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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『産業人の未来』 P.F.ドラッカー(著) 1

2006年04月25日 | Book
以前、P.F.ドラッカーの処女作『経済人の終わり』(1939)についてエントリーしました。このドイツ生まれの世界的ベストセラー作家・経営学者について私はあまり知らないのですが、そのイメージに反して処女作はナチスと全体主義国家に関する簡潔で鋭い政治経済的分析で、彼が社会全体のあるべき状態について非常に強烈な問題関心を持つこと、それゆえ第二次大戦とナチスの侵攻は彼にとって急迫の問題だったことが分かります。

ありふれたコンサルタントとも現代のテクノクラート的な社会科学者とも違い、ドラッカーは社会・人類のあるべき方法を模索する偉大な思想家なのではないか、そういう予想を抱かせる処女作でした。

『産業人の未来―改革の原理としての保守主義』は、その彼が『経済人の終わり』の次に1942年に出版した著作で、内容的に『経済人の終わり』の続編と言えるものです。

『経済人の終わり』では、ナチスの社会体制はヨーロッパの産業・経済発展の挫折、恐慌の激化により無感覚に陥った大衆が、既存の体制に拒否反応を示すために採られた体制であることを告発した著作でした。ドラッカーにとってナチス体制は、決してヒトラーという気まぐれな悪魔が作ったものではなく、工業主体の経済体制が陥った停滞の必然物でした。

ドイツのナチス体制では、それまでの産業社会を否定するように、“経済発展”というビジョンをもたず、国民生活の豊かさというビジョンももたない社会が出来上がりました。そこではただ国民の倹約によってのみ成り立ち、対外侵攻以外に目標をもたない社会体制が生まれました。

したがって、このナチス体制を連合軍が打ち破ることができるかどうかは、これからの西欧の産業社会がその恐慌・停滞を乗り越えて発展していくことができるかを意味することをドラッカーは指摘します

『産業人の未来』は、そうした問題意識を引き続きもち続け考察をより深めた著作です。1942年に書かれたこの本は、今では時代遅れになっている部分があるように一見見えますが、この本の問い自体はそのまま現代に通用するものです。この本を読んで私は、ますます、このドラッカーという人の大きさを感じました。

この本でもドラッカーは、ナチスという問題は決して(戦後のドイツ人たちが考えたような)ドイツ固有の問題ではなく、ヨーロッパが作りアメリカが発展させている“産業社会”がここで終わるか変革できるかの瀬戸際に立っていることを意味することを指摘します。

社会における「位置」と「役割」の必要性

産業社会が作り出した経営組織の官僚制が支配する社会体制・国民生活を破壊する(当時の)恐慌という状況の中で、その産業社会への大衆的な拒否反応がナチズムとして現れたのですが、そこで人々に魅力的な生き方・働き方・生活を提示できるかいなか、そこに産業社会の未来がかかっているとドラッカーは述べます。ドラッカーはそれを、個人がその社会の中で“位置”と“役割”を持てる社会かどうか、と表現します。彼は次のように述べます。

「社会というものは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、重要な社会権力が「正統性」をもちえなければ機能しない。前者、すなわち個人に対する位置と役割の付与は、社会の基本的枠組みを規定し、社会の目的と意味を規定する。後者、すなわち権力の正統性は、その枠組みのなかの空間を規定し、社会を制度化し、諸々の機関を生み出す。
 一人ひとりの人間が社会的な位置と役割を与えられなければ、社会は成立せず、大量の分子が、目的も目標もなく、飛び回るばかりである。他方、権力に正統性がなければ、絆としての社会はありえない。すなわち、奴隷制あるいはたんに惰性の支配する真空が存在するだけである」(22-3頁)。

大衆一人一人に社会における位置と役割をもてなくさせたのが、産業社会のもたらす恐慌であり、官僚制的な社会だったと彼は言いたいのだと思います。

恐慌による失業が個人にとってもたらすのは、決して物理的な欠乏だけではなく、それ以上に個人の生きる意味の喪失です。その「個人の生きる意味の喪失」は、失業により社会へのアクセスする道が絶たれていることに由来します。ドラッカーは次のように述べます。

「失業した者は社会から疎外される。気力を失い、技能を失う。無関心となり、無感覚となる。
 初めは腹をたてる。しかし、たとえ反抗というかたちしかとりえないとしても、腹をたてることは社会参加の一形態である。ところが、まもなく彼らは、社会が、反抗すべき相手としてさえ、あまりに非合理かつ理解不能なものであることを知る。途方に暮れ、怯え、絶望する。そしてついには、屍同様の無感覚に陥る。・・・
事実、彼らは異人種である。彼らの周りには、彼らを見捨てた社会に属する人々と、彼らを分ける目に見えない壁が出来ている。しかも、彼らだけでなく、社会のほうもこの壁の存在を意識する。こうして、失業者と就業者の間の社会的な絆は徐々に消えていく。失業者と就業者は、別の酒場、別の玉突き場に出入りする。互いに結婚することはほとんどない」(91-2頁)。
 

大恐慌が西欧社会と世界に教えたのは、産業社会ではこの失業が常態化する可能性でした。ドラッカーによれば、それ以前の社会ではいかなる恐慌においても慢性的な失業は存在しませんでした。19世紀最大の不況である1873年の恐慌においてさえ、失業は発生しませんでした。「しかも失業はたとえ発生したとしても、恐慌の最後に現れ、最初に消える現象だった。失業は、株価や物価の上昇、企業収益の改善がもたらされるはるか前になくなっていた。 しかし前回の大恐慌では、雇用が増加したのは、他のあらゆるものが回復した後のことだった。それどころか、この20年間における失業問題の最も怖しい点は、景気が回復しても、さらには好況となっても、失業が執拗に続いたことだった」(90-91頁)。

またたとえ失業しなくとも、20世紀的な組織で働くことは、機械の歯車となることを意味するため、必然的に生きる意味を感じることができない労働に陥いってきました。

この傾向は現代でも引き継がれており、事務的部門が組織でいまだに不可欠なものとされ、派遣労働によって補われていることに現れています。“工場労働者”的な労働とは、必ずしも肉体労働を意味するのではなく、熟練した技能を発達させるチャンスを与えられず、時間と指令によって創造性より機械としての正確さのみが求められる労働です。そこでは労働が単に個人的な生計の資を得る手段に成り下がり、労働者はその労働を通して組織と社会に参画しているという意識をもちえません。

「組み立てラインの技術は、社会的な位置や役割、個性をもたない労働力、標準化された交換可能な分子としての労働力を必要とする」(94頁)。

現代の“知識労働化”、すなわち差異をもつサーヴィスの重要性の高まりという状況は、労働者が一部の“知識労働者”と上記のような歯車に別れる事態を指すのであって、工場労働的な労働がなくなることを意味しません。むしろ二つの格差を固定化する危険を孕んだ社会です。

ドラッカーはブレイヴァマン(『労働と独占資本』)より30年も前に、次のように述べます。「本物の労働者とは、技術者や職人としての誇り、仕事の中身、必要とされる技能、そして社会的なしかるべき位置と役割をもつ人びとだった。昔の印刷工、鉄道技師、機械工ほど、誇りや自尊心をもち、自らの仕事と社会とのかかわりを意識していた人々はいなかった」(95頁)。

経済組織の正統性の危機

個々人の産業社会における「位置」と「役割」の喪失は、権力の正当性の危機と結びつきます。なぜなら、その喪失は、主に産業社会全体の組織化・機械化・官僚制化によって、個々人の権利が実質を失いながら、権力はピラミッドの頂点に集中し、組織はたしかに権力を発揮できるのですが、もはやその権力に大衆の支持という意味での正統性は存在しないからです。

ドラッカーはそのことを示す主な例として株式会社の存在を挙げます。株式会社の巨大化により、株を個々人がもつことによって経営権に影響力を発揮するという本来の株主の権利は失われ、株は単なる売買のための紙となり、株主にとっては金銭との結びつきしかもちえません。そこでは株式会社が本来持っていた成員の自治という機能は失われ、実質的な権限は経営者にのみ集中します。

またアメリカの大企業に顕著なように、経営者自身が大株主であり、また日本企業では株式の相互持合いで実質的に経営者に企業の権限が集中するような体制が産業社会では採られていました。

これにより、個々人の労働が社会構成体への権利を作り出すというロックの市民社会の理念は通用しなくなり、企業の権力は株主の支持をもたない巨大権力へと変貌しました。これにより株主は企業との結びつきがなくなり、企業への参画意識は芽生えなくなりました。そこには「権力」は存在しますが、成員の支持という権力の正統性は存在しません。

「経営陣の権力は、いかなる観点から見ても、社会が権力の基盤として正統なものと認めてきた基本的な理念にもとづいていない。そのような理念によって制約されてもいなければ、制約を課されてもいない。そのうえ、なにものに対しても責任を負っていない」(83頁)。

(この問題は、80年代以降のアメリカや現代の日本では一見通用しないように見えます。株主主権という概念が持ち上がり、株の買占めにより経営への影響力を発揮させる株主の出現です。

しかし、それは決して株主個々人の権利の復権という意味はもたないでしょう。個人株主は相変わらず市場の取引に翻弄されるだけで、一部上場企業に影響力を発揮できる「個人」は存在しません。現在株主として経営者に影響力を行使しているのは「機関投資家」であって、それは市場・法律知識を駆使する一種の専門家集団です。

M&Aなどを用いるその手法は一つのビジネスの発明でしたが、それは大衆「株主」の権利を取り戻しているわけではありません)

社会保障の限界

こうした危機的状況に対して、(戦後の西欧とアメリカが追求した)「社会保障」というものの効果をドラッカーは疑問視します。それは、80年代以降になってあらためて西欧が直面した問題を指摘する視点です。

すなわち、「経済的満足は社会的にも政治的にも消極的な意味しかもちえない」という洞察です。すでに19世紀の終わりから実施されていた西欧諸国の社会保障政策がドラッカーに教えたことは、社会保障が実現する経済的な満足というものは、それがなければ深刻な社会的・政治的亀裂をもたらすが、しかしそれだけでは「機能する社会」をもたらすことができないという教訓でした。社会保障は「機能する社会のための前向きな基盤」とはなりえない。「いかなる社会保障といえども、社会の構成員に対して、社会的な位置と役割を与えることはできない」(98-9頁)。

「位置と役割」をもたらす「自由と責任」

では、この「社会的な位置と役割」を産業社会にもたらす手段とは何なのか?ドラッカーはこの書ではその問いに具体的な答えを与えません。むしろ「社会的な位置と役割」をすべての社会成員にもたらすための思想的基盤を理論的・歴史的に考察することで、この書を終えようとします。その点で、この本はドラッカーにとって、何がまだ分からないかを明らかにするための本だったのかもしれません。

ドラッカーにとって、個々人に社会における位置と役割を与える上で確認すべきことは、個人がその自律性に沿って行動する自由と責任を負うこと。自由な言動とそれがもたらす結果に対する責任を意識すること。それにより個人は自らの存在が社会の中で「位置」をもっているという自覚をもつことができます。

たとえば、ショーウィンドウを見てアイスクリームを食べるかパフェを食べるかという選択は、責任を伴う自由と結びつきません。消費の選択は、個人的な行動に過ぎず、社会への参画とは結びつかないからです。

しかし、同じ消費でも、環境・社会に悪影響を与える商品を買わないという選択は、それが他人の生活と社会のあり方に影響を生じさせるという点で、責任を伴う自由な行為と言えます。

自由/責任とは、社会における「重要な」領域での行動において必要となるものです。そのような領域(それは時代ごとで変わる)では、個人の行動が他者の生活に大きな影響を及ぼします。

ひょっとすると現代では、「投票」という行為が実は社会のあり方に与える影響は少なく、それゆえ責任を伴う自由な選択を必要としない場面になっているかもしれません。それに対して、コンビニで商品を購入する際に、店員に自然に微笑み「ありがとう」と言うことのほうが社会全体に与える影響のほうがじつは大きいのかもしれません。本田健さんが知っている調査によれば、都市で生活する個人は一万人の人の生活に影響を与えることができるそうです。お店で接する店員に「ありがとう」と言うことで店員は機嫌がよくなりその同僚や家族に優しく接することができその同僚もまた知り合いに機嫌よく振る舞い・・・という連鎖が都市では一万人に及ぶということです。ネットの広がりを考えるともっと大きいのかもしれません。

ともかく肝要なことは、その社会において「重要」な領域、「その領域における価値がその社会の社会的価値であり、褒賞が社会的褒賞であり、名声が社会的名声であり、理想が社会的理想であるような領域における自由」を確保することです。それはある地域では宗教であり、別のところでは政治であり、また別のところでは経済であります。

ドラッカーの生きた時代と場所では、その重要な領域とは経済と産業組織であり、その傾向は現代に至るまで続いています。つまり、個人が経済生活を営む領域での自由の確保が依然として私達の社会においては重要な課題であり、それを達成しない限りは、個々人に位置と役割を付与することは不可能であるということです。

もっとも、ここから経済中心主義の社会をそのまま受け入れるか、そこからの脱皮を図るかについては人によって意見が分かれるところかもしれません。経済領域における自由・位置・役割の付与が重要であるということで、「ひきこもり」「ニート」「フリーター」の人たちに職業訓練プログラムを与え半ば強制的に労働世界に引き込むことが本当に自由な社会の創造につながるのかどうかは分からないからです。

ソニーの取締役・天外司朗さんは、「ひきこもり」の人たちの出現は、経済と競争中心の価値観からの脱皮を図ろうとしており、その点で彼らは進んだ人類だと指摘しています。もしそうだとすれば、経済領域における位置・役割の付与に固執することが既存の経済競争の体制をそのまま肯定する危険についてもっと意識すべきなのかもしれません。

もちろん、だからといって急激な経済体制の転換というものは非現実的であり(それはドラッカーも天外さんも忌み嫌っていることです)、既存の経済組織自体は維持していたほうがいい。ただその組織の中で、そこにいる個々人が少しずつ競争とは別の価値観をもつことが重要なのだと思います。

ともかく、経済領域における個々人の自由・位置・役割の確保がドラッカーにとっては自由となります。そこでこそ個々人は、規則に従うだけの“工場労働”とは異なり、自らの選択能力・創造性を発揮させることができます。したがって大切なことは、経営者には従業員に彼らのクリエイティビティを発揮させるような経営環境を探求させることであり、政府・行政には国家の管理領域や大企業のみを優遇する措置を撤廃させることなどになります。

『産業人の未来』 P.F.ドラッカー(著) 2に続く)


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2 Comments

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TBさせていただきました (マル季)
2008-03-30 14:02:48
承認されて反映されることを心待ちにしております。
こんにちは。 (涼風)
2008-04-01 23:27:05
マル季さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

TBはされてないですよ~。もう一度してみてください。

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