VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

『神への道しるべ』 にふれて 『甘露の法雨』 千六百巻写経

2015-04-14 18:56:21 | 生長の家

          生長の家東日本光輪百人賞   鎌  豊 松



 私は13歳 (明治39年) の時に、東京へ丁稚奉公に出て、その時分にキリスト教の街頭演説を聞いたり、『内村鑑三と力のニーチェ』 という本を読んで、講演なども聞いたが、あの内村鑑三先生は無教会主義だったけれども、日本では “武士道的なキリスト教” と言われて 「キリストは単なる愛ばかりじゃない」 と説いて 「義なるキリスト」 を強調されたが、今考えると、私は内村先生の正直な人柄に魅かれてキリスト教に入ったんですね。

 けれどもキリスト教の教えの方は、日本の國體にどうしても合わない。 日本は結局、イザナギ・イザナミの神国であることから、約14年続けたキリスト教とはキッパリ縁を切って、今度は、御嶽山の行者に師事して “妙見坊” という名前まで貰いました。 こちらは神道ですから、あの “高天原に神つまります ・・・ ” という禊祓の祝詞は、今でも毎日神前で唱えています。


 あれは昭和15年頃でした。 やはり織工の募集で、南信の飯田へ行った時に 『神への道しるべ』 という谷口雅春先生が書かれたパンフレットを、当時8銭で頒けて貰って読んだのが始まりです。 読んで見て驚いたですよ。

 「人間は神の子であって、本来病気もなけりゃ、罪もない」  とある。

 キリスト教では神があって、罪があって、罪がなけりゃ救いが出来ないと言うが、生長の家は本来 “罪なし” と断ち切って、完全円満な神様一本でしょう ― だから、それから世間様を見る眼が変って来て、これこそ本物だと信じた。

 そうするうちに、岡谷に 木村周吉先生 という生長の家の講師がおられて、私はその先生について、教えの実際を学びました。

 木村先生は熱情をもった、しかも厳しい先生でしたな。 もう終戦後ですが、先生は生長の家の御本を一杯背負って、ラシャの服に長靴をはいて、南信をくまなく歩いて布教されたですよ。 私はそのお手伝いをしましたが、いきなり病人の寝ている家に派遣されて始めはとまどったが、先生に指導されるのを真似ながら、 聖経『甘露の法雨』 を一所懸命誦げましたね。 すると皆さんが病気から立上ったり、ノイローゼが消えたり、随分と奇蹟が出ましたね。 そうした人達の中から、現在の生長の家長野県の幹部が生まれて、私は古いから皆さんと御縁があります。


 仏教の方では、よく坊様が般若心経276文字を写経していなさるが、生長の家では一体何が大事かと考えた時、“大きくは国家の大病を癒し、小さくは個人の病いをもいやす” ともいわれている 聖経『甘露の法雨』 を写経しようと思いたったですわ。

 もうこのお経は、生長の家の教えの基ですしな、今までに数々の救いを頂いた、その報恩感謝をこめて、昭和43年から始めて、今までに 千六百十六巻 の写経をした。

 そのキッカケというのは、実は私は昭和31年に生長の家の地方講師になって、教えもかなり解って、人様の病気を癒したけれども、40年頃から肝臓を悪くしてしまったので、夫婦して、信濃練成会を受けました。

 この練成会で、藤原敏之先生 と 末井勉先生 の “人間・神の子病なし” のお話を聞いて、本当にズバリと既に完全円満な 「神の子」 が解って肝臓の悪いのも消えていたんですね。

 こうした体験をしてから聖経はただ毎日読誦するだけでは、私の場合は、その深い真理を把握出来なかったことを反省して、やはり何回も何回も写経することによって、より深く真理を体得しようと思ったんですわ。


 最初の一千巻は冊子にボールペンで写経しましたが、千一巻目からは毛筆で写経して、これは掛軸にして、現在六百十六巻になりました。

 はじめは、一巻 〈7884字〉 を写経すると1週間はかかった。 一字一字精魂こめて書くからね。 そいで今まで写経した冊子や掛軸は、縁ある方々にみな上げているのですが、その人達がみな喜んで、そうすると不思議なことが起るですよ。

 『甘露の法雨』 の中にあるように、やはり、人間は本来は霊であって、肉体じゃないですな。 元来が、人間は円満完全な神様の世界に生かされていて、その他の何ものでもないですわ。 今、私が毎日服膺している言葉があるんです。 それは 谷口雅春先生 が紹介された R・E・デーヴィス さんの 『無限の宝庫を開く』 〈鶴田昌世訳、日本教文社〉 という本の中にあるんです。

 「神意識に住するわが信仰、われに実現せよ」 ― このわずかな聖句を言葉に出して宣言するだけでよいのである  ――  と書かれていますね。


 あの写経を私がずっと続けていますと、ふと神意識になる ・・・ 外に神様がいて拝むんじゃなくて、自分が神様と一つになる。 そうすると、今度は自分が写経するんじゃなく、神様がする ― はじめは自分が写経していると思っているけれど、実は神様が写経して下さると感ずるんです。 本当に有難いことですわ。



     『光の泉』  昭和58年12月号 より

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