きのう、留学先で知り合った女の子から寒中見舞いの葉書をもらいました。なんとなく連絡を取らないままだったので少し驚いたけど、つながりがあるというのはいいですね。
今日の朝、ご飯を食べていると、父に「布団の近くにヒーターを置いたら危ない」と言われました。
わたしは寝るときに、スイッチを切ったヒーターを布団のすぐ横に置いています。地震の話題が最近は多いですが、部屋にあるタンスがもし倒れたときにヒーターが近くにあると、タンスはヒーターに当たって多少自分のからだへの衝撃は弱まるかなぁと思ったからです。べつに実際のシミュレーションはしていないですが・・・
そう説明すればいいのだけど、父には「電気はつけていない」とだけすぐに言い返しました。多少ぶっきらぼうだったと思います。
わたしがすぐに“反論”したのは、きっと父の忠告に対しては無条件に反発するように私のマインドにはプログラミングされているのだと思います。つまり、自動反応しているわけです。
このような体とマインドの自動反応は知らず知らずのうちにひとを疲弊させる大きな原因となります。
宝彩有菜さんは、人とのコミュニケーションを円滑にする方法として、相手がなにか意見を言ったときに「そうですね」と言うことを薦めています(『なれたらいいなっ』より)。
この「そうですね」は、なにも自分と違う意見に無理やり同意することを意味していません。そうではなくて、「そうですね」と言うことで、「きっとあなたが言っていることは、あなたにとっては正しいと思えることなのですね」というメッセージを相手に伝えるということだそうです。もう少し言うと、「私はあなたの生まれや育ちや立場をよく理解しているわけではありませんが、きっとそう主張するのにはあなたなりの正当な理由があるのでしょうね」というメッセージだそうです。
わたしが人に何かを言うとき、それを相手にわかって欲しいとわたしは思っています。しかし、この場合の「わかって欲しい」は、じつは「わたしのことを受け入れて欲しい」という感情的な欲求です。
しかしわたしは、人と意見が食い違うとき、必死に自分の「正しさ」を訴えます。それは、「正しく」なければ自分の存在が否定されているように感じるからです。
だから、わたしの本当の欲求は、自分の意見が正しいか間違いかではなく、「わたしのことを受け入れて欲しい」という欲求です。しかし、わたしは、自分の「正しさ」を相手が理解し、また相手がその「間違い」を正さなければ、じぶんが受け入れられたことにはならない、と誤解してしまっているのです。
そのため、わたしは他人と「激しい議論」をして、自分の「正しさ」を証明しようとします。しかしそこで重要となっているのは、本当は「何が正しいか」ではなく、「じぶんを受け入れて欲しい」という感情的なニーズです。
こういう傾向を身につけたわたしにとって、相手の言うことに「そうですね」と言うことはひとつのチャレンジです。たとえ相手への同意を意味しないとしても、相手の意見にすぐに反論せずに、「それがあなたの思うことなんですね」と一呼吸おくことは、難しいことです。なぜなら、「そうですね」と言って相手に同意していると思われたら、じぶんは「敗北」してしまうし、そうするとどうしようもない屈辱に襲われるのですから。
しかし、じつは相手が一番求めていることは、まず自分が受け入れられることなのでしょう。また、そうやってじぶんが受け入れられたことさえ確認できれば、お互いに意見の違いを認め合う建設的な議論が可能となるのでしょう。
鈴木秀子さんはその著書のなかで、「アクティブ・リスニング」の重要性を述べています。つまり、ひとは、まず自分の話を(批判も無理な同情も交えずに)聴いて欲しいと思っていること。しかし、知的であることを優秀なことと考えている文化では、誰もが自分の「正しさ」を証明することに必死で、感情的な批判を交えずに他人の話を聴くことはとても難しいということです(『愛と癒しのコミュニオン』より)。
そのような文化的傾向に染まらないために、鈴木さんは大学のゼミでは、生徒たちに、発表者の意見に対して批判的な意見を述べさせず、まず発表者の言いたいことをすべて聴くように「訓練」させているそうです。
これは、批判的な討議ということを重んじる人からみれば常識はずれな実践ですが、議論をしているのは感情をもった人間であるという事実を考えれば、じつは建設的な議論を行なうための必要な条件かもしれません。
たとえ相手が何を言おうとも、まず「あなたにとってはその意見が正しいのですね」と言う意味の「そうですね」を言うことは、わたしには簡単なことではないと思います。でも簡単ではないからこそ、チャレンジする価値があるように思えます。
涼風
今日の朝、ご飯を食べていると、父に「布団の近くにヒーターを置いたら危ない」と言われました。
わたしは寝るときに、スイッチを切ったヒーターを布団のすぐ横に置いています。地震の話題が最近は多いですが、部屋にあるタンスがもし倒れたときにヒーターが近くにあると、タンスはヒーターに当たって多少自分のからだへの衝撃は弱まるかなぁと思ったからです。べつに実際のシミュレーションはしていないですが・・・
そう説明すればいいのだけど、父には「電気はつけていない」とだけすぐに言い返しました。多少ぶっきらぼうだったと思います。
わたしがすぐに“反論”したのは、きっと父の忠告に対しては無条件に反発するように私のマインドにはプログラミングされているのだと思います。つまり、自動反応しているわけです。
このような体とマインドの自動反応は知らず知らずのうちにひとを疲弊させる大きな原因となります。
宝彩有菜さんは、人とのコミュニケーションを円滑にする方法として、相手がなにか意見を言ったときに「そうですね」と言うことを薦めています(『なれたらいいなっ』より)。
この「そうですね」は、なにも自分と違う意見に無理やり同意することを意味していません。そうではなくて、「そうですね」と言うことで、「きっとあなたが言っていることは、あなたにとっては正しいと思えることなのですね」というメッセージを相手に伝えるということだそうです。もう少し言うと、「私はあなたの生まれや育ちや立場をよく理解しているわけではありませんが、きっとそう主張するのにはあなたなりの正当な理由があるのでしょうね」というメッセージだそうです。
わたしが人に何かを言うとき、それを相手にわかって欲しいとわたしは思っています。しかし、この場合の「わかって欲しい」は、じつは「わたしのことを受け入れて欲しい」という感情的な欲求です。
しかしわたしは、人と意見が食い違うとき、必死に自分の「正しさ」を訴えます。それは、「正しく」なければ自分の存在が否定されているように感じるからです。
だから、わたしの本当の欲求は、自分の意見が正しいか間違いかではなく、「わたしのことを受け入れて欲しい」という欲求です。しかし、わたしは、自分の「正しさ」を相手が理解し、また相手がその「間違い」を正さなければ、じぶんが受け入れられたことにはならない、と誤解してしまっているのです。
そのため、わたしは他人と「激しい議論」をして、自分の「正しさ」を証明しようとします。しかしそこで重要となっているのは、本当は「何が正しいか」ではなく、「じぶんを受け入れて欲しい」という感情的なニーズです。
こういう傾向を身につけたわたしにとって、相手の言うことに「そうですね」と言うことはひとつのチャレンジです。たとえ相手への同意を意味しないとしても、相手の意見にすぐに反論せずに、「それがあなたの思うことなんですね」と一呼吸おくことは、難しいことです。なぜなら、「そうですね」と言って相手に同意していると思われたら、じぶんは「敗北」してしまうし、そうするとどうしようもない屈辱に襲われるのですから。
しかし、じつは相手が一番求めていることは、まず自分が受け入れられることなのでしょう。また、そうやってじぶんが受け入れられたことさえ確認できれば、お互いに意見の違いを認め合う建設的な議論が可能となるのでしょう。
鈴木秀子さんはその著書のなかで、「アクティブ・リスニング」の重要性を述べています。つまり、ひとは、まず自分の話を(批判も無理な同情も交えずに)聴いて欲しいと思っていること。しかし、知的であることを優秀なことと考えている文化では、誰もが自分の「正しさ」を証明することに必死で、感情的な批判を交えずに他人の話を聴くことはとても難しいということです(『愛と癒しのコミュニオン』より)。
そのような文化的傾向に染まらないために、鈴木さんは大学のゼミでは、生徒たちに、発表者の意見に対して批判的な意見を述べさせず、まず発表者の言いたいことをすべて聴くように「訓練」させているそうです。
これは、批判的な討議ということを重んじる人からみれば常識はずれな実践ですが、議論をしているのは感情をもった人間であるという事実を考えれば、じつは建設的な議論を行なうための必要な条件かもしれません。
たとえ相手が何を言おうとも、まず「あなたにとってはその意見が正しいのですね」と言う意味の「そうですね」を言うことは、わたしには簡単なことではないと思います。でも簡単ではないからこそ、チャレンジする価値があるように思えます。
涼風
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