今話題の茂木健一郎さんと田谷文彦さんが書いた『脳とコンピュータはどう違うか』を読みました。といっても一文字一文字読んだわけではなく、ページをさっとめくってそこに出てくる単語を見て内容を類推しながら1時間足らずで最後のページに行きました。得意な分野でもないので、詳しく読もうという気も起こらなかったんです。
内容は、コンピュータがどれだけ進化しているように見えても、それはプログラミングされた計算をしているにすぎないということ。確かに複雑な計算をできるし、さまざまなプログラムを組み合わせることで色々な分野に応用できる反応を今のコンピュータはするけれども、基本的には自分から能動的に“思考”を作動・創造することはできず、最初の設定に依拠せざるをえないということ。
それに対して人間の脳の特性はまさに自ら“思考”を行っているということ。またその脳の働きのパターンも必ずしも人間の脳の本質として備わっているものではなく、環境の影響を受けること。
大体こういうことを言っているような印象を受けました。大雑把過ぎてスミマセン(^ ^;)。
読み終わったときの正直な印象は、「うーん、語り方が“科学的”なところは新しいのかもしれないけど、結論は20世紀の言語哲学や現象学(この二つも互いに違うのだけれど)がずっと前から言っていることとそれほど違うのだろうか?」というものでした。
でもこれだけ話題になっているし、茂木さんは小林秀雄賞まで受賞しているので、もっと革新的なことを言っているのだと思います。
今これを書いている前にある英語のAudiobookを聴いていました。そこで思い出したのが著者たちが言う「感覚クオリア」と「志向クオリア」のこと。
「クオリア」とは、対象に刺激された脳がその対象を把握しようとする働きのことだったと思います。「感覚クオリア」とは、まさに対象のもつ形・色・匂いなどに対応して発動する脳の刺激パターン。「志向クオリア」とはその「感覚クオリア」よりももっと包括的なもので、対象を概念として“全体的”に捉える脳の刺激パターンです。
たとえば、感覚クオリアが「リンゴ」を理解するのは、まさにアノ赤くて丸い「リンゴ」を見ることによってなされます。それに対して「志向クオリア」は、たとえば白い画用紙の上に「リンゴではないもの」を描くことによって結果的にリンゴの形をした空白ができたときに、それを「リンゴ」として把握できる脳のパターンです。
どうして英語を聞いていてこれを思い出したのかといえば、英語というのは、というより外国語というものは、というより言語というものは、この「志向クオリア」に著しく依拠して形成されるものなんだろうな、という感じだからです。
よく言われているように、文法書に書かれている文法が言語を形成されているわけではありません。本来は個々の状況に応じて自由になされる発語・記号の表現を観察してそこに最大公約的なパターンを取り出したのが文法であって、文法が個々の言語表現を完璧に規制することは不可能です。
つまり個々の状況では私たちは、文法という目に見えるものをとらえる「感覚クオリア」ではなく、一寸先は闇である自由な一つ一つの記号表現を瞬時に“理解”し、それを“概念”として一挙に一つのまとまりとして把握してしまう「志向クオリア」を活用しています。それは、一つ一つの音のつらなりを理解するというよりは、文脈に応じて発音されない音を類推し、そこから単語を頭で組み立て、相手が発した言葉を想像する能力です。
日本語では何気なくそうしたことをしていても、外国語だとその難解な作業をすることにひじょうに困難を覚えます。
ただ、そういうことを思ったというだけなんですけど・・・
涼風
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます