いてみました。

すると、「ひとりだけいますよ」とある青年を紹介してくれました。



見知らぬ人です。



わたしは、話しました
今日ここにいるのは
京大のキューブサークルの方々に出会ったことがきっかけです
きっとあなたの先輩の方々ですね
みなさんには感謝しています

そうそう当時の写真があります

と、この写真を見せました。

 


 



すると「えっ、この
息子さんの隣に写ってるの僕ですよ」


えっ?!ほんとですか?
だって、手しか写ってないじゃないですか!?


「絶対に僕です
ほら、右手のここにほくろがあります
それに、この色の服、いまも着てます
僕、すごく体重が増えちゃったからわからないでしょう」



!!!!!!


よくみると笑顔に面影があります!
完全に記憶が一致しました。



「あの時、
こんなんできるの京大生だからだろー
なんてインネンをつけた(笑)自分を
ああほんまにダサいなと思って
こんなままじゃいややと思ったんです
目が覚めた思いでした。
あの頃のみなさんありがとう」


なんて、7年ぶりに伝えることができました。



その人は、あれからアジア大会2位にまで上り詰めたそうです。














いつまでも慣れない

2024年04月23日 | blog

息子の通う中学校はわたしの母校です。

今月は、修学旅行説明会と保護者懇談。
保護者としてたまに母校へ来るようになってもう3年目だけど
いまだに、慣れません、いつ来てもエモすぎて。


校庭に立つと、エモエモ爆風が吹いてきて、
吹き飛ばされないようにするのでたいへんなんだけど。



放課後、午後3時。
右から、ラグビー部の掛け声
左から、体育館でバスケットボールが跳ねる音
上から、3階の音楽室から吹奏楽の管楽器


保護者、センチメンタルの濁流に飲まれ
立ち尽くします。

でも不審者にならないよう
すまし顔で、努めて平静を装います


このウォータークーラー
わたしのときも、ここの同じ場所にあった。

陸上部で、水を飲んだらいけない地獄のトレーニングして、
飲んでよし!ってなったらここに駆け込む。


今日、個人懇談だったんだけど
息子の教室、わたしが使ってた教室だった。
センチメンタルがクライマックスで、もう息も絶え絶えで倒れ伏しそう!
しかし、そんなことはおくびにも出さず
息子の進路について担任の先生と話します。

 

ものすごくエモい気持ちになるけど
あの頃に戻りたいとは思わない。

戻れたとしたら、違う人生を生きるのも楽しいかもだけど
でも、けっきょく同じ道をゆくと思わない?
なんか、そんな気がするんよね。







高速道路の星

2024年04月19日 | blog

 

今日、はじめて高速道路をひとりで走行しました。
 
これまでは、運転してもらって助手席に乗るばかり。
または誰かに助手席に乗ってもらって、練習がてら高速を走ったことがあるだけでした。
 
これまで「手汗」というものをかいた記憶がないのですが
緊張して手汗を初体験しました。
(汗で手が冷えてつめたくなるのね!)
 
文字どおり、手に汗にぎるアドヴェンチャー。

 
えっETCのバーが開かないんじゃないか?!
とビビりまくり、
 
また、出口には出ていないからと安心していたら
いつのまにか違う高速道路に分岐しており
明らかに行きしと違うさびしい山道を、夢のように走っているではないですか!(◎_◎;)
 

吾輩が単に走行車線をミスったのではないか、という可能性は否定できない。
 
しかし
高速道路に棲む魔物のしわざという見解もまた否定できない。
吾輩は、これを、都市伝説の一種であると考えたい。
 

一般道に降りることを余儀なくされた私はようやく魔物の呪縛から解き放たれ、
 
グダグタで再度高速道路に乗り直し、
ようやく京都タワーが見えてきたときには「ふるさと!」と大げさにに喜んだのでありました。
 

遠視&乱視のコンタクトレンズをしていると
夜になると、あらゆる遠くの光が
裸眼の時の5倍くらいきらめいて見えます。
 

時速80キロくらいで端っこを走行する初心者のわたしの横を
ベテランのみなさまが、時速100キロほどで華麗にかっ飛ばしていきます。
 
その赤いテールランプが十文字にきらめき、
おおこれはディープパープルのハイウエイ☆スターかと。
きれいなものなんだなと見とれたのでした。
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

アクセス数が

2024年04月18日 | blog
 

本日、gooブログアプリを開いたら…

いつもは白地の画面が
なんかオレンジ色になってます

アクセス数がすごいことに。
なにごとかと思いました





数日前に書いた「ミシンと母と私」という記事が
gooブログトップページの、おすすめ記事に選ばれたそう。


さかのぼってほかの記事も読んでいただいたようで、
アクセスランキング
先週などは、4,000位〜10,000位くらいの間らしいのだけど

本日4月17日は、9位 !!


このブログ始めて18年目。
そんなことってあるんだー
オチもなく無防備に書いていたのでびっくりです。


このブームは一過性のものだと思うので
これからも今までどおり、刺さる人が限られる偏ったものを書き散らしていきたいと思います♪



 

キャンペーン

2024年04月16日 | blog

2年ほど前から
あるキャンペーンをひとりで開催しています。

『ちょっと勇気のいることを思い切ってやるキャンペーン』です。

やる前は、どうしよう…やっぱりやめようか…と思うけど
失敗に終わったとしても、
いっぱい恥をかいた分だけきっといい女になるさ♡
(謎の持論)


そしてオソロシイことにその機会は
わりと突然にやってくるのです

 

*


今日は、息子の中学で
修学旅行の説明会がありました。

息子の中学校は、わたしの母校でもあります。


そのかえり道、
「そうそう、このあたりに佐野さん(同級生)のおうちがあったなぁ」

と思いながら、細い路地を曲がると...
まさかの佐野さん本人が、ご自宅前で水を撒いているではありませんか。
そんなことってあるのー?!
35年ぶりの邂逅です。


突然のことに動揺し
おもわず佐野さんの前をスルーしてしまいました。


佐野さんとは、とくに親しかったわけではないのです。
1学年で300人以上もいたので、
佐野さんがわたしを覚えていない確率は、限りなく100%に近いことでありましょう。



さあどうしようこの状況?


通常のわたしなら
後ろ髪を引かれつつも
声をかけずに終了だったでしょう
そんなに社交的ではないのです


でも!
声をかけても失うものは何もないもんね?



引き返します。

佐野さんに話しかけます。

佐野さんはとても驚き、そして案の定わたしを覚えていません。
うん想定内、想定内。それでも全然OK


覚えていなくてごめんなさい、、と謝る佐野さんに


「いいのいいの、どうか謝らんといてね
とくに仲良しじゃなかったし
覚えていなくて当たり前なんですよ♡
今日佐野さんとしゃべって、わたしはそれだけで大満足なんです♪ありがとう」


お礼を言い、帰ろうとしていたら
佐野さんが急に思い出したの。

「待って! だんだん思い出したわ、○○さん、わかるわかる!」


今朝起きた時には
今日こんなことがあると全く思ってなかったなあ


今日これきりになるかもだけど
「また! きっとまたね!」と言って別れた。


写真は、今日の中学校の校舎
35年前、毎日ここにいたんだなぁ
あらためてふしぎ。


ミシンと母と私

2024年04月16日 | blog
 



今日、息子の制服の丈を直すのに
ひさしぶりにミシンを使いました。

去年か一昨年、母のミシンを引っ張りだしてきたら
38年前のミシンが、まだ現役で動いたのです。
びっくりしました。
今日も、しっかり動いています。


 
38年前、わたしは中学生。
当時ジャニヲタだったわたしは
母のミシンで、今でいう「推しグッズ」を量産していたのです(男闘呼組推し)


そしてロックにハマってからは
ストリートスライダーズのライブに行く用に
インドのサリーのような布で、スカートとか作るようになりました。


お裁縫もミシンの使い方もなにも知らないのに
情熱だけでミシンを使えるようになったヲタク魂!
きっかけってそんなもんだよね
難しいことは今もできないけど。



母は、1950年代に文化服装学院に入り
卒業してからは鐘紡のデザイナーをしていました
(同級生にコシノジュンコさんがいたと聞いたことがあります)。


でも、私に服飾のことやミシンを教えてきたりは、一切しませんでした。
やりたかったら勝手にやったらぁー?的な。


そういう押し付けないところがいいなと思っていたのだけど
母が認知症になった今、
母からそういうの習ってみたかったなと、ちょっと思います。



デザイナー母によく
「あんた、なにその服の組み合わせ、センスないわぁ」
と、たびたびダメ出しされて育ちました。
大きなお世話です。笑


そういえば高校生の頃
夜ご飯のあと、ライブハウスに行こうとしていると
「待ちなさい! 絶対行かせへんえ!」
と、母が本気で追いかけてきたことがありました
(校則でライブハウスとディスコは禁止されていたのです)


玄関で捕まりました

あー今日はライブ行けなくなった、、、と思っていると

「その上着をを脱ぎなさい! ロックかなんか知らんけど、その服はそんな品のない着こなしをするための服じゃ無い!」と
理不尽に怒られ、しぶしぶ脱ぐと
「・・・行ってよし!!」と仏頂面で送り出されました。

母よ、娘がライブハウスに行くのはいいんかい!



そんなふうに母は、認知症になるわりと直前まで
わたしの服のセンスを、ナチュラルに常時なげいていました。
(でもそれは本当のことで、わたしは服のセンスがわりと残念と自覚あり)

こちらも慣れたもので、まったく傷つきもしないし、
鉄板のお約束で、むしろ笑いです。


でも、母が認知症で施設に入り
面会に行くと
「ええね、その服、あんさんによう似合てはる」と褒めてくれたことがありました。


自分の娘だということを、もうわからなくなり
私のことを施設の人だと思っているみたいだったけど
そういえば、ええねーとか言ってくれたことってあったっけ?!と驚きました。


それから数年経ち、現在は母とはもう会話ができません
(言葉を話せなくなりました)

服のセンスをディスられていた頃がなにげに懐かしいです。







 

いいなと思うこと

2024年04月09日 | blog

子供のころから
不思議に思っていたことがありました。


不思議というか、
なんでだろう?
ちょっと違和感があるな
というか。


今日、それがすっきりする出来事がありました。




いただいたお香典返しの中に
清めのお塩が入っていなかったんです。


代わりに、この紙が入っていました。

 


 
これを読んだ時
即座に、イエス!イエース!!
と思いました。


ここに書いてある、


『しかし、「塩」でいったい何を清めようというのでしょうか』

『生前に親しんできた方を、
亡くなった途端に「穢れたもの」として「お清め」していくことは
なんとも無残であり
悲しい行為ではないでしょうか』


読んで、ちょっと胸があつくなりました。



子供のころ

「霊柩車が通る時、自分の親指を隠さないと、
親の死に目にあえないよ」

ってよく聞きましたよね。



小学生だった頃
そのことに、確実に違和感があったんよね。

人間が亡くなったのに
まるでそんな死神みたいに、、、
つい数日前まで生きた人間だったのにって。



あと、葬儀場の建設予定地付近に
建設反対!という近隣住民の立てたのぼり。

死神とか妖怪ならわかるけど
自分の家族も、自分も死んだら利用する場所なのにそんなにいやなのかな

と、小学生女子は考えていました。


この気持ちは誰にも言ったことはなかったけれど、
そういう、「自分たちだけ良ければいい」みたいなの、すごく違和感があります。


そういえば、父が亡くなったとき
わたしは臨月だったので
斎場に行くことは許されませんでした。
ほんとうは行ってちゃんとお別れしたかったし
火葬場の扉を閉じさせてほしかったな。



そういう子供の頃からのモヤモヤが
この用紙を読んでなんだかスカッとしました。


わたしは中学生の子供がいるのですが
子供に学校の話を聞くと
わたしたちの時代とはまるで違っていて
世の中が良くなっていくのを感じます。


悪しき風習はなくなっていて
なにかを区別したり、差別する感じが
いっさいなくなっていると感じます。

LGBTのカミングアウトに接しても
中学生たちは「ふーんそうなんだ」くらい。
「別にどっちでもよくね? 誰にも迷惑かけてないやん」と言います。


ああ、いいよなあ。

どんどんいい世の中になぁれ✨








 

2024/04/07

2024年04月08日 | blog

 

 


思うんだけど
じつは、桜を見たいわけではないんじゃないかなって。
桜を見て、去年の春や、これまでのいくつもの春を想っているんじゃないかな

あぁそっかー、もしかしたら桜自体じゃなくて
春の記憶とか、その頃の自分が考えていたことを思い出しているのかもね
子供の頃にお花見なんてまったく興味なかったのは、それでかもしれないね。


というようなことを話しながら、桜並木を歩く。








古き佳き

2024年04月06日 | blog




今月もギター弾き語りで、ライブハウスの飛び入りDAYに出ようと思っています。
ボーカルの相方とギターのわたしで
盆地姉妹というユニットでやっています。

自分たちが物心ついていない頃に流行っていたような
昭和の古い歌を弾き語っています。

相方さんはわたしより5歳若いけれど
自分が生まれてない頃の古い歌にもとても詳しい。


昭和の歌をふたりでリハーサルしていて

「自分たちの好きな歌やけど
でもこの歌詞、
令和の今はきっとコンプラ違反なんやろうねー」
「うん、これは完全にアウトやろうねー」

なんてたまに話してます♪


昭和の歌詞は
男目線の、けっこう男尊女卑なのが、ちょこちょこ出てきます。

でもわたしはそこまで嫌悪感はないのです。
むしろ、歌としては好きな世界観でもあるんですよね


それは、
わたしにも意外とそういう要素があるからなのか、
もしくは、逆にまったくそういう部分が無いからこそ、非現実として憧れるのかもね?(^ー^)


令和であっても
歌詞に厳しいコンプラなんていらないと思うんだー

だって、すごくちゃんとした人が歌ってる
すごくちゃんとした歌詞の、すごく真っ当で正しい曲なんて
けっこうつまらないよねー。






午後8時

2024年04月02日 | blog

 

きのうの京都タワー

 




今日の京都タワー
 
 
 

午後8時って
夜のはじまりな気がします。


18歳の学生の頃からギターでバンドを始め
今も仕事をしながらずっと続けていて
いくつもバンドをしたけれど

バンドのスタジオは、だいだいずっといつも
平日の午後8時からでした。



みんな仕事が終わって午後8時にスタジオに集まる。
朝から働いて
さーやっと夜が来た!みたいな。
で、その日2回目の「おはようございます」

昔は週2回、
今は月2回くらい。


だからか、今も
午後8時が夜のはじまりな気がするのです。
スタジオじゃない日もいつも。



20代の頃は、大阪心斎橋のアメ村のスタジオ。
京都に帰ってからは、ずっとスタジオミュー。
30代はスタジオラグやスタジオバンビ。

今は、スタジオIZか、246スタジオが多いかな
IZや246では知り合いのバンドによく遭遇します。




 

2024年03月26日 | blog

 

 


大好物
新玉ねぎのドレッシング
毎年、旬の時期だけ作れる楽しみです


・粗くみじん切りにした新玉ねぎ
・オリーブオイル、めんつゆ同量
・その半量くらいの酢、白だし
・黒胡椒多め


皮目をパリッと焼いた鶏肉や
お魚のソテーにたっぷりかけたり
納豆とあえるのが好きです。


1年中、新玉ねぎがあったらいいのになぁ。

 
 
 
 
 
 
 

ファイナル

2024年03月23日 | blog

最も愛したバンド、ストリートスライダーズが
いま、最後のライブツアーをしてはります。

スライダーズは2000年に解散したのだけれど
去年から今年にかけて、再集結してライブをしてる。

まさかの再集結、ほんとうにびっくりした!


でもそれはたぶん期間限定で
今回のツアーで、ほんとうに最後なんだと思う。




でもわたしは今回のツアーのチケット、買わなかったんです。


去年3月、
東京・武道館へ再結成ライブを観に行きました。
20数年ぶりに東京へ行ったのです。
One Day。最後だと、記憶に焼きつけて。


でもその後、二度ツアーが発表されて驚き!
で、今回の
本当に本当の最後であろうツアー
もうチケットを申し込まなかった

なんか、もうこれ以上見たらいけない気がしたんよね


好きすぎて、特別な存在すぎて
何度も見ることに耐えられないっていうか。


なんだろうね、この気持ち。

最後なんだから全部行けばいいのにね。

好きすぎてこじらせてるねw

好きすぎると、こんな気持ちになるんだな



何年か前、磔磔でサイン会あった時も

直視するなんて!
御簾越しでないと!
ハリーさんの網膜にわたしが像を結ぶなんて!

などとひとしきり謎の挙動不審になったあと
でも結局サインもらった挙句に、手紙なんかまで積極的に渡してたけど。


でもとにかく
見ちゃいけないんよ、これ以上。

見慣れたくない。
いつまでも、15歳の時はじめて観た気持ちのままでいたい。
中二病みたいだけど、本当にそんなことを思う。


一緒に東京に観に行ったひとにも
「行きたい?」とたずねたら
「ううん。一度だけでいい」と言ってた。


なんかあるんよね、そういうのって。


そんなふうに思うのは
あとにも先にも
わたしにはスライダーズだけだと思う。




 
 
 
 
 
 
 
 
 






「めぐみ」

2024年03月18日 | blog

35年間会っていない友達と、会えることになった。
小学6年生の頃、いちばん仲良かった女の子。


彼女の家でよく「夕焼けニャンニャン」をみて
おニャン子クラブになりきって遊んでた

1985年、12才。
ドラマ「サーティーンボーイ」、
「毎度おさわがせします」
「ハーフポテトな俺たち」
なんかをみてた


レベッカのフレンズはこの年のヒット曲。
(ハーフポテトな俺たちの主題歌だったような気がする)


冬の放課後、彼女の家のコタツで
12歳の悩み事なんかも話したりしてた。



中学を卒業してからずっと会ってない。
卒業式には、またいつでも会えると思っていたけれど、
いつもまにか連絡先もわからなくなって。


わたしは18歳で京都を離れたのもあって
地元のともだちとほとんど縁がなくなってしまった。
SNSでも、女の子は結婚して苗字が変わったらもう探せないものね。


たまーに思い出してた。
そしてもう二度と会えないし、探せないんだよなーと、あきらめてた。
だからレベッカのフレンズを聴くと、12歳の頃を思い出して少し切ない。



が、去年。2023年。


バンドで対バンしたバンドのベーシストが、中学の同級生だった。
それがきっかけで、彼女の連絡先を知ることができた。


35年も会っていなかったら、何を言っていいかわからない。
それこそフレンズの歌詞のように
「他人よりも遠く見えて」かもしれない。


でも、思いきってメッセージを送った。


ごはんでも、ということになった。



LINEでやりとりしてるなかで
うれしいことがあった。


「お店、どこにいこうか」と送ったら

「恵の行きやすいところで大丈夫」
と返ってきた。


わたしのことを「恵」と呼ぶおんな友達は
小学生の頃からのともだち数人だけしかいない。
(全員疎遠になってる)

だから恵って呼ばれて、懐かしかったし
そう呼んでいたことを、ともだちは覚えてるんだってことがうれしかった。


もう会えないのだろうなと思っていた頃
もしまた会えるなら言いたかったことがあった。

ありがとうと言いたかった。


小学生のころ
親に言えない悲しい気持ちがあった。
言っても、スルーされることが予想がつくから言わなかった。


でも12歳の頃、
彼女の家のコタツにあたっていたとき
彼女が、自分の悩みをさらっと短く話した。
だから、わたしもものすごく短く話した。
ほんまいやになるな、ってふたりで笑った。
そのあと普通に、コタツで夕焼けニャンニャンを見て
自分たちの名前でおニャン子クラブの会員証を作ったりしてた。


コタツでテレビをみたり
田んぼでカエルを捕まえたり
大黒天でおみくじをひいたり


ともだちとのそんな日々が、
いろいろあった当時の自分にとって
すごく楽しくて心安らぐ時間だった。
昔のこと、すごくよく覚えているタイプではないと思うけど
そのことは、ふしぎとはっきり覚えてる。


明日、会ったらありがとうって言ってみよう。

わーそんな細かいこと覚えててキモチワルイわーって言われるかもだけど。笑


地元の写真

 



 
 
 
 

 

















ロックンロール!

2024年02月29日 | blog
 
 


 

少し前「障害者のきょうだいの会」に初参加してみました。
親亡きあと、きょうだいは親に代わり色々あるので
同じ立場の人と会って、ちょっと話してみたくなったのです。


そこで面白いことがあって♪

自己紹介が回ってきます。
みなさん、いろんな話をされます。
今までの辛かったこととか、
涙する人もいて。

それを踏まえてこれからどうしていくか、前向きな会です。


自己紹介が回ってきた時
こんな話をしました。

17歳までは、勝手にアニキの分まで人生背負った気になって
親の期待も背負って、死ぬほど勉強した。
でもロックにハマって勉強を打ち捨てて、
そっから初めて自分の人生が始まったんですよねー
みたいな話をしていたんですが、、、

 

そしたら、それまで
真面目な雰囲気で粛々と会を進めてらした会長さん(60代男性)が

離れた席から、手を差し出して

「おぉ、そやねん、ロックンロール!!」

と、急にキャラ変しはったのです。
驚愕!!笑


会長さんの一人称は「私」から「俺」になり

「俺もな、ロックの爆音の中にいて
どんだけ生き返ったかわからんよ
70年代、西部講堂でな
そうか!あんた、ロックの人か!」

と会長さんがフランクに。
さっきまで真顔だった会長さんが「ロックンロール!」と笑ったお顔。

閉会までのあいだに
会長さんは何度も
「やっぱロックやで!」と言い

参加者さんのお話に「そういう時はロックええよー!」
「爆音の中にいたら、スカッと気持ち晴れるさかいね」
などとコメントしておられ

「いやいや、そこロック関係ないんで(笑)」とか突っ込んでました。

 

 


初対面の人同士が、
ふだん人には言わない人生を少しさらけだす。

知らない人だから言えることもある。

全てを話さなくても。同じ悲しみを知っている人々。

 


私はこう言う場面で絶対に泣かない。
むしろ謎に笑いに走ってしまう。

でも自分の話をしながら泣いた女の人がいて、
その人の涙を見て、なぜかわたしが浄化されたような気がした。

 


だから「なんかありがとう」と言ったら、
「そんなふうに言ってくれてありがとう」と逆にお礼を言われた。

そのお礼を言われたことにさえ、
さらにお礼を言いたくなった。言ってないけど。