VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

本当に毎日、神想観を実修していますか

2015-05-04 00:18:21 | 生長の家

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


 米国光明思想家 グレーン・クラーク氏 の祈りは

 『神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え』 (Lord fill me with Thyself) と云うのであります。 

 デイヴァイン・サイエンスのヘンリー・ヴイクター・モルガン氏と協同して光明思想を宣伝している英国チチエスター市のヘンリー・トマス・ハンブリン氏の著書にも同じ言葉が書かれています。 

 メタフィジカル・ヒーリングでは、神の生命をわが内に流れ入らせて、神に任せ切ってしまえばもう我の計いで思い煩うことは要らないのです。 「わがわざはわが為すには非ず」 して、おのずから神の祝福の中にある自分を見出すことが出来るのであります。

 それは生長の家の招神歌第一首の 『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神、元つみたまゆ幸へ給へ』 と云う所と全く一致するのであります。


 招神歌は自分のみで実修するときは高声で朗唱する必要はありません。 『生きとし生けるものを生かしたまへる神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え』 と云う心で念ずる。 そして静かにその文句を繰返し念じて、今ここに神の生命が生きているのだ。 自分が生きているのではない、神の生命が生きているのだ。 有難う御座います、有難う御座いますと云う心になるのであります。

 その気持は唯感謝感謝だけで他の気持は何もなくなるべきであります。 何とか他に自分の註文をして、祈りをしなければ効かんように考えたり、神様も私の願いに気がつかないかも知れない、私を忘れていらっしゃるかも知れないなどとか思って 『神よ吾を覚え給え』 などと祈る宗教もありますが、之では神を信じていることにはならないのです。

 本当の信仰は、神様に全部まかす。 神様に全然『自分』と云う牙城を明け渡すのです。 すっかり神様に城を明け渡してしまって 『今神様のみがここにまします』 と深くそれを思念する心境に達するのです。

 『わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命』 と云う、招神歌の第二首がそれであります。 

 この歌の心を深く繰返し念じます。 すると、自分の生きているのが自分の力でないことが判るのですから、わが一挙手一投足が神様の御心のままでありますように、自分の生活の一瞬一刻が、神様の生活の一瞬一刻でありますように、斯う云う心が起ってまいります。 そうすると神の生活が、吾々の一挙手一投足にあらわれ、生命の世界の素晴らしい荘厳さが生活に、今此処に内からの催しと、外からの催しとで実現する境に達するのであります。

 尤も神様は自由でありますから、その生活はどんな形で現われるかも知れない。 それは吾々の予想しないような順序を以って外の境遇から推し進めて来られるかも知れない。 どんな風に現れて来ようとも、‘至善なる神様からは悪いこと出てくる筈がない’若し悪く見ゆることが出て来たなら、吾々の過去の方向の間違った生活又は心が転回する為の自壊作用として現れるのであって、吾々は決して恐れることは要らないのです。

 悪と見ゆることは皆迷いの自壊する為に現れるのであります。 それは唯真理が実現する為に出て来るのであります。 それは恰も今まで間違った方向に歩いていた者が壁に打衝かって自から向きが変るようなものである。 悪いことは自然に消えてゆくのです。 出て来ること、皆よい事だと信ずるのが、神への全托であり、自分がなくなる事であります。 そうなると何でも有難く何でも美しく、何にも求めるものがなく、任せ切りの本当に澄み切った心境になるのであります。 


 何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。 神は総ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。 自分は幸福であるより仕方がない、自分の周囲には有難いことしか起りようがない、自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると感じられる心境に達するのであります。

 その心境を呼び出す歌が第三首目の招神歌  『わが業はわが為すに非ず、天地を貫きて生くる御祖神の権能』  であります。

 自分が為すのは、神が為し給うのだと云う心境です。 神我一体です。 神我一体になるためには、『我』と云うものがあって、『神』と対立していて、この二つが結びつくのでは駄目です。 自分を全然、神にまで自己滅却して、神への無条件降伏をなしたとき、進駐軍が入ってくるように神が入って来て、神のみになってしまってそのときに出て来る 『我は全智全能で何でも出来る』 と云う大きな自覚こそ本当であり、『我』が残っていて 『我は全智全能だ、何でも出来る』 と、考えたら増上慢であります。

 だから吾らの祈りは 『神の生命を吾に流れ入らしめ給え、吾に神の生命を、智慧を、愛を、実現せしめ給え。 私の一挙手一投足が、神様、あなたの生命の実現でありますように』 と云うようでなければならない。

 此の無我の祈りを繰返しているうちに、『神我れに宿り給うて我れとして神のみ業を為さしめ給う』 と云う自覚が出て来て、神と全く和解した心境になるのであります。 神と対立している間は、神に対してまだ本当に和解していないのであります。 神への無条件降伏による神への全的和解の行事が神想観なのであります。

 第四首目の 『天地のみ親の道を伝へんと生れましし、生長の家の大神護りませ』  は、神想観実修の途中の心境中、悪魔の憑依などの障礙の起らないように生長の家の神様の御降臨を願う歌であります。


 皆さんは本当に毎日神想観を実修していらっしゃいますか。 1日でも神想観を止めては可けません。 誌友の中には教法を聞いたり、聖典を読んだり、或は神に就いて議論を戦わしたりするのは好きだけれども、神想観をやるのは好きではないと云う人があります。 以ってのほかです。 吾々は毎日神想観を修して神と離れない心境になることが必要なのです。 でなければ、何時の間にか神様から離れた利己主義的な自分と云うものが出来上ってしまうのです。 

 吾々の日常生活と云うものは、『対立』と見え、『個我』と見え、『物質』と見える世界に棲んでいるのですから、どうしてもそう云う誘惑と暗示に満ちた世界であります。 その誘惑と暗示を放って置いてはいけないのです。 吾々は1日の中、少なくとも1時間以上は 〈これを30分づつ朝晩に分けても好い〉 神の方へすっかり心を振り向ける時間を作らなければならないのです。 その為に神想観はどうしても必要なのです。



     『白鳩』誌  昭和22年5月号 より

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