画家で「悟り」に関するエッセイを多数執筆されている宝彩有菜さんは、わたしたちの悩むこころをよくするための方法の一つとして、言葉の力を活用することを教えてくれています。
わたしたちが悩むのは、頭・思考が自分にとって不都合な事態を語っていることに由来します。「○○が起きるかも」と思考が勝手に働くことで、わたしたちは不安に陥ったりします。
そういうときに、たとえば「ありがとうございます」という言葉を口にすると、わたしたちの頭は勝手に「何がありがたいのか」を考え出したり、「そうか、ありがたいことが起こったのだな」と認識したりします。
そのとき実際にありがたいことが起こったかどうかは重要ではありません。重要なのは、「○○が起きるかも」と勝手に想像している思考の動きを改善することにあるからです。「ありがとうございます」と口にすることで、「○○が起きるかも」と語っている思考の動きをそらし、「そうか、ありがたいことが起こったのだな」という方向に思考を向けるようにします。
わたしは以前から宝彩さんの著作には親しんでいましたが、それを有効に実践できているかとなると、今まではちょっと心もとない感じでした。ただ最近は、「ありがとうございます」と口にしたときに、思考の方向が変わって「そうか、ありがたいことが起こったのだな」と頭が認知しているような感覚を以前よりも感じるようになりました。
この感覚は楽しいし、同時に言葉の力というのは面白いなと思います。「考え方を変えることが大切」とはよく言われますが、「ありがとうございます」と口にすることで思考の方向は変わるという事実は、じつは思考というのはシンプルなメカニズムなんだな、と思わせます。
シンプルだからこそ、ネガティヴな方向にいったん働きだすと止まらなくなるし、その癖が積もり積もると、治すのも大変ということになるんですね。
きょうは、「ありがとうございます」というのとは別の言葉を試してみました。これも宝彩さんが著書でよく薦めている言葉で、「わたしは、わたしのままで大丈夫」というものです(例えば、『なりたい自分になれる』より)。
歩きながらこの言葉を口にしてみました。慣れないせいか、ちょっとヘンな感覚です。「わたしのままで大丈夫」と言うと、なんだか「他の人がどうであろうと、わたしはわたしでいい」と言って、独りでいようとするような感覚に最初はなりました。悪くない感覚ですが、すこしさびしい感覚もしました。
ただ、それでも口にし続けていると、「わたしは大丈夫なのだ」「大丈夫とはどういうことだろう?」「大丈夫だからわたしは理想の人なんだ」「わたしは今のままでいい人間なんだ」「わたしはもうこのままでいいんだ」と、色々な思考が駆け巡りました。
駆け巡ってはいるけど、それほど悪い気分にはなりませんでした。むしろ、もうじぶんは、他人を批判する必要がないような感覚になりました。なぜなら、わたしは今のままでもう十分な存在なのですから、他人を批判したりして自分の正しさを証明したりする必要がないからです。
「わたしは大丈夫」という認識とは、そういう意味も含むものなのかもしれません。つまり、じぶんが十分な存在であると認識している人は、自分のなかにイノセンスしか見ないので、他人の欠点をあげつらう必要がなくなるのです。
これは、何も悪いことをする人を野放しにするということとは違うような気がします。泥棒さんはいなくなるような社会にしたほうがいいし、政治家さんには今よりいい政治をしてもらう方がいいでしょう。またそのために言いたいことがあるときは、言ったほうがよいでしょう。
ただ、それとはべつに、自分の正しさを証明するために他人を批判・攻撃する、つまい「正しい」ことを間違った動機でするということを、自分が十分な存在であると認識している人はしないのではないだろうか、と思いました。今書きながら、そう思いました。
正しいことを正しい動機でするとは、自分のなかにイノセンスを見出しながら、よいと思ったことを言うorするということです。
逆に、正しいことを間違った動機でするというのは、自分は罪深い存在だと思い込み、また自分の罪深さを他人にも投影して、自分と他人を攻撃しながら、正しいことを主張することです。
「わたしは、わたしのままで大丈夫」と思うことは、上手くいった場合には、じぶんのイノセンスを認識することにつながるのかもしれません。「しれません」と言うのは、わたしはまだこの言葉をうまく使いこなしていないような気がするからそう言うのですが。
ただ、「わたしは大丈夫」という言葉をイメージすると、つまり「大丈夫な人」というものをイメージすると、「愛にあふれた人」というものが頭に浮かんだ瞬間がありました。「愛」なんて言葉はこっぱずかしいですが、なんだかそんな気がしました。
「愛」について心理学者博士のチャック・スペザーノさんは次のように言っています。
「今日のあなたは、『愛』の親善大使であり、『愛』の吟遊詩人です。『愛』こそが本当の現実であり、その喜ばしい知らせをあたながもたらすのです。今日一日を自分自身への『愛』でいっぱいにしましょう。そうすると『愛』が溢れ出し、あなたを通して他の人達にも『愛』が降り注がれるでしょう」(『Dr.チャック・スペザーノのセルフ・セラピー・カード』より)
「大丈夫な人」、つまり完璧な人とは、こういう存在のような気がします。「わたしは、わたしのままで大丈夫」と唱えることで、自分はすでに愛にあふれた人間のように思った瞬間がありました。
その瞬間はずっと続いたわけではなく、べつの思考がわき起こっても来ました。でも、この愛にあふれた人というのも、素敵なイメージだと思います。言葉をつぶやくことで、このイメージを思い描けたら、素晴らしいと思います。
涼風
わたしたちが悩むのは、頭・思考が自分にとって不都合な事態を語っていることに由来します。「○○が起きるかも」と思考が勝手に働くことで、わたしたちは不安に陥ったりします。
そういうときに、たとえば「ありがとうございます」という言葉を口にすると、わたしたちの頭は勝手に「何がありがたいのか」を考え出したり、「そうか、ありがたいことが起こったのだな」と認識したりします。
そのとき実際にありがたいことが起こったかどうかは重要ではありません。重要なのは、「○○が起きるかも」と勝手に想像している思考の動きを改善することにあるからです。「ありがとうございます」と口にすることで、「○○が起きるかも」と語っている思考の動きをそらし、「そうか、ありがたいことが起こったのだな」という方向に思考を向けるようにします。
わたしは以前から宝彩さんの著作には親しんでいましたが、それを有効に実践できているかとなると、今まではちょっと心もとない感じでした。ただ最近は、「ありがとうございます」と口にしたときに、思考の方向が変わって「そうか、ありがたいことが起こったのだな」と頭が認知しているような感覚を以前よりも感じるようになりました。
この感覚は楽しいし、同時に言葉の力というのは面白いなと思います。「考え方を変えることが大切」とはよく言われますが、「ありがとうございます」と口にすることで思考の方向は変わるという事実は、じつは思考というのはシンプルなメカニズムなんだな、と思わせます。
シンプルだからこそ、ネガティヴな方向にいったん働きだすと止まらなくなるし、その癖が積もり積もると、治すのも大変ということになるんですね。
きょうは、「ありがとうございます」というのとは別の言葉を試してみました。これも宝彩さんが著書でよく薦めている言葉で、「わたしは、わたしのままで大丈夫」というものです(例えば、『なりたい自分になれる』より)。
歩きながらこの言葉を口にしてみました。慣れないせいか、ちょっとヘンな感覚です。「わたしのままで大丈夫」と言うと、なんだか「他の人がどうであろうと、わたしはわたしでいい」と言って、独りでいようとするような感覚に最初はなりました。悪くない感覚ですが、すこしさびしい感覚もしました。
ただ、それでも口にし続けていると、「わたしは大丈夫なのだ」「大丈夫とはどういうことだろう?」「大丈夫だからわたしは理想の人なんだ」「わたしは今のままでいい人間なんだ」「わたしはもうこのままでいいんだ」と、色々な思考が駆け巡りました。
駆け巡ってはいるけど、それほど悪い気分にはなりませんでした。むしろ、もうじぶんは、他人を批判する必要がないような感覚になりました。なぜなら、わたしは今のままでもう十分な存在なのですから、他人を批判したりして自分の正しさを証明したりする必要がないからです。
「わたしは大丈夫」という認識とは、そういう意味も含むものなのかもしれません。つまり、じぶんが十分な存在であると認識している人は、自分のなかにイノセンスしか見ないので、他人の欠点をあげつらう必要がなくなるのです。
これは、何も悪いことをする人を野放しにするということとは違うような気がします。泥棒さんはいなくなるような社会にしたほうがいいし、政治家さんには今よりいい政治をしてもらう方がいいでしょう。またそのために言いたいことがあるときは、言ったほうがよいでしょう。
ただ、それとはべつに、自分の正しさを証明するために他人を批判・攻撃する、つまい「正しい」ことを間違った動機でするということを、自分が十分な存在であると認識している人はしないのではないだろうか、と思いました。今書きながら、そう思いました。
正しいことを正しい動機でするとは、自分のなかにイノセンスを見出しながら、よいと思ったことを言うorするということです。
逆に、正しいことを間違った動機でするというのは、自分は罪深い存在だと思い込み、また自分の罪深さを他人にも投影して、自分と他人を攻撃しながら、正しいことを主張することです。
「わたしは、わたしのままで大丈夫」と思うことは、上手くいった場合には、じぶんのイノセンスを認識することにつながるのかもしれません。「しれません」と言うのは、わたしはまだこの言葉をうまく使いこなしていないような気がするからそう言うのですが。
ただ、「わたしは大丈夫」という言葉をイメージすると、つまり「大丈夫な人」というものをイメージすると、「愛にあふれた人」というものが頭に浮かんだ瞬間がありました。「愛」なんて言葉はこっぱずかしいですが、なんだかそんな気がしました。
「愛」について心理学者博士のチャック・スペザーノさんは次のように言っています。
「今日のあなたは、『愛』の親善大使であり、『愛』の吟遊詩人です。『愛』こそが本当の現実であり、その喜ばしい知らせをあたながもたらすのです。今日一日を自分自身への『愛』でいっぱいにしましょう。そうすると『愛』が溢れ出し、あなたを通して他の人達にも『愛』が降り注がれるでしょう」(『Dr.チャック・スペザーノのセルフ・セラピー・カード』より)
「大丈夫な人」、つまり完璧な人とは、こういう存在のような気がします。「わたしは、わたしのままで大丈夫」と唱えることで、自分はすでに愛にあふれた人間のように思った瞬間がありました。
その瞬間はずっと続いたわけではなく、べつの思考がわき起こっても来ました。でも、この愛にあふれた人というのも、素敵なイメージだと思います。言葉をつぶやくことで、このイメージを思い描けたら、素晴らしいと思います。
涼風
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