(下の記事「ことば イメージ 音 (1)」の続きです。丸山圭三郎著『ソシュールの思想』や英語研究者大西泰斗さんの本を読んで印象に残ったことをまとめました。全部で8000字を越えています。読んでいただける方は、「(1)」からお読みください)
ここまでが、大西泰斗さんや丸山圭三郎さんの本を読んでなるほど、と感じたことです。ただ、よくわからないこともあります。
『ネイティブ・スピーカーの英語感覚』には、英語の文章で多用される、up、down、out、offなどの言葉の説明がされています。これらの言葉は、動詞と共に用いられ「熟語」形成しますが、しかしそれもこれらの言葉がもつイメージ、感覚にそって動詞と共に用いられているだけで、英語圏の人たちはそれを「熟語」として理解していません。
ところで、たとえばoutはつぎのように説明されます。大西さんによれば、outには「内部から外部への動き」があるとされ、この「内部から外部への動き」をイメージ化(イラスト化)した上で、outのもつ様々な意味が説明されます。もちろん、そのどれもが、「内部から外部への動き」のイメージと関連しています。
Watch out! (外を見ろ→注意しろ)
go out (外出する→デートする)
speak out (外に向って話す→意見を公にする)
stand out (外へと立つ→目立つ)
out of his head (あたまの外へ→正気じゃない)
make out (隠れていたものを外に出す→理解する)
などなどじつに多くのoutの使い方がイメージと共に説明されています。これ自体は「ネイティブスピーカーシリーズ」に特徴的なことです。ただ、そのイメージを用いた説明を読んでいると、どうしても読んでいてout〔aut〕と言う発音と「内部から外部への動き」というイメージが一体のもののように思えてきます。
言葉がそれにまつわるイメージと切ってはきれないことはソシュールさん(丸山さん)の考えと同じですが、私には、どうしても〔aut〕という語感と「内部から外部への動き」というイメージが必然的に結びついてoutという言葉ができたように思うのです。つまり、音と意味との間に必然的な関係があるように(大西さんの本を読むと)感じてしまうのです。
しかし、ある音と意味との間に必然的な関係があるという考えはソシュールさん(丸山さん)の考えとは正反対のものです。ソシュールさんによれば、outという言葉の意味も、あくまでinやoffなどのほかの言葉との差異によって決定されます。「外部への動き」のイメージも、「内部への動き」「上への動き」「下への動きといった他のイメージとの差異によってその輪郭が決定されます。その輪郭の画定においては、〔aut〕という自然音はなんら役割を果たしません。
『ソシュールの思想』を読んでもわからないのはここです。自然音と意味との間に必然的な結びつきはないと書かれているのですが、ではなぜある自然音が採用されるようになったのかについては何も言われていないからです。
私の読み落としの可能性もあります。しかし、言葉がイメージ作用・感覚作用もつのであれば、そのイメージ・感覚に音が影響するのは必至のようにも思えます。音は必然的に感覚に変化を生むからです。
ソシュール(丸山さん)の考えに従えば、もし自然音が意味形成に役割を果たすのであれば、誰でも外国語を自然に理解できるはずだ、という反論が聞こえてきそうです。丸山さんは次のように述べています。
「…言語の持つ必然性は、いわば社会制度のもつ強制力という意味での必然性であって、自然のなかに見出される必然性とはまったく異質なものであることを忘れてはならない。
もう一度、ごく身近な状況を想定してみよう。ここに自国語しか解さぬフランス人とイギリス人と日本人が同席したとする。そこで、連続的にガラスを釘の先でひっかくような物理音が聞えると、三人とも一様にその「不快音」に生理的反応を示し、顔をしかめるとか耳をふさぐに違いない。
ところがMerede!とかCon!という音声に反応するのはフランス人だけであろうし、God damm!という音声を聞いて顔をしかめるのはイギリス人だけであろうし、同じように日本語で卑猥な言葉が吐かれた時に顔を赤らめるのは日本人だけであろう。
前者のガラスの音は、その物理音そのものが不快な自*然*的*性質をもっているのに対し、後者の言語音は、《コトバの意味》を担っているという限りにおいて、不快な社*会*的*性質を持っているからにほかならない。もともと〔kɔ〕という音のイメージには、それと必然的に結ばれる意味を離れては、何一つ不都合な性質をもっているわけではないのである。…言語が必然的なのは、それが恣*意*的*である限りにおいてなのである」(p.151 段落の区切りは涼風)。
outが「外へ」という意味を持つのも、恣意的に英語圏の人がoutという自然音あるいは文字と「外へ」というイメージを結びつけたことによります。しかしそこで〔aut〕という音が選ばれた理由は、ソシュール理論では説明できないし、正確に言えば説明してはいけないことになっています。おそらくソシュールさん(丸山さん)の考えでは、「社会的にそう形成された」という以上のことは言えないからです。丸山さんは次のソシュールの言葉を引用しています。
「言語記号は恣意的である。与えられた聴覚映像(音が喚起するイメージ 涼風)と特定の概念を結ぶ絆は、そしてこれに記号の価値を付与する絆は、根底的に恣意的な絆である。…記号は恣意的である。つまり、たとえばsoeur(姉妹)という概念は、いかなる性格、いかなる内的関係によっても、これに対応する聴覚映像を形成する一連のs+ӧ+rという音とは結ばれていない」(p.144)
物理音と意味との間に必然的な関係はないというソシュールさん(丸山さん)の考えに対し、私は大西さんの一連の著作を読んで、むしろ音と意味との間に結びつきがあるような感覚を覚えました。単語を発音するときに醸し出されるイメージ・感覚と意味とが密接に結びついているように感じたのです。
しかし、この結びつきを「論証」することはきわめて困難です。先にも述べたように、音が意味と必然的に結びつくのであれば、人は外人の話し言葉を聞けば自然に意味を理解できることになるからです。
また、音が意味と必然的に結びつくのであれば、今度はなぜその音がその意味と「必然的に」結びつくのかという理由を見つけなければなりません。もし〔aut〕という発音が「外部へ」というイメージと「必然的に」結びつくのであれば、その必然性を保証するものは何かという問題が持ち上がります。そうなると、言えるのは、「神がそのように音と意味を形成した」としか言えなくなるからです。
こういうふうに考えると、ソシュールさん(丸山さん)の考えはとても論理的で整合的に思えます。ただ、逆に言うと、「整合的」「論理的」に考えるからソシュールさん(丸山さん)のような発想が出てくるのだと言うこともできます。
この『ソシュールの思想』では、ソシュールさんの伝記が少し書かれていますが、なぜソシュールがこのような共時的な言語分析の方法を考え出したのかについては何も書かれていません。まるで、突然ソシュールさんはその考え方を発明したかのようです。つまり、彼がどのような知的背景の下で革新的な考えを生み出したのか?何に強く影響されてその考えを生み出したのかについては説明されていません。
わたしにも推測の仕様がありませんが、ただソシュールさんが何かを現実の事象を説明するのに「原因」となるもの、実体的なもの、神のようなものを措定する考えを激しく拒否しているのは明らかです。そのような知的モードは当時の無視できない潮流だったでしょう。
そのような知的傾向の影響にさらされた以上、ソシュールさんが言語分析の新しい考えを生み出そうとすれば、物理音と意味との「必然的」な結びつきという考えは「論証不可能」なものとしておそらく最初から検討の対象にさえならなかったかもしれません。言い換えれば、ソシュールさんの思想は、言葉を観察した結果生まれたのではなく、言葉について論理的に考えた結果うまれたものかもしれない、そんなふうにも思います。
わたしはここでソシュールさんの考えを反駁しようとも思わないし、そんなこともできません。ただ、ソシュールの考えが「論理的思考」の産物である以上、論理が先行しているがゆえに、一般の人たちの言葉に対する実感とはかけ離れざるをえないのは事実だと思います。一般の人たちの言葉に対する実感(とわたしが推測するもの)とは、ある物理音の連なりが生み出す感覚への作用が意味と結びついているという考えです。
たとえば、「ありがとうございます」という言葉を昼夜を問わず唱え続けることでがんが治ったという話は多くの本に書かれています(例えば『続 気楽なさとり方』宝彩有菜著)。
言葉とイメージとのつながりという考えに従えば、それは自然なことです。「ありがとうございます」という言葉には感謝というイメージがあるからです。
ただソシュールさんの考えをつきつめると、この感謝のイメージが「ありがとうございます」という物理音である必然性はありません。それは他の言葉であってもいいはずなのです。ただ日本社会の歴史においては、「あ」「り」「が」「と」「う」「ご」「ざ」「い」「ま」「す」という音の恣意的な切り取りと感謝のイメージが結びつきました。
ただわたしには、これは本当に恣意的だったのだろうか、という一抹の疑問もあります。「ありがとうございます」と口にすると、誰でもあたたかいものを感じますよね。それは「ありがとうございます」のイメージが喚起しているといえますが、同時にそれら「あ」「り」「が」「と」「う」「ご」「ざ」「い」「ま」「す」という音の連なりに一種の音楽のような作用があって、その音楽の作用があるからこそ感謝のイメージを表す言葉として採用されたという考えはできないのかな?と思ったりもします。
もっともソシュールの考えに従えば、その「音楽的作用」すら、言語の秩序によって作られた私たちの感覚の産物である、と言えるのかもしれません。つまり、音楽を理解する私たちの感覚もまた、言葉の秩序が編み出したのかもしれません。
なんだか、まとまりのない文章になってしまった(笑)。
この『ソシュールの思想』は本当はもっと緻密にソシュールさんの思想を解説している本です。簡単とはいえないかもしれませんが、難しい本でもありません。「ソシュール」という名前を知っていてもそれ以上はよく知らなくて、でも興味がある方には面白い本だと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
涼風
ここまでが、大西泰斗さんや丸山圭三郎さんの本を読んでなるほど、と感じたことです。ただ、よくわからないこともあります。
『ネイティブ・スピーカーの英語感覚』には、英語の文章で多用される、up、down、out、offなどの言葉の説明がされています。これらの言葉は、動詞と共に用いられ「熟語」形成しますが、しかしそれもこれらの言葉がもつイメージ、感覚にそって動詞と共に用いられているだけで、英語圏の人たちはそれを「熟語」として理解していません。
ところで、たとえばoutはつぎのように説明されます。大西さんによれば、outには「内部から外部への動き」があるとされ、この「内部から外部への動き」をイメージ化(イラスト化)した上で、outのもつ様々な意味が説明されます。もちろん、そのどれもが、「内部から外部への動き」のイメージと関連しています。
Watch out! (外を見ろ→注意しろ)
go out (外出する→デートする)
speak out (外に向って話す→意見を公にする)
stand out (外へと立つ→目立つ)
out of his head (あたまの外へ→正気じゃない)
make out (隠れていたものを外に出す→理解する)
などなどじつに多くのoutの使い方がイメージと共に説明されています。これ自体は「ネイティブスピーカーシリーズ」に特徴的なことです。ただ、そのイメージを用いた説明を読んでいると、どうしても読んでいてout〔aut〕と言う発音と「内部から外部への動き」というイメージが一体のもののように思えてきます。
言葉がそれにまつわるイメージと切ってはきれないことはソシュールさん(丸山さん)の考えと同じですが、私には、どうしても〔aut〕という語感と「内部から外部への動き」というイメージが必然的に結びついてoutという言葉ができたように思うのです。つまり、音と意味との間に必然的な関係があるように(大西さんの本を読むと)感じてしまうのです。
しかし、ある音と意味との間に必然的な関係があるという考えはソシュールさん(丸山さん)の考えとは正反対のものです。ソシュールさんによれば、outという言葉の意味も、あくまでinやoffなどのほかの言葉との差異によって決定されます。「外部への動き」のイメージも、「内部への動き」「上への動き」「下への動きといった他のイメージとの差異によってその輪郭が決定されます。その輪郭の画定においては、〔aut〕という自然音はなんら役割を果たしません。
『ソシュールの思想』を読んでもわからないのはここです。自然音と意味との間に必然的な結びつきはないと書かれているのですが、ではなぜある自然音が採用されるようになったのかについては何も言われていないからです。
私の読み落としの可能性もあります。しかし、言葉がイメージ作用・感覚作用もつのであれば、そのイメージ・感覚に音が影響するのは必至のようにも思えます。音は必然的に感覚に変化を生むからです。
ソシュール(丸山さん)の考えに従えば、もし自然音が意味形成に役割を果たすのであれば、誰でも外国語を自然に理解できるはずだ、という反論が聞こえてきそうです。丸山さんは次のように述べています。
「…言語の持つ必然性は、いわば社会制度のもつ強制力という意味での必然性であって、自然のなかに見出される必然性とはまったく異質なものであることを忘れてはならない。
もう一度、ごく身近な状況を想定してみよう。ここに自国語しか解さぬフランス人とイギリス人と日本人が同席したとする。そこで、連続的にガラスを釘の先でひっかくような物理音が聞えると、三人とも一様にその「不快音」に生理的反応を示し、顔をしかめるとか耳をふさぐに違いない。
ところがMerede!とかCon!という音声に反応するのはフランス人だけであろうし、God damm!という音声を聞いて顔をしかめるのはイギリス人だけであろうし、同じように日本語で卑猥な言葉が吐かれた時に顔を赤らめるのは日本人だけであろう。
前者のガラスの音は、その物理音そのものが不快な自*然*的*性質をもっているのに対し、後者の言語音は、《コトバの意味》を担っているという限りにおいて、不快な社*会*的*性質を持っているからにほかならない。もともと〔kɔ〕という音のイメージには、それと必然的に結ばれる意味を離れては、何一つ不都合な性質をもっているわけではないのである。…言語が必然的なのは、それが恣*意*的*である限りにおいてなのである」(p.151 段落の区切りは涼風)。
outが「外へ」という意味を持つのも、恣意的に英語圏の人がoutという自然音あるいは文字と「外へ」というイメージを結びつけたことによります。しかしそこで〔aut〕という音が選ばれた理由は、ソシュール理論では説明できないし、正確に言えば説明してはいけないことになっています。おそらくソシュールさん(丸山さん)の考えでは、「社会的にそう形成された」という以上のことは言えないからです。丸山さんは次のソシュールの言葉を引用しています。
「言語記号は恣意的である。与えられた聴覚映像(音が喚起するイメージ 涼風)と特定の概念を結ぶ絆は、そしてこれに記号の価値を付与する絆は、根底的に恣意的な絆である。…記号は恣意的である。つまり、たとえばsoeur(姉妹)という概念は、いかなる性格、いかなる内的関係によっても、これに対応する聴覚映像を形成する一連のs+ӧ+rという音とは結ばれていない」(p.144)
物理音と意味との間に必然的な関係はないというソシュールさん(丸山さん)の考えに対し、私は大西さんの一連の著作を読んで、むしろ音と意味との間に結びつきがあるような感覚を覚えました。単語を発音するときに醸し出されるイメージ・感覚と意味とが密接に結びついているように感じたのです。
しかし、この結びつきを「論証」することはきわめて困難です。先にも述べたように、音が意味と必然的に結びつくのであれば、人は外人の話し言葉を聞けば自然に意味を理解できることになるからです。
また、音が意味と必然的に結びつくのであれば、今度はなぜその音がその意味と「必然的に」結びつくのかという理由を見つけなければなりません。もし〔aut〕という発音が「外部へ」というイメージと「必然的に」結びつくのであれば、その必然性を保証するものは何かという問題が持ち上がります。そうなると、言えるのは、「神がそのように音と意味を形成した」としか言えなくなるからです。
こういうふうに考えると、ソシュールさん(丸山さん)の考えはとても論理的で整合的に思えます。ただ、逆に言うと、「整合的」「論理的」に考えるからソシュールさん(丸山さん)のような発想が出てくるのだと言うこともできます。
この『ソシュールの思想』では、ソシュールさんの伝記が少し書かれていますが、なぜソシュールがこのような共時的な言語分析の方法を考え出したのかについては何も書かれていません。まるで、突然ソシュールさんはその考え方を発明したかのようです。つまり、彼がどのような知的背景の下で革新的な考えを生み出したのか?何に強く影響されてその考えを生み出したのかについては説明されていません。
わたしにも推測の仕様がありませんが、ただソシュールさんが何かを現実の事象を説明するのに「原因」となるもの、実体的なもの、神のようなものを措定する考えを激しく拒否しているのは明らかです。そのような知的モードは当時の無視できない潮流だったでしょう。
そのような知的傾向の影響にさらされた以上、ソシュールさんが言語分析の新しい考えを生み出そうとすれば、物理音と意味との「必然的」な結びつきという考えは「論証不可能」なものとしておそらく最初から検討の対象にさえならなかったかもしれません。言い換えれば、ソシュールさんの思想は、言葉を観察した結果生まれたのではなく、言葉について論理的に考えた結果うまれたものかもしれない、そんなふうにも思います。
わたしはここでソシュールさんの考えを反駁しようとも思わないし、そんなこともできません。ただ、ソシュールの考えが「論理的思考」の産物である以上、論理が先行しているがゆえに、一般の人たちの言葉に対する実感とはかけ離れざるをえないのは事実だと思います。一般の人たちの言葉に対する実感(とわたしが推測するもの)とは、ある物理音の連なりが生み出す感覚への作用が意味と結びついているという考えです。
たとえば、「ありがとうございます」という言葉を昼夜を問わず唱え続けることでがんが治ったという話は多くの本に書かれています(例えば『続 気楽なさとり方』宝彩有菜著)。
言葉とイメージとのつながりという考えに従えば、それは自然なことです。「ありがとうございます」という言葉には感謝というイメージがあるからです。
ただソシュールさんの考えをつきつめると、この感謝のイメージが「ありがとうございます」という物理音である必然性はありません。それは他の言葉であってもいいはずなのです。ただ日本社会の歴史においては、「あ」「り」「が」「と」「う」「ご」「ざ」「い」「ま」「す」という音の恣意的な切り取りと感謝のイメージが結びつきました。
ただわたしには、これは本当に恣意的だったのだろうか、という一抹の疑問もあります。「ありがとうございます」と口にすると、誰でもあたたかいものを感じますよね。それは「ありがとうございます」のイメージが喚起しているといえますが、同時にそれら「あ」「り」「が」「と」「う」「ご」「ざ」「い」「ま」「す」という音の連なりに一種の音楽のような作用があって、その音楽の作用があるからこそ感謝のイメージを表す言葉として採用されたという考えはできないのかな?と思ったりもします。
もっともソシュールの考えに従えば、その「音楽的作用」すら、言語の秩序によって作られた私たちの感覚の産物である、と言えるのかもしれません。つまり、音楽を理解する私たちの感覚もまた、言葉の秩序が編み出したのかもしれません。
なんだか、まとまりのない文章になってしまった(笑)。
この『ソシュールの思想』は本当はもっと緻密にソシュールさんの思想を解説している本です。簡単とはいえないかもしれませんが、難しい本でもありません。「ソシュール」という名前を知っていてもそれ以上はよく知らなくて、でも興味がある方には面白い本だと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
涼風
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